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無意識に聖女を追い出した家族が今さら助けてほしいと泣きついてきました 〜でも、あなた方が私に与えた絶望はもう癒えることがありません〜

作者: リーシャ
掲載日:2026/02/22

 目が覚めると見慣れない天井があった。いや、見慣れないというのは少しだけ違うかもしれない。

 どこか懐かしいような、それでいて初めて見るような不思議な感覚。


「ミーシュ、起きたの?」


 優しい声が聞こえてゆっくりと目を開けた。心配そうに見つめる女性の顔。ふわふわとした金色の髪に吸い込まれそうな青い瞳。


 お母さん。そう、お母さん。でも、お母さんじゃない。

 知っているお母さんはもっと、なんていうか……現実的で疲れていて少しだけ諦めたような目をしていた。


 そうだ、ここは異世界。ミーシュという少女として生きている世界。優しい金髪の女性が新しいお母さん。


 今の自分は前世の記憶を持っていた。どこにでもいるような女の。同じような母子家庭で二人で慎ましく暮らしていた。


 母を残し事故に遭って気が付いたらここに。最初は混乱した。でも、ミーシュのお母さんは心から愛してくれたから。

 元の世界で感じていた、どこか満たされない気持ちや孤独感を埋めてくれるような優しさで包んでくれた。

 だから決めたのだ。ミーシュとして精一杯生きようって。母を、幸せにしようって。


「ミーシュは、本当に優しい子ね」


 今世のお母さんはいつもそう言って頭を撫でてくれた。この世界に来てから少し変わった力があることに実は気づく。小さな怪我を治したり、枯れた花に活力を与えたり。

 勿論、最初は誰にも言わなかった。もし変な目で見られたらお母さんに迷惑がかかるんじゃないかって怖かったから。


 でも、ある日お母さんが高熱を出して倒れた。医者にも見放されるほど重い病気。このままではと告げられた時、もう、どうにでもなれと力を開放。


 温かい光が手から溢れ出して、お母の体を包み込む。苦しそうだった表情がみるみるうちに穏やかになっていく。

 数日後にはすっかり元気になった笑顔で隣に座っていた。


「あなたはね、ミーシュ……あなたは、えっと、聖女なの」


 その日から生活はがらりと一変した。迂闊に病気を治したことがどこからか国に伝わり、王都に呼ばれる。

 正直、怖かった。お母さんが「ミーシュの力は、たくさんの人を救えるわ」と優しく背中を押してくれたから覚悟を決める。


 連れてこられたのはあっという間。王宮での生活は何もかもが初めてのことばかりだった。豪華な装飾品。美味しい料理。常に取り囲む人の視線。


 最初は戸惑ったけれど聖女として与えられた使命を全うしようと努力した。病気の人を癒し、傷ついた人々を助ける。

 力が誰かの笑顔に繋がることを実感するたびに、存在意義を見つけられたような気がした。

 それは、自分だけが感じる気持ちではなく、誰でも起こりうる優越感のようなものなのかもしれない。

 その間、肝心のお母さんは隣にいてくれた。


「ミーシュは、本当にすごいわ」


「娘が聖女様だなんて、誇らしいわね」


 すごく、ホッとしたけど。王宮の人や、貴族たちは崇め奉ると同時に母にも優しく接してくれた。聖女の親として特別な扱いを受けた。とってもチヤホヤ。


 良い服を着せられ、美味しいものを与えられ。毎日、楽しそうに笑っていた。なんの苦労もなく喜んでいる姿を見るのは、嬉しい。

 ずっと苦労している姿を見てきたから、今、こうして幸せそうにしているお母さんを見るたびに安堵していた。

 この力は、幸せにするためにある。そう、心から信じていた。


 信じていた、のに。聖女としての仕事は多忙を極めた。毎日のように助けを求める人々が元を訪れる。

 時には危険な場所へ赴き、魔物によって傷つけられた人を癒すことも。それでも弱音を吐かなかった。あの人の笑顔が原動力だったから。それが、いけないことだったのか?


