プロローグ
患者の仕事は聴導犬。耳が聞こえない人や聞こえにくい人の「耳」になる。日本ではあまり知られていないが、有名な盲導犬とおなじく「補助犬」というもので、「働く犬」の仲間なのだ。
「なかなか知名度が上がらなくてねぇ…」
「そうかぁ…それは困ったねぇ。ストレス発散の方法はあるのかい?」
「そりゃもう、ここのドッグランで走りまくることですよ!」
そう。ここはドッグラン。ドッグランによく来る犬達と話しているうちに、いつの間にか相談されることが増えて、気が付いたら「ドクター」と呼ばれるようになっていたのだ。そのうち、どこからか噂が回り、長蛇の列が絶えないこともあった。それではみんなが困ってしまうし、オレも困る。
ということで、オレは飼い主に頼み込んで、ドッグランの中に小屋を作った。そこをクリニックと名付け、完全予約制にした。これで、オレの時間も確保出来る。なかなかいいアイディアだろう?
申し遅れたが、オレの名前はミヤジマだ。犬種は柴犬。今年で5歳になる。オレの主人は、ここのドッグランの持ち主。犬と会話出来るという特殊能力を持っている。なので、オレの言葉も分かる。そのおかげで、ここにクリニックを作ることが出来た。
今日も1件、予約があった。先ほど出て来た、聴導犬だ。
このドッグランは、広島市の中でも有数の、カフェを併設したものだ。人間達はゆっくりとお茶をして、我ら犬達は思う存分走り回る。共に生きる者同士、互いの時間を設けて気持ち良く過ごそうという考えだ。
最近は、「犬も家族の一員」という人間が増えてきたように思う。それ故、人間と犬とのすれ違いや、思い込みが原因の問題がしばしば起こる。
そんな時、人間が相談するのはもちろん人間だが、犬の相談相手が居ない。たまたま、ここによく来る犬達から悩み相談を受けたことがきっかけで、犬の悩みをよく聞くようになった。オレは医者ではないのだが、いつしか「先生」「ドクター」と呼ばれるようになっていった。
はじめは違和感があったが、生き物というのはやはり、慣れていくものである。しょっちゅう呼ばれていると、気持ち良くなってきた。
誰が作ったかは分からないが、オレの小屋の前に「ドクター・ミヤジマ」と看板がある。意外に立派なものだ。それを見ると、誰かの役に立てるというのも、まぁ悪くはないなと感じる。誰が作ったか知らんが。
その、誰が作ったか知らん看板の前に、茶色の柴犬が近付いていった。オレの体より、一回りほど小さい。中型犬よりは、小型犬に近い大きさだ。見た目は2歳頃か。
オレはというと、ドッグランのど真ん中で背中をスリスリしていた。ここんとこ、背中が痒い。芝生に背中を擦り付ける柴犬。とかなんとか言って、SNSにアップされているのを見た。人間は、そんなことで笑う。そんな程度の笑いを求めている。きっと、疲れているのだろう。
「おーーーい」
オレは、ヘソ天の体勢のまま、「ドクター・ミヤジマ」を見つめる柴犬に向かって叫んだ。この体勢は、SNSで人気らしい。オレのヘソ天姿をスマホでバシバシ撮っている人間が居て、初めは「なんだよ!」と思ったが、まぁこのドッグランが人気になるならいいかと思い、許している。オレに声をかけられたその茶柴は、一瞬固まった用に見えた。
「アンタだよーー、あーんーたーー」
やっと自分のことだと気が付いたそのチビ柴ヤローは、声がする方を見た。そして次の瞬間、こっちへ全力で走ってきた。
「あのっ、あのっ」
「なんだ?」オレはヘソ天の体勢を崩さず、目線だけチビ柴ヤローに向けた。
「みっ、ミヤジマ先生ですか?」
チビ柴ヤローは、絶世の美女にでも出会ったかのように、瞳をキラキラと輝かせていた。
「おぅ。オレがミヤジマだ」
「うおーーーーーーーーーっっっっ!!!」
突然、そのチビ柴ヤローは、ドッグランを全速力で走り回った。かなり速い。さすが、オレとは違って若さ溢れる肉体、筋肉を持ち合わせている。3週ほど走り、そいつはオレの目の前で急停止した。そして言った。
「聴導犬って、知ってますか?」