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勢いのままに頷いてしまったけれど、彼は坂口を殺す覚悟などできていなかった。逃げられないと感じたから、頷いてしまったのである。
バスから降りて暫く歩いていると、礼の酒屋に着く。
「で、坂口哲司の家はどこだ」
「この通りをまっすぐ行ったところにあります」
電灯が彼を導くように坂口の家へ立ち並んでいた。この通りには坂口の家を過ぎるまで脇道はない。通り過ぎるか、引き返すしかないのである。
二人横に並んで道を歩いた。老爺は楽しみなようで、一歩一歩が大きく弾んでいた。対して根岸は一歩一歩が小さく、老爺の背後に着こうとしていた。
「不安なのか、青年」
「不安です。拳銃を持ってること自体恐ろしくてたまらないのに、人を殺すだなんて。昨日の自分がこの事を知ってたら、絶対家に引きこもってた」
「そうか。引きこもる、か」
老爺は少し考え込んだ。そして呆れたように深く溜息を吐いた。
「少し、青年に期待し過ぎてたようだな。昔の俺に似てると思ったが、とどのつまりは現代の若者」
「いいえ、自分は」
「いやいいんだ。俺らの代が作った若者だ。自業自得もいい所よ」
老爺は再び根岸の横に来ると、ポケットから小銭を取り出した。近くに自販機があったから、そこで水を買った。
「青年、お前は何がいる」
「えっとお茶で」
老爺からお茶を受け取って、ちらと老爺の水を飲む姿を見る。老爺と目が合い、即座に視線を落とした。
「コーヒーが似合う男が水を飲むとは思わなんだ、といった顔だな」
「否定はしません」
「はっは。まあ、歳だからよ。昔暴れてた奴らは皆老いてる。それでもぴんぴんしてる奴もいるけど、一般人はそうはいかん。実は最近思うんだ。とことん暴れて、何を得たって。失うばかりなんだよ。金なんざ真面に働いてた方が稼げたと思うんだ。俺は一般人だからな。いつになっても下っ端さ。でも一度だけ、暗殺を頼まれた。一般人と言ったが、俺はクズだったからな。大罪になるものはやりたくなかった。でも殺らなかったらこっちが困るわけだから、殺るしかなかったんだ。で、殺った。勿論昇進はした。でも昇進はそれっきり。結局得たのは日々を過ごすための金だけだったのさ。話が逸れたが、結局何が言いたいかって、殺人は最大の虚無を与えるってことよ。俺が人を殺したのは一度っきりだが、それで理解した。命がどれだけ呆気ないものなのかを」
老爺は水を飲み干すと、道の脇に放り投げた。
「人生呆気ないのさ。でも皆何か意味をもって生きようとしている。それが不思議でならない。さあ行こう。殺人の虚しさを教えてやるから。どうした、お茶はそこら辺に捨てて置け、どうせ俺の金だ」
根岸は胸元の拳銃を抑えた。本当に今日そして数分後には、人を殺さなければならないのではないか、と今更ながら考える。とんでもない人に会ってしまった。危険な人に遭ってしまった。
脈拍が早くなる中、老爺の背後に一人の少女が見えた。彼は即座に口を閉じた。老爺もしまったと言わんばかりに口を手で押さえた。緊張が走る中、少女は脇を通り過ぎる。少女はこの近くにある高校の制服を着ていた。こんな真夜中に出歩くとは、何かあったに違いないが、二人からしたらそれに気遣うどころではなかった。先刻の話を聞かれてしまっていたら、駄目なのである。
少女の姿が見えなくなった後、二人は顔を近づけて、声を小さくして話し合った。
「俺はあの嬢ちゃんを追う。お前はしっかり殺してこい。いいな?」
根岸は唇を開きかけて、頷いた。老爺は身を翻し、去って行く。一人になった彼は、ゆっくり歩を進めた。