 ある日のこと。聖女の仕事が終わって自室に戻ると、珍しく母はいなかった。いつもなら戻ってくるのを待っていてくれるのに。


「どうしたんだろう?」


 少し心配になって侍女に尋ねてみた。


「あぁ、奥様でしたら、最近よくいらっしゃる騎士団長のエルン様とお話ししていますよ」


 騎士団長のエルン。彼を知っていた。真面目で仕事熱心な人。たまに、魔物の討伐に行った時に護衛として同行してくれることもある。お母さんとエルン様が話?

 特に気にせず着替えを済ませて、探しに行った。たどり着いた時には疲れもあったのかため息を吐く。


 顔を上に上げた時の光景に目を細める。中庭の隅にあるベンチに座ってエルン様と楽しそうに話していた。ふふふ、と笑って。二人とも、顔を近づけて、ひそひそと何かを話している。


「お母さん?」


 声をかけると、二人はハッとしたようにこちらを向いた。お母さんの顔が少し赤くなっているように見えたのは気のせい?


「あ、ミーシュ。お帰りなさい」


 いつものように、優しい笑顔で迎えてくれた。エルン様も「聖女様、お疲れ様です」と頭を下げる。特に何も変わったことはない。


 首を傾げた。違和感はその日を境に膨れ上がる。次の日も、その次の日も母とエルン様が二人きりで話している姿を目にすることが増えた。


 最初は、ただの世間話だと思っていたけれど。でも、二人の間に流れる空気が少しずつ変わっていくような気がした。

 お母さんは以前よりも楽しそうに笑うようになった。自分と二人でいる時よりももっと弾けるような笑顔で。


 どこか、認めたくないことがじわじわと迫って来る。

 ある夜、一人、自室のベッドに横たわっていた。聖女の仕事はいつにも増して過酷で体はひどく疲れていた。それでも眠りにつくことはできなくて。隣の部屋から、女の声が聞こえてきた。


「エルン様……本当に、私で良いのですか?」


 エルンの声も聞こえる。


「もちろんです、奥様。あなたを愛しています」


 心臓がドクンと大きく鳴った。何を言っているのか理解が追いつかない。


「でも、私にはミーシュが……大切な娘なのです」


 お母さんの声は少しだけ躊躇っているようだ。


「ミーシュ様は、聖女様です。お一人でも十分にやっていけます。それに奥様には、奥様の幸せを追求する権利があるはずです」


「それは……そ……そう、ですね」


 お母さんの声がどこか遠く感じた。信じたくない。聞きたくない。耳を塞がないと。でも、勝手に二人の会話を拾い続ける。


「近いうちにミーシュ様にもお話ししましょう。我々の結婚について」


 結婚?

 頭が真っ白になった。お母さんが、結婚?誰と?エルン様と?


 まさか、まさか。今まで娘のために生きてきたお母さんが、実子以外の誰かと新しい人生を始める?

 まだ、自分は親の保護下で育つはずの年齢なのに?


 心の中でぐちゃりと何かが音を立てて崩れ落ちた。翌朝、母はいつものように笑顔で部屋にやってきた。何食わぬ顔で。平気な顔で。


「ミーシュ、おはよう。今日はあなたに大切な話があるの」


 昨夜の会話を全て聞いたことを悟られないように、努めて平静を装った。笑え、顔。


「なあに、お母さん?」


「実はね、私、エルン様と結婚することになったの」


 声音は喜びと少しの申し訳なさで揺れていた。


「ミーシュが聖女になってから、たくさんの人から褒められて、とても幸せだったわ。でも、ずっと一人で寂しい気持ちもあったの。そんな時エルン様が、一人の女性として見てくれて。ふふっ」


 言葉は耳には届かなかった。心は凍り付いたように冷たくなる。ずっと一人じゃない。娘の己が居たのに。


「私のことはどうするの?」


 思わず声が出ていた。少し困ったような顔をされる。え?普通、この質問にそんな顔する?


