2
恐怖のあまり、ケーキが変な所に入ってしまい、ゲホゲホとむせる。
「大丈夫か!?」
背中を擦ってくれる滑らかな手に、夕べ……そしてついさっきのバスルームでの卑猥な行為を思い出し、思わずひっと叫びそうになった。
私が描いた侯爵令息(現侯爵)リチャードは、母が連れて来た超絶美少女のアデリーヌに一目惚れする。両親にも、『将来アデリーヌと結婚するから、絶対に養女にはしないでくれ』と早々に頼み込んだ程だ。鈴が鳴るような可愛い声で『お義兄様』と呼ばせては、大人になるその時をニヤニヤと待ち望んでいた。
ところがアデリーヌは鈍感だ。いや、鈍感を通り越してぽんこつだ。誰にでも簡単に愛想を振りまき、瞬き一つで令息達を虜にする。そのくせ相手から寄せられる好意には全く気付かない。
だからリチャードは、子供の時から常に彼女の傍を離れず、次々に湧く虫を片っ端から牽制してきた。(あまりにしつこい虫には剣で脅しちゃったことも……)
リチャードの努力により、デビュタントを迎える歳になっても、アデリーヌに求愛する令息は現れなかった。それどころか、命は惜しいとアデリーヌを避けるまでになる。
自分には魅力がないのだと落ち込むアデリーヌに、『僕が結婚してあげる。ずっと一緒にいよう』と、甘い声で囁くリチャード。これでめでたしめでたし……になればよかったが……
侯爵夫人となり、令嬢時代とは違い、社交の場に顔を出す機会が増えたアデリーヌ。元々の愛らしさに加え、大人の色香が加わったその魅力は、瞬く間に注目の的となる。既婚者から独身の令息まで、人妻だと理解しつつも、彼女の美しさから目を離せないでいた。
そこで、いち早く動き出したのが夫のリチャードだ。たとえ自分の同伴があっても、男性が来る集まりには、あれこれ理由をつけて行かせないように徹底する。美しく着飾り、夫以外の男性ともダンスを踊らねばならない舞踏会や夜会など以ての外で。当日は朝まで激しく抱き潰し、足腰が立たぬようにした。更に医師を通して、虚弱体質だとアデリーヌに思い込ませ、周りにも、妻は身体が弱く人前に出るのが難しいと吹聴していたのだ。
まあそのおかげで、夫人や令嬢達から嫉妬や反感を買うこともなく、良好な関係を築けているんだけど……
いや、いくら自分で描いたとはいえ……アデリーヌ、ぽんこつすぎないか? 普通これだけ抱き潰されてたら気付くでしょうよ!!
毎日毎日……絶倫! 猛獣! 悪魔! 夜会の日なんて、狂気の沙汰だ。どのご夫人方もこなされて……る訳ないじゃない! こんなに華奢な身体で、規格外のアレと高度な技術を受け入れ続けたら、そりゃ足腰なんて立たないに決まってるわよ!
それに……
私はベッドサイドに置かれた手鏡を取り、まじまじと自分の顔を見つめる。
ほえええ……アデリーヌちゃんてば、なんてかわゆいの。こんなに可愛いのに自分では気付かないなんて、ぽんこつ通り越してアホすぎでしょ。
サラサラなのに、毛先だけくるくると巻かれた金髪。同じ金色の長い睫毛もくるんと上を向いていて、大きな瞳の周りを星みたいに縁取っている。その瞳の色は、角度によって青にも紫にも見える、神秘的な宝石みたい。真っ白なお肌は、頬っぺだけが淡いピンク。小さくてぽてっとした愛らしい唇は、リップも何も塗っていないのに、つやつやの濃いピンク色だ。
くうっ、羨ましい! 私なんて、毎晩ワセリンを塗ってもガッサガサなのにさ。
試しに……と、前世で一番ブサイクだった変顔をしてみても、やっぱりアデリーヌちゃんは可愛い。あとはこれさえなければなあと、亀みたいに首を伸ばし、白い肌を埋め尽くすキスマークを覗いていると……
「……どうしたんだ?」
どうしたって、あんたのせ…………ひいいっ!!
