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珍しく早く帰ることを許された。というよりも、残業時間が制限を越えそうであるため、半強制的に帰らせられたのである。同僚も今日は結婚記念日で早く帰らなければならないらしく、偶然にも帰路は駅まで同じであるため、横に並んで他愛無く話しながら、駅へ足を運んでいた。
「そういえばお前、どこの大学を卒業したの」
「前にも言っただろ、学歴厨が」
「あれ、高卒だっけ」
「大学中退だ」
「中退。ああそう。まあ俺はちゃんと修了したけどな」
自信満々に胸を張る同僚を横目に見て、いやでもと言い訳を始めようとする。すると同僚は手で彼を制した。
「分かってるよ。お前にも事情があったんだろ」
根岸は心中の苛立ちを抑えるように唇を噛みしめて、黙っていた。謝罪として飴を貰い、それを口の中に入れると、奥歯で雨を粉々に砕いていた。「お前は飴噛む派か」と訊ねられるが、それは無視した。
乗る電車は異なるので、駅に着くと別れた。自販機でコーヒーを買ってゆっくり電車を待っていようかと考えた矢先に電車が着き、コーヒーを買う間もなく、電車に乗らざるを得ない。
電車に乗ると、声をかけられた。間違いなく根岸と呼ばれ、その声には聞き覚えがあった。驚きを含んだ声であったから、偶然であるのだろうが、声の主とは奇遇だと言い合える仲ではない。このまま聞いていない振りをしていようかと考えながら、俯いて通り過ぎようとすると、また声をかけられた。今度は名前までも。そして三度目。
「根岸朱柏先輩、ですよね」
頼むからそうでないであってくれ、と心中懇願しながら振り向く。彼と体型の似た美少年。彼が恨みを持つ相手だった。美少年は坂口哲司という。根岸は容姿さけでなく、その名前すら思い出すことを嫌った。しかし目の前に現れたならば、思い出さざるを得ない。
「やあ奇遇だ」
取り繕って愛想笑いする。座席に座ると、坂口は距離を空けることなく隣に座った。鼓動が激しくなる。ここまで明らかに緊張するのは久々だった。
「帰宅ですか」
「まあ、そうだよ」
「普段から、この時間に帰るんですか」
「今日は異例。普段はもっと遅い」
なんともぎこちない会話が交わされる。生憎乗客は誰も声を発さない。ただただ冷えた空気が漂っている。それに気づいているのか気づいていないのか、坂口は笑みを絶やさず話題を振り続けた。
「それにしても、奇遇ですね」
その言葉を吐くのは五度目だった。そろそろ黙ってくれないかと思いながらも、根岸は返答していくが、その度に自分に対して耐えろと言い聞かせた。
電車が揺れる度に、今拳銃を持って持っていたら、と考えた。それに呼応してか鼓動も激しく聴覚を刺激した。
「そう言えば、未美は」
「黙れ!」
思わず声を荒げた。顔を上げると驚く乗客、じろりと睨む乗客、無視する乗客がいた。羞恥に駆られて俯き、ごめんと呟く。
「今日嫌な事があったんだ。折角君に会ったんだから、会話を我慢しようと思っていたんだけど、無理だった」
「い、いえ。こちらこそ、無遠慮に話を振ってしまってすみません。えっと、黙りますね」
(畜生)
根岸は歯を食いしばった。彼はこの非の打ち所がない美少年が嫌いだった。理由は他にあるけれど、純粋でありながらも人を気遣う態度が、嫌悪を何倍にも増していた。今も尚嫌悪は増していき、いっそのことこの手で喉を押し潰してしまおうか、と考えた。
「それじゃあ、僕はここで」
我に返って根岸は顔を持ち上げた。坂口は電車を降りていた。全身から力を抜いて安堵した矢先、このまま逃してよいのかと自信に問うた。よくないのである。
根岸は急いで電車を降り、坂口を追尾した。
坂口の家を把握した後、駅に戻る。乗ったのは終電だった。家から最寄りの駅で降りて、帰宅する。彼は鞄を放り投げて、寝室に駆けた。棚を漁って、拳銃を取り出した。六つ銃弾を込める。そして家を出た。