「ミーシュは、聖女様でしょう?もう、一人前の大人よ。それに王宮にいれば、何も困ることはないわ」


 大人って法的に大人じゃない。


「じゃあ、用済みってこと?」


 声は震えていた。相手の表情が焦りの色に変わる。


「そんなことないわ!ミーシュは、大切な娘よ。でも、私も自分の幸せを考えてもいいでしょう?」


 今まで見たことのない顔を見る。知っている家族の顔じゃなかった。二人で幸せになろうね、と誓ったお母さんじゃなくなったのだ。


 自身を置いて自分の幸せを優先する母。前世の方のお母さんはいつも、一番に考えてくれていた。異世界でもこっちのお母さんと二人で生きていけると思っていた。


 なのに。




「そう。分かった」


 無理やり笑顔を作る。


「お母さんが幸せなら、それでいい」


 本心ではなかった。心の中は怒りと悲しみでぐちゃぐちゃ。それから、お母さんとエルン様の結婚の準備は着々と進められた。


 王宮の人達は聖女の母の再婚を祝福する。誰もが二人の幸せを喜んでいるらしい。自分の心だけがどこかに取り残されたよう。

 見ているのは辛い。今まで以上に聖女としての仕事に打ち込んだ。自分が忙しくすれば心の痛みが少しは紛れるのではないかと、思ったから。


 どんなに働いても働いても、心に空いた穴は埋まらなかった。突きつけられた現実は残酷で。お母さんとエルン様の結婚式は盛大に執り行われた。

 聖女として列席したけど。するしかない。幸せそうに微笑むお母さんと、隣で優しく手を取るエルン様。ぼんやりとした光景は悪夢のようだ。式が終わって一人、静かに自室に戻る。


