誰かの願いが咲く場所で
黄昏の予感
河野勇治は、定年を迎えた同僚の送別会で、ふと自分の終わりを意識した。
あと数年で、この日常とも別れが来る。
何かを始めるには、もう遅いのか。あるいは——。
数日後、勇治は近所の公園の掲示板で、花壇の手入れを行うボランティアの募集を見つける。
予定もないし、誰かに必要とされるのも悪くない。
少し湿った空気のなかで、思いつきのように連絡先をメモした。
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はじまりと違和感
活動初日、勇治は汗染みの浮いたTシャツと色褪せたジーンズ姿で、公園の隅に立っていた。
慣れぬ手つきで草を刈っていると、隣から明るい声が響く。
「それ、根っこから引いた方がいいですよ」
振り向いた先には、細身で長い髪を一つに束ねた女性がいた。
汚れをものともせず、ズボンの裾をまくって花壇にしゃがみ込む姿は、妙に軽やかだった。
「恵美って言います。あなたが新しく来たって聞いたので」
「……河野です。勇治」
必要最低限の挨拶。しかしその日から、ふたりの朝は、静かに重なっていった。
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雨と沈黙の時間
梅雨のある日、小雨の降るなか、ふたりは傘を差して作業を始めた。
雨が止むと、恵美は静かに立ち上がり、雲の切れ間からのぞく空を見上げた。
「……止んだね」
その横顔に、勇治はふと見とれた。
濡れた髪に光が反射し、彼女の中の“強さ”と“どこか壊れやすさ”が同時に浮かび上がる。
やがて彼女がぽつりとつぶやく。
「私、最近彼に置いてかれたんです。何も言わずに…消えちゃって」
勇治は、ただ「そうか」と小さく答えた。
彼女の痛みは、自分の言葉では届かない場所にあった。
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記憶と願い
子ども連れの家族が公園に現れる。
勇治はベンチでそれを眺めながら、忘れかけていた記憶を口にした。
「俺が子どもの頃は、団地の通路で野球ばかりやっててさ。
夕飯の時間になると、母親がベランダから手を振るんだ。——あれが安心だったな」
恵美は、彼の話を静かに聞いていた。そして、自分の願いも口にする。
「私、ちゃんとあたたかい家庭を築きたい。
子どもが“ただいま”って帰ってきて、“おかえり”って言ってあげたいんです」
ふたりの時間の流れは違う。でも、「誰かのために生きたい」と願う場所で、確かに重なっていた。
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それぞれの夜
勇治は部屋でひとり、安いチューハイを飲んでいた。
ちゃぶ台の向こうに誰もいないことに、いつしか慣れてしまっていた。
「今日も草刈ったし、まあまあだ」
小さくつぶやきながら、どこか穏やかな気持ちで夜を迎えていた。
一方、恵美はひとり、スマホで元彼との過去のメッセージを見返していた。
胸の奥がチクチクと痛む。でも——
「……前に、進まなきゃ」
画面を閉じて、窓の外の風の音に耳をすませた。
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七夕の願い
公園に笹が立ち、短冊が揺れていた。
恵美は、少し迷いながらも願いを書く。
> 「守りたいものが、ちゃんと守れますように」
勇治は、夕暮れが迫る頃、誰もいない笹にそっと短冊を結ぶ。
> 「誰かが今日、ちゃんと笑えていますように」
その夜、恵美は元彼と再会を果たす。
彼がもう逃げないと誓い、彼女が小さく頷いたとき、
遠くから見ていた勇治は、そっと帽子を取って礼をした。
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咲いたのは
翌朝、勇治はいつものように水をやっていた。
恵美が「この花好きなんです」と言っていた苗に、小さな白い花が咲いていた。
> 「咲いたか。……間に合ったな」
誰に語りかけるでもないその声は、どこか嬉しそうだった。
花はただ咲くだけ。でも、その傍に誰かがいることが、たしかに意味になる。
そして勇治は、また草を刈り、水をやる。
静かで、やさしい朝のなかで。