酔客
吉桑真有子と云う人物がいた。彼女の年齢は知らないが、三十代半ばには見ようとすれば見える。その表情から察するに、教養はあまり期待しない方がいいのかも知れない。それでも彼女は多弁であり、その多弁であるが故に、職場でも多くのトラブルを抱えていた。吉桑は仕事帰りには絶対と云えるほど、川屋町の近辺で飲んで帰っていた。今宵は川屋町にある小料理屋『大狸』に久し振りに通っている。この時世では女の晩酌も珍しくもなく、吉桑も若い男子社員を連れて、軽く暖簾を叩いて店内に入って行く。
大狸の大将はカウンター越しに、「吉桑さん、その若い衆は財布ですか」と、皮肉っぽく云ってみせた。
「大将、私は財布じゃないですから、心外です」
「だからね。お坊ちゃんの方が財布ですかってことですよ」
「それも彼に失礼です。謝って下さい」
「でも、この間の酔客も女が連れてくる部下の男は浮気相手で、それを財布だって云ってましたよ」
「そんなこと誰が云ってましたか。ホントに馬鹿にしています。大将、私にも失礼だと思いますから、一度で構いませんから、本当に謝って下さい」
大将は軽い冗談で往なすつもりだったが、女だてらに喰い下がる吉桑に、誂っていたとは流石に言い出せず、ここは降参するしかない。大将は潔く済まないと軽く頭を下げたが、連れの男も顔を強張らせて、納得はいかないと拳を握って乱暴にテーブルを叩いた。大狸にドンッと云う音が響いて、ほかの酔客も驚いて振り向いた。
「私はそんなつもりないです。大体、そもそも私はいつもは昼飲みで、今日のように夜遊びはしませんから。夜の街はヤクザ者ばかりですからね。一度ははっきり断ってますから、私は…」
この連れの男は米噛みに血管を浮き上がらせて、吉桑に向き背いていた。彼の名は―、大海大和、吉桑が気に入っている部下の一人でもある。
「済みません、大和君。その夜遊びしているヤクザ者は、もしかして私も入っていますか?ちょっと応えて下さい」
吉桑の口調は厳しかったが、大海は冷静に対応していた。
「私は昼飲みを勧めましたし、それなりの立場になれば、あれこれ云われるのは当たり前だと思うし、そんな話は聞き流せばいいと思います。それより大将、生ビール二杯と適当に焼き鳥を焼いて下さい」
「へいッ…」
大将は威勢の良い口調の返事を戻し、焼鳥を焼き始め、女将は生ビールとお通しをテーブルに並べた。吉桑が生ビールを飲み込み饒舌に話し始めたころ、歓楽街は賑わいを増し、大勢の酔客で溢れ返って仕舞っていた。
ここに集まる人々は、どんな時でも、如何なる日でも、毎夜のように酒を酌み交わし、そして―、歌舞き、大見えを切る。人々は多様だが、そこに集まる人々は欲の力を信じて疑わない。それを原動力とも呼び、毎夜のように宴を繰り返した。そしてまた酔客が入って来た。