「そっか、もう、私のお母さんは、お母さんじゃなくなったんだ」


 もう、何も期待しない。聖女として生きる意味は母を幸せにすることだったけど、その母は娘がいなくても自分で幸せを見つけた。

 ならば、私も自分のために生きよう。薄らぼんやりと景色がくすんで見えた次の日、国王に謁見した。


「陛下、私に、どうか聖女としての任務をより広範囲で与えていただけませんか」


 国王は提案に驚く。


「ミーシュ殿。そなたはすでに十分に務めを果たしている。無理をする必要はないぞ」


「いいえ、陛下。この力がもっと多くの人のために使われるべきだと考えます。どうか、私に国境の紛争地や病が蔓延する遠方の地へ赴くことをお許しください」


 申し出は国王にとって、まさに渡りに船だっただろう。聖女の力は国の発展と安定にとって、計り知れない価値がある。

 自ら遠隔地への派遣を望むなど、これほど都合の良いことはない。国王は少し考える素振りを見せた後、願いを聞き入れた。


 断る理由もないのだ。王宮での生活に終止符を打つことを決めた。そのことを告げるとお母さんは驚き、悲しそうな顔をした。


「ミーシュ、どうして?王宮にいれば不自由なく暮らせるのに」


「私には、もっとするべきことがあるの。この力は王都だけのためにあるわけじゃない」


 まっすぐ見つめて言った。


「お母さんもエルン様と幸せに暮らしてね」


 お母さんは何も言わなかった。ただ、手を握り涙を流している。その涙が心を揺さぶることはなかった。


 なんのために泣くのかよくわからないけど実の家族としては、冷酷だったかもしれない。

 相手と結婚することを相談することなく、結婚はすでに二人で決めていた。

 心はすでに限界。再婚からわずか数週間後に王宮を後にした。送り出すのは、国王とわずかな護衛の騎士たちだけ。


 お母さんは見送りに来なかった。来れなかったのかもしれない。馬車の窓から王都の街並みが遠ざかっていくのを眺める。聖女として覚醒し、親子で新しい生活を築こうとした。

 でも、全ては泡のように消えて。馬車が揺れるたびに心の中で、何かが切り離されていくような感覚があった。


「これでいい」


 心の中で呟いた。もう、誰かのために生きるのではない。私自身の意志でこの力を、この命を使う。

 新たな旅は独り立ちの旅。そのまま国境の紛争地へと向かった。そこでは魔物との戦いが続き、多くの人が傷つき、苦しんでいる。

 力は、最大限に発揮された。傷ついた兵士たちを癒し病に苦しむ人を救う。存在は皆に希望を与えた。


「聖女様、ありがとうございます!」


 感謝の言葉を伝える彼らの笑顔を見るたびに心は少しずつ満たされていく。

 ここでは母の娘ではなく、聖女としてやっと存在が認められた。その後も旅を続けた。


 遠方の村々を訪れ、魔物の脅威から人々を守ったり疫病を治癒していく。時には危険な目に遭うこともあったが、立ち止まらなかった。守るべきものができた。


 それは、誰か特定の個人ではなく、生きる全ての弱き人。

 他にも小さな村で子供たちに読み書きを教えていたりする。そこに、一人の旅の商人が立ち寄った。

 商人は、王都での出来事を伝える。ここまでは遠いから届かないことはよくあることだ。


「聖女様のお母様がご懐妊されたそうですよ。おめでとうございます」


 少しだけ驚いた。


「あ〜、そう、なんですね?」


 その感情はすぐに消え去ったが。母は好きに自分の選んだ道で幸せになっている。それはそれで良いこと。そうでしょ?

 今となっては、自分には関係のないことだ。商人に愛想笑いを向け、子供たちの顔を見て優しく微笑む。


「さあ、続きを始めましょう」


 もう振り返らない。あの日の、無意識の裏切りを忘れてはいけない。怒りや悲しみに囚われることはしないように、道を歩む。

 聖女として、ミーシュとして。自身の幸せを見つけるために。誰かに与えられるものではなく自らの手で掴み取るもの。もう求めることはないし、心ではとおに母を捨ていたから。


 聖女ミーシュが王都を去って数年が経った。王都は、以前と変わらず穏やかな日々を送っている。

 聖女の力は、ミーシュがいなくとも残された聖女候補たちがその役割を細々と担っていた。

 ミーシュほど圧倒的な力を持つ者は現れず、その穴は誰も埋めることができないことを王宮の誰もが知っている。身に染みて。

 そんな中、エルンと再婚したミーシュの母親メメリヌは念願の子を授かり、幸せの絶頂にいた。


 新しい夫エルンは以前と変わらずメメリヌを優しく愛し、二人の間には可愛らしい男の子が生まれている。


「エルン様、見てください。この子の笑顔……」


 メメリヌは生まれたばかりの我が子を抱きしめながら、幸福に浸っていた。我が子はもう一人いるのに瞳の中のどこにも存在しない。

 夫で騎士のエルンもまた、初めての子に目尻を下げ親としての喜びを噛み締めていた。二人の思い描く幸福は長くは続かなかったが。

 日常とは脆いものなのかもしれない。


「エルン様、様子が少し変なのですが」


 メメリヌの息子が突然、高熱を出した。


「気にするほどではないですよ」


 最初は軽い風邪だと思っていたが熱は一向に下がる気配を見せず、幼い体はみるみるうちに衰弱していった。二人は青ざめる。


「誰か、聖女を呼んでください!この子を助けて!早く!」


 メメリヌは半狂乱になって叫んだ。


 王都に残された聖女候補たちは幼い息子の病気を治すことはできない。彼女たちの力では患っている珍しい病には太刀打ちできなかったのだ。医者たちは首を横に振り、手の施しようがないと告げた。