翡翠色の奥に、黒い陰が蠢いている。
目は笑っていないって、まさにこういうことよ!
「あ……なな、なんか、痒いなあと思いまして」
あははと笑いながら、首をわざとらしくポリポリと掻く。するとその手をパッと掴まれ、美しい顔を首元にずいっと寄せられた。
「お風呂に入ったから、血行が良くなったのかもしれないな。綺麗な肌に傷が付くから、掻いたらダメだよ」
……綺麗な肌をばっちくしてるのはあんたでしょうが! と叫びたいのに叫べない。
キスマークを指でつんとつつかれ、息をふっとかけられるだけで、身体がぶるりと震え力が入らなくなってしまう。
一体どれだけ調教されたらこうなるのよ……
いつの間にか落っことしていたらしい手鏡を拾うと、リチャードは極上の笑みを浮かべこう言った。
「さあ、食べようか。向日葵がしぼんでしまう前にね」
◇
「じゃあ、行って来るよ。アデリーヌ」
「……いってらっしゃいませ」
結局一日中ベッドから起き上がることは出来ず、夜着のまま、正装姿の夫を夜会へ見送ることになった。
はあ……私の夫はなんて完璧なのかしら。銀の刺繍入りの華やかな黒いチェスターコートに、濃い翡翠色のクラヴァット……もう王子様そのものじゃないか。(見た目はね)
尊いお姿を拝んでいると、またまた美しい顔を近付けられ、色っぽい唇をチュッと頬っぺたに落とされた。
うおお……これがスパダリの、『行ってきますのチュウ』……と悶えていたのも束の間、何やら妖しい雰囲気になってきた。
さっきまで頬にあった唇は、いつの間にか私の唇まで移動し、甘いキャンディでも舐めるみたいに味わい始めている。
「ふっ……んんっ」
奥へ奥へと侵食する熱い彼を、吐息ごと受け止める。苦しいのに身体の芯が切なくなって、堪らず広い背にすがりついた。
ねえ……『行ってきます』って、普通もっと爽やかじゃない? いや、自分で描いといてなんだけどさ。まさかこんなにねちっこいとは思わなかったのよ。(所詮、喪女の妄想なんだから仕方ないじゃない!)
窒息寸前でやっと私を解放するリチャード。はあはあと喘ぐ私の唇を、長い指でつっとなぞり、恍惚とした表情でこう言った。
「すぐに帰って来るからね、アデリーヌ。どこにも行かないで、大人しく、いい子で待っているんだよ」
義兄だった頃と同じ、穏やかで優しい口調なのに。その翡翠色の目は、やっぱり笑っていなかった。
夫を乗せた馬車の音が遠ざかると、一気に緊張感が抜ける。ベッドサイドの水をぐびぐびと飲み、さっきの甘ったるい(ねちっこい)余韻を消し去ると、落ち着いて『菊池ひまわり』の記憶を整理し始めた。
ええと……まず……私が記憶を取り戻したのは、物語中盤のエピソード、『向日葵ケーキの朝』だ。
次こそはリチャード様と夜会に行くんだ! と、連日のしつこい営みにも耐え、体調を整え、ドレスも仕立てて張り切っていたのに。結局行くことが出来ず、ヒロインが激しく落ち込むという、可哀想なエピソード。着られなかったドレスと同じ色のケーキを出すとか……リチャードのやつ、なんて残酷なの。
そしてこの僅か一ヶ月後の夜会で、物語の転機となる、ある事件が起きてしまう。
『嫉妬に狂う翡翠色』
ゾゾッ……
サブタイトルを思い出しただけで、背筋に冷や汗が流れる。
その恐ろしいエピソードとは……
今回も策略通り、足腰が立たないアデリーヌを置いて、一人夜会へ向かうリチャード。遠方で開かれる為、午後イチには屋敷を後にする。
