42.航空エンジンをテコ入れしよう
昭和6年(1931年)6月 三菱重工 名古屋工場
「それなら深尾さん。水冷エンジンを、外部に委託しませんか?」
突然の俺の提案に対し、深尾さんが戸惑った顔をする。
「外部に委託、ですか?……具体的にどこか、心当たりでもおありで?」
「ええ、川崎航空機が、やはりV12の水冷エンジンを手がけていますよね」
「ああ、それは聞いたことがありますね。たしか……ドイツのBMW製でしたか?」
「そうです。空冷エンジンはたしかに有望ですけど、水冷にも捨てがたい魅力があります。そこで御社の持つノウハウを川崎さんに譲渡して、いざという時にはエンジンを買えるようにしては、どうかと思うのです」
「なるほど。たしかにダラダラ両方を開発するよりは、一気に水冷を切るのも手ですね。そのうえでうちは、空冷エンジンの開発に専念すると」
「そうです。軍が間に入って、川崎さんとの仲介をすれば、上層部の説得もしやすいでしょう」
「そこまでやってもらえるのですか?」
こちらの申し出に、深尾さんが驚いている。
「その方が、日本の航空業界にとっては、プラスだと思いますからね。必要とあれば、喜んで」
「……今ここで判断はできないので、まずは社内で掛け合わせてください。そのうえで話がまとまれば、お願いしたいと思います」
「分かりました。朗報をお待ちしていますよ」
そう言って俺たちは、名古屋工場を後にした。
なぜ俺がそんな話を持ちかけたかというと、史実でも三菱は空冷エンジンへの転換を図るからだ。
その成果が、有名な金星エンジンである。
しかしそれまでの水冷エンジンも手放しがたかったのか、チョロチョロと開発は進められる。
それは非効率なので、俺が背中を押そうとしているわけだ。
ついでに史実で水冷にこだわり続けた川崎に、技術を集約して、水冷エンジンも育てたいと考えている。
これが上手くいけば、三菱と川崎、双方の競争力を高められるだろう。
俺は深尾さんの健闘を祈って、名古屋を後にした。
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昭和6年(1931年)7月 川崎航空機
「それではこの条件で、よろしいでしょうか?」
「はい、願ってもありません」
「いえ、こちらこそ。空冷エンジンの方、がんばってください」
「ありがとうございます。水冷の方はよろしくお願いします」
「ええ、御社に買っていただけるような、エンジンにしてみせます」
結局、深尾さんは三菱重工内の説得に成功し、水冷エンジン関連の設備やノウハウを、川崎へ有償で提供することになった。
川崎の方も俺が根回しをしておいたので、水冷エンジン開発で独自性を出すことに決まり、両社の契約は無事に交わされる。
そして三菱の関係者が去ると、俺は改めて川崎の設計者と話をしていた。
「それで土居さん、今後の計画は決まりましたか?」
「ええ、今後もBMW社の設計を基に、改良を進めようと思っています。もちろん今回得られたノウハウも、活用するつもりですよ」
「そうですか……」
「何かご懸念でも?」
そう言って俺の顔をうかがうのは、土居武夫。
川崎航空機のエンジン設計を、担うことになる人物である。
「別にBMWが悪いというのではないんですが、ロールスロイスにも可能性があると思ってましてね」
「ロールスロイス、ですか。少なくともうちよりは優秀でしょうが、あえて研究する必要が、ありますかね?」
「ええ、あそこのケストレルエンジンが、なかなか優秀らしいんです。それに蒸発冷却方式には、優位性があると思うんですよ。イギリスとは友好関係にありますから、仲介もしやすいですし」
「なるほど。ちょっと社内で相談させてください。可能であれば、技術者を研修に出すとか、ライセンス契約を結ぶなど、検討してみます」
「ええ、期待していますよ」
こうして俺は、川崎をロールスロイスに誘導してみた。
史実では大戦時、ダイムラーのDB601をライセンス生産する川崎だが、さまざまなトラブルに見舞われてしまう。
この世界では技術力が上がっているので、なんとかなるかもしれないが、ドイツとは敵対する可能性もあるのだ。
それではライセンスを買えないかもしれないので、選択肢を増やしておきたい。
それにロールスロイスといえば、傑作の呼び声も高い、マーリンエンジンの開発元だ。
そこと関係をもっておくのは、いろいろな意味でメリットがあると考えた。
ここは少々ゴリ押しをしてでも、成立させたいと思う。
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昭和6年(1931年)8月 中島飛行機
三菱、川崎とテコ入れをした俺は、中島飛行機にも顔を出していた。
「こんにちは、中島さん。良い責任者は見つかりましたか?」
「やあ、大島さん。残念ながら、いい人は見つからないね。できれば、大島さんにお願いしたいほどだよ」
「それは無理だって