「かの聖女様……ミーシュ様がもしここにいてくださったなら……なんとかなったのやも」


 誰かが呟いた言葉にメメリヌはハッとした。


「治癒能力っ」


 そうだ、ミーシュならば。あの子の力ならばきっとこの子を救えるはず。メメリヌはすぐにミーシュを探すよう、エルンに懇願。


「どうか、ミーシュを探してください!あの子の力なら、この子を救えます!」


 エルンもまた愛する子を救うため、必死にミーシュの行方を探した。娘のためにさえ、ここまでしてやった過去はないというのに一心不乱で。


 ミーシュは王都を去って以来、正確な足取りを残しておらず行方は杳として知られてない。王ならば知っているかも知れないが、平民の妻とただの騎士では会うことなど不可能。


 子は日ごとに弱っていく。高熱にうなされ小さな体は痙攣を繰り返す。愛しい息子の手を握りしめ、ただただ泣くことしかできない。

 その時、メメリヌの脳裏にあの日の幼いあどけなさを残す、ミーシュの顔がよみがえった。


「私のことはどうするの?」


 そう言って、傷ついた表情で自分を見つめていたミーシュの顔。自分はぽつんと置いて、新しい幸せに飛びついたことへの後悔の念が襲う。


「ミーシュ……!ごめんなさい……!」


 涙を流しながら何度もミーシュの名前を呼んだ。娘はもうここにはいないのに。

 騎士エルンもまた絶望の中にいた。愛する妻と愛する息子。幸福を自分の手で守りたかっただけなのに。

 彼は、自分が聖女に対して投げかけた言葉を思い出していた。


「ミーシュ様は聖女様です。お一人でも十分にやっていけます。それに、奥様には奥様の幸せを追求する権利があるはずです」


 あの時、自分は娘の気持ちを考えず、ただメメリヌとの関係を優先して孤独を、心の痛みを何も理解しようとしなかった。


「私のせいで……私のせいだ」


 エルンは自身の愚かさを悔やんだ。もし、あの時。もっと耳を傾けていれば。

 もし、あの時、相手との関係をもう少し慎重に進めていれば。時間は戻らない。


 たられば、は手遅れ。息子の命は今、風前の灯火。エルンは一つの決断を下す。


「メメリヌ、聖女ミーシュ様を探しに行く」


 メメリヌは驚いてエルンを見た。


「でも……あなたは、騎士団長として、王都を離れることは……」


「構わない。この子が死んでしまえば、生きる意味などない。たとえ職を辞することになろうともミーシュ様を見つけ出す。必ず」


 目は固い決意に満ちていた。メメリヌは夫の決心に涙を流す。その日のうちに、騎士団長としての職を辞し王都を去った。時間がそれほどないということなのだ。


 彼は向かったとされる国境の紛争地へ向かい、そこからさらに噂を頼りに足取りを追った。迷惑がられるかもしれない、ということを想像もしないで。


 荒れた道を歩き、危険な場所を通り抜け。必死に探し続けた。時には魔物と遭遇し、命の危険に晒される。

 それでも諦めなかった。見つけ出し、メメリヌと息子の元へ連れて帰る。それが、今の彼にとって唯一の使命だ。聖女はもう母親を求めていないという、想像もなく。


 エルンが王都を去って数ヶ月。メメリヌは息子を抱きしめ、ひたすらに祈る日々を送る。病状は悪化の一途を辿っていた。意識は朦朧とし呼吸も浅い。

 ひとりぼっちになった心は、絶望と後悔で満たされていた。


「今も、いれば……すぐに、頼めたのに。私がしっかりしていれば」


 きっと今も王都にいて、この場所でも聖女として皆に慕われていただろう。もし、自分が話を聞かず裏切らなければ、たった一人での孤独な旅に出ることもなく、ここにいて息子を救ってくれたはず。