一方、もうひと眠りしようとベッドに潜ったアデリーヌの元へ、来客の知らせが。それは男爵令嬢時代の幼なじみ、子爵令息のロアルドで、突然顔を見せて驚かせたかったのだと言う。久しぶりに会える故郷の友人。アデリーヌは何とかベッドから這い出て支度を整えると、純粋な郷愁から喜んで彼を迎えた。
なんとなく胸騒ぎがしたリチャードは、『妻の体調が心配なので』と早めに夜会を切り上げ、屋敷へ戻る。すると見慣れぬ馬車が……。
自分が不在であるにもかかわらず、屋敷へ男を入れた従者への怒りを抑え、足早に食堂へ向かうと……そこには、もう夜の9時過ぎだというのに、ワインを飲みながらケラケラと語り合う男女の姿があった。
アデリーヌは酒に強い。でも破壊力が半端ない。潤む瞳、高揚する頬、そして……しっとりと赤く濡れる唇。
リチャードの胸は煮えたぎる。医師を通して、あれだけ酒は体質に合わないと注意していたのに。自分以外の男に、この無防備な姿を見せるとは……しかも二人きりで。
自分はなんの為に彼女を夜会へ行かせないようにしていたのか。こんなに愛しているのに、彼女はどうして自分だけでなく、誰にでも優しく愛らしく笑いかけるのか。
…………そうだ、いっそ閉じ込めてしまえばいい。愛という名の鎖で繋いで、自分だけしか映せない、昏い昏い場所へ。
ひいいっ!!
アデリーヌのバカバカ! 何で他の男と二人きりで酒なんか飲んじゃうのよ!(ロアルドのお土産だったんだけどね)
とにかくそこからリチャードの独占欲と嗜虐心が爆発し、常軌を逸した軟禁生活が始まってしまう。
夜以外は平和だったアデリーヌの生活は一変し、今までとは比にならないくらいのアブノーマルな行為を一日中……
自分で描いた悲惨な内容を思い出し、枕にバタリと倒れ込む。
そう……この軟禁生活をうへうへと描いている途中で死んでしまったんだ。完結しない物語の中で、アデリーヌは一体どうなるんだろう。
…………絶対に死ぬ。キス一つでこんなに敏感な身体が、✕✕や◯◯なプレイに耐えられる訳がない。絶っっっ対に死んじゃう!!
何としても、ロアルドと二人きりで会うことは避けないと……たとえ酒は飲まなくても、何が引き金になって、リチャードが暴走するか分からない。
具合が悪いからって、ロアルドの訪問を断るのが一番いいけど……遠くから遥々来てくれたのに追い返すなんて。(ロアルド、いいヤツなの)
いや、いやいや、ロアルドの心配なんかしてる場合じゃないでしょう! 自分の命がかかっているのよ! 熱中症の次は腹上死なんて……絶対にイヤ!
仰向けのまま、死にかけの虫みたいにバタバタと手足を動かす。
そうだ……
思いついた考えに、ガバッと身体を起こす。
たとえ今回はロアルドを回避出来たとしても、この先同じような危機が訪れるかもしれない。私の全く知らない、設定外の偶発的な危機が。
先の展開が分かっている今こそ、積極的に身を守るべきじゃない?
うーん……ならいっそ、夜会に参加しちゃうとか。私が描いたエピソードなら、夜のねちっこいアレコレを、何とかして躱せるかもしれないし。
『菊池ひまわり』の記憶が戻ったアデリーヌは、もうただのぽんこつじゃない。夜会で侯爵夫人としての務めをしっかり果たせば、ヘラヘラ愛想を振りまくだけの女じゃなく、役に立つパートナーだということをリチャードに知らしめることが出来る。
私はもう、愛でられるだけの大人しい人形じゃないってね。