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未来から吹いた風 ~5人でひっくりかえす太平洋戦争~  作者: 青雲あゆむ
第3章 昭和編

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47.日本のモータリゼーション

昭和10年(1935年)12月 愛知県 挙母ころも


「社長就任、おめでとうございます、豊田とよださん」

「ありがとう、大島さん。これもあなたたちの、協力のおかげですよ」

「いえいえ、豊田さんのがんばりあってのものですよ」


 俺たちは豊田喜一郎の社長就任を祝うため、愛知県を訪れていた。

 しかしその場所は刈谷町ではなく、新たに工場を建設した挙母町だった。

 新工場の完成にともない、豊田自動織機の自動車部だった組織は、新たにトヨタ自動車として独立している。


 それが2年前のことで、初代社長は豊田利三郎だったのが、業績も順調ということで、喜一郎に引き継がれることになったのだ。

 そして元東京自動車の吉田さんや内山さんは、嬉々として開発に取り組んでいた。


「開発も順調なようですね、吉田さん」

「ええ、おかげさまで。最近はなんとか、アメ車にも負けないものが作れるようになりましたよ」

「それは凄い」

「そうは言っても、乗用車はあまり売れないですけどね」

「アハハ、それは市場の成熟を待つしか、ないですね」


 政府の国産車奨励策もあって、日本の自動車市場は格段に成長していた。

 史実の35年の保有台数が12.6万台だったのに対し、この世界では40万台に迫る勢いだ。

 しかもその大部分が国産車なのだから、相当な差がある。


 しかしまだまだ中流層が育っていないため、乗用車はその4割にすぎない。

 そして残りの4割がトラックで、2割がバスといったところだ。

 これは史実でも似たような傾向で、つまり商用車が市場を牽引しているわけだ。

 そもそも乗用車ですら、タクシーやハイヤー、そして企業で使う社用車が大半という状況だ。


 ちなみに今、売れ筋のトラックは、こんな性能だ。


【トヨタKB型トラック】※カッコ内は史実の値

全長・全幅・全高:6.5x2.2x2.2m

重量      :2.7トン

積載量     :4トン

最高速度    :時速70キロ

機関      :3.4リッター水冷直6エンジン

出力      :100馬力(78馬力)

乗員      :2名


 史実では、1942年に出てくるようなトラックだ。

 しかもその性能や信頼性は、さらに高まっている。


 そして商用車中心と言いながらも、日本のモータリゼーションは着実に進展していた。

 なにしろ30年も前から、道路の舗装化を進めてきたのだ。

 その進捗は劇的ではないものの、着実に移動・物流を促進している。


 まず都市部の舗装化は、自転車の普及を促した。

 最初は性能が低くて使いにくかった自転車も、道路が舗装されれば格段に使いやすくなる。

 そうすると需要が急増して、性能改善と低価格化がさらに進んだのだ。

 史実でも日本の自転車は、30年代に海外へ多く輸出されたが、この世界でも機械輸出の上位となっている。


 それと並行して、自動2輪の普及も進んでいた。

 史実では自動車以上に零細企業だったメーカーも、だいぶ力を付けている。

 そして自動車ほどに大規模な設備投資がいらない点も、成長を加速させていた。

 今では年産1万台を超えるメーカーが、複数誕生しているほどだ。



 そして肝心の自動車だが、こちらも大量生産に対応するメーカーが、いくつも現れていた。

 まずフォードと提携した三菱重工が、白楊社を吸収合併して、三菱自動車工業を設立した。

 同社は単独で年産1万台以上の工場を建設し、独自の車を生産している。

 白楊社が設計したオートモ号をベースに、乗用車も生産しているが、やはり商用車が主力だ。


 それからGMと提携した石川島造船の自動車部門は、東京瓦斯電気工業と合併し、自動車工業株式会社(後のいすゞ)を設立した。

 そして単独で工場を建設したが、ここはトラック・バスなどの大型商用車に集中するようだ。


 また快進社の流れを組むダット自動車は、実用自動車工業と合併して、ダット自動車製造となっていた。

 さらに同社は戸畑鋳物の傘下に入り、後の日産自動車の基礎を固める。

 そして戸畑鋳物の出資で大型工場を建設し、やはり年産1万台を超える量産体制に入りつつあった。


 さらに川崎造船が設立した川崎車輌も、大型工場を建設。

 やはりトラックを中心に、大量生産を開始しているとこだ。


 そしてこれら4社の大規模メーカーに、トヨタが殴りこみをかけた。

 それは傍から見れば、田舎財閥の豊田自動織機グループに、さらに弱小の東京自動車製作所が合流したような形でしかなかった。

 しかし愛国商会の旗振りで、想像以上の資金を集め、その4年後には年産1万台超の工場を建ててみせる。


 おまけにその技術力も、折り紙つきだ。

 吉田さんたちは、すでに30年近くも自動車を作り、その性能と耐久性の向上に努めてきたのだ。

 その技術はとうに欧米の模倣を飛び越え、日本独自の道を歩みはじめている。


 史実でトヨタのトラックは、よく壊れるということで、軍にも敬遠されていたと聞く。

 (日産のトラックも同様だった)

 しかしこの世界ではアメ車以上の耐久信頼性を確保しているので、まずそんなことはないであろう。


 さらにそれを後押しするのが、トヨタ生産方式だ。

 それは”ジャスト・イン・タイム”や、”自働化”などに代表される、リーン生産方式の一種である。

 フォードに始まる大量生産システムの中に含まれる、”ムダ”という名のぜい肉を削ぎ落とすような思想・哲学とも言える。


 ただし史実でこれを体系化する大野耐一は、まだ社会人になったばかりなので、当面は試行錯誤することになるだろう。

 もちろん多少の助言は、俺もするつもりだ。

 いずれにしろ、ちょっと他とは違った強みを持つメーカーとして、今後に期待したいところである。



 ちなみに史実では、軍主導の自動車製造事業法により、トヨタ、日産、いすゞの3社が、許可会社として認可された。

 そしてこの3社を中心に日本の自動車産業は、戦争に関わっていくことになる。

 それがこの世界では、5大メーカーが大量生産を実現しており、その性能も格段に高い。

 その工業力は、いざ戦争となった時に、大きく役立つであろう。


 そんな業界話をしているうちに、豊田さんがしみじみとつぶやいた。


「それにしても、うちが5大メーカーのひとつになるなんてなぁ」

「豊田さんのとこなら、それほど不思議じゃないでしょう。それよりも私たち(東京自動車)が合流してることの方が、驚きですよ」


 吉田さんがそんなことを言うもんだから、俺はあえてフォローした。


「そんなことないですって。吉田さんと内山さんが、コツコツと積み上げてきた技術がなければ、こうも早く軌道に乗ってませんから。ねえ、豊田社長」

「もちろんですよ。あなたたちの協力がなければ、あんなにすばらしい車を作れなかった。感謝してます」

「……そう言ってもらえると、がんばってきた甲斐がありますね。なあ、内山」

「ええ、まったくです」


 そう言って、吉田さんと内山さんが、目を潤ませている。

 そんな吉田さんたちに、俺はさらなるハッパを掛けた。


「まだまだ、これからですよ。もっといい車を作って、そのうちアメリカに輸出してやりましょうよ」

「ええぇ……アメリカに輸出って、いくらなんでもそれは無茶でしょう」

「ほう、アメリカに輸出ですか。今は難しいとしても、いずれは……」


 そんな話をしながら、1935年は暮れていった。

史実で吉田真太郎氏は、1931年に逝去(55歳)されています。

しかしこの世界では、やりたいことができてるので、寿命が伸びたってことで。

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