 メメリヌは、自分の身勝手さが全てを壊したのだと悟った。そこに、助けないという選択肢を選ぶ想像はない。

 聖女の母としてチヤホヤされ、自分の欲求を満たすことしか考えていなかった自分。ミーシュの気持ちを顧みず、自分の幸せだけを追い求めた自分。


 結果が今ここにある。瀕死の息子と行方知れずの夫。メメリヌは食事も喉を通らず、眠ることもできなかった。


 息子の隣に座り、小さな手を握りしめるだけの日々。酷く孤独で。以前の幸福に満ちた笑顔とはかけ離れ、やつれ果てていた。


 髪は乱れ、目には生気がなく。聖女の母として王都で羨望の眼差しを浴びていたが、今や憔悴しきった一人の女。王都民は聖女の母の変わり果てた姿に、同情の目を向ける。


「可哀想」


「聖女様を捨てた罰だな」


「息子が病気なのですって」


「本当に悲しんでいるのかわからないぞ?なんせ、聖女を捨てられる母親だからな」


 陰口も耳に届く。言葉を否定することはできなかった。その通りだ、と心の中で呟く。母としてやってはいけないことをしたのだ。

 我が子は日に日に衰弱していく。その小さな呼吸がいつ止まってしまってもおかしくなかった。


 手を握りしめ、涙を流して娘に祈るしかなかった。だが……祈り虚しく、時は来てしまう。

 息子の小さな手が滑り落ちる。微かに動いていた胸が静かに止まり、何も言えなかった。呆然と目の前の現実を受け止めるしかなくて。


 愛しい息子を失った。自分の身勝手な行動が招いた、取り返しのつかない結末。全ての意識が絶望の淵に沈んだ。




 一方のエルンはミーシュを探す旅を続けていた。痕跡はたくさんあるのに途中で途切れてしまう広大な世界で一人の人間を見つけることの困難さを、痛感する。


 何度も諦めかけ、何度も挫けそうになった。それでも旅を続けた。妻と息子のために。何よりも母親を取り上げたことへの償いのために。


 ある時、とある村で聖女の噂を耳にした。


「聖女様なら、つい先日までこの村で疫病を治癒されていましたよ。今は、さらに北の山岳地帯に向かわれたとか。道を変えている可能性もありますがね」


 エルンの胸に希望の光が灯る。


「やっと、見つけたっ。ミーシュ様を!」


 疲れた体に鞭打ち、再び歩き出した。

 聞いたところへたどり着いた時、ミーシュはすでにいなかった。命を救う旅を続けていたから移動が早いのだ。

 もう、王都での生活や過去の出来事を振り返ることはなかった。彼女の心は新たな使命によって満たされていたから、道筋を辿る誰かがいることなんて全く知らないまま。




 一方、王都では息子を失ったメメリヌが、深い悲しみに沈んでいた。部屋に閉じこもり誰とも会おうとしない。

 食事もほとんどとらず、ただただ息子を失った悲しみと娘への後悔に苛まれる日々。健康はみるみるうちに悪化。


 動けず衰弱していき。やがて、メメリヌは息子の後を追うように、静かに息を引き取った。

 夫のエルンは探し続ける旅の途中で、妻と息子の死を知ってしまう。


「そ、そ、んな。バカな……」


 深い悲しみと絶望に覆われた。


「なぜ……」


 天を仰ぎ、叫んだ。聖女も見つけ出すことができなかった。妻と息子を守ることができなかった。全てを失ったエルンはそれでもいいと、娘を探し続けることに。


 彼にとってそれは、唯一の償いであり、生きる意味。本人は王都の過去を振り返ることはなかったが。彼女は選んだ道で多くの人を救い、居場所を見つけていた。

 それぞれの親たちは身勝手な選択の代償を、あまりにも大きく支払うことになったのだ。



 エルンが二人の死を知ってから、数年の月日が流れた。彼はミーシュを探し続ける旅を諦めてはいなかった。

 旅はもはや、連れ戻すためではなく彼女の安否を確認するためだけのもの。贖罪の旅は生きる目的そのものに。


 以前よりもさらに痩せ細り、顔には深い皺が刻まれていた。騎士団長としての威厳は消え失せ、疲れ果てた旅人にしか見えない。


 それでも目は希望の光が。聖女が生きているというかすかな希望を。各地の教会や診療所を巡り、聖女の噂を聞けばそれがどんな遠方であっても迷わず向かった。

 時には、過去に癒やした人から彼女の残した言葉や人柄について聞く。


「聖女様は、本当に優しい方でした」


「聖女様がいなければ、私たちは皆、死んでいたでしょう」


 少し不思議に思う。人が語る姿は、エルンがかつて王宮で知っていた聖女様のそれとは異なっていた。


 王宮の華やかな生活を捨て、自らの意思で多くの人々を救う道を選んだ選択は男の身勝手な行動によって、より強く彼女の決意を固めさせたのだと痛感。


 再度じわりと後悔と自責の念で満たされていたが、同時に、多くを救い、必要とされていることに、静かな誇りも感じていた。勝手だと怒られるだろう。


「はは、結局、下に見ていたのかもしれないな」


 国境の荒れ果てた土地で、瀕死の兵士を癒やす聖女の噂を聞きつけた。魔物との戦いが最も激しい場所の一つ。


 危険を顧みず、その場所へと急いだ。数日後エルンは荒野の小さな野営地で、その人物を見つけた。

 変わらないわけもなく、以前よりずっと強くて凛とした姿の彼女がいた。今は地面に横たわる兵士の傍らに膝をつき、祈りを捧げていた。


 手から溢れる光は確かに聖女の光。エルンは遠巻きにその姿を見ていた。声をかけることすら許されないような気がしたから。


 表情は、穏やかで。深い覚悟が宿っているように見える。思い出の中の幼い少女ではなかった。多くの苦難を乗り越え、自らの道を切り開いてきた一人の女性としての貫禄。

 兵士の治療を終え、立ち上がった時、エルンは意を決して彼女の名前を呼んだ。


「ミーシュ様……」


 ミーシュはゆっくりと振り返った。再婚相手の片割れであるエルンの姿を認めると、彼女の瞳にほんの一瞬、驚きの色が浮かんだ。すぐにその表情は感情を読み取れない無表情に戻ったけれど。


「エルン様」


 彼女の声は親しげな響きを失い、他人と話すかのよう。よそよそしかった。何年も会っていないだけで普通はそんな対応になる。なりふり構わずにエルンは膝をついた。


「ミーシュ様……この度は、誠に申し訳ございませんでした」


 人目を憚らず深々と頭を下げた。


「私と……メメリヌは、あなたを深く傷つけ、裏切りました。私たちの身勝手な行動があなたをこのような過酷な旅へと向かわせたことを心から後悔しております」


 ミーシュは静かにエルンを見下ろしていた。瞳に何の感情も見て取れない。それでも尚、続けた。


「メメリヌは……息子と共に、すでにこの世を去りました。身勝手さの報いです。あなたを傷つけた報いです」


 エルンの声は震えていた。長年の旅の疲れと愛する家族を失った悲しみ、ありとあらゆる深い後悔が打ちのめした抜け殻。謝られた方はしばらく沈黙していたがゆっくりと口を開いた。


「……そう、ですか」


 驚くほど平坦だった。悲しみも怒りも、後悔も何も含まれてない。そうさせたのは自身だ。


「もう、過去のことです。あの時、自分の道を選びました。今、この道に後悔はありませんので」


 エルンから視線を外し、遠くの空を見つめた。


「過ぎたことです。この力は私自身のものです。誰かのために誰かの期待のために使うものではない。多くの人々を救うために使うべきものだと学びました」


 エルンは呆然とした。心の中には傲慢にも自分たちを許してくれるかもしれないという、かすかな期待があったのかもしれない。

 その期待を完全に打ち砕く。彼らのことを過去の一部として完全に受け入れ、乗り越えていたのだろう。


「ミーシュ様……その」


 エルンは何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。エルンに目を向けた瞳は何の感情も映していない、澄み切った湖のよう。


「エルン様もご自身の道をお歩みください。あなた方に何も求めるものはありません。求めても意味がないですし」


 エルンに背を向け、静かに野営地の奥へと歩いていった。その場に一人、膝をついたまま背中が見えなくなるまで見送る。


 許されたわけではなかった。男を憎んでもいなかったし、もう彼らとの関係を完全に断ち切っているだけ。それがエルンにとって何よりも重い裁きである。


 エルンはその後、ミーシュの姿を追うことはなかった。言われた言葉を受け入れたのだ。自分自身の生きる意味を見つけようと、再び旅に出た。


 聖女ミーシュの偉業を語り継ぎ、彼女が救った人々を助けることに残りの人生を捧げた。



 一方、ミーシュは今までのように聖女としての旅を続けた。王都の過去に囚われることはなく、自由で救うことに喜びを感じる。

 笑いかけることはなかったけれど、常に深い優しさを忘れず。それに、応援されていることは確実だと思う。


 聖女の力が、ますます強くなっていったことがその証拠。生涯を困窮する人々を救うことに捧げた。彼女は歴史に名を残す偉大な聖女として、後世に語り継がれる。


 誰にも理解されない、深い孤独と誰にも踏み込めない、強い決意が常に存在し続けていて。母を捨てた選択が彼女自身を真の聖女へと導いたと。

 そばに支える人を置いて、それぞれの道を選んだ彼らの人生は交わることなく、それぞれの結末を迎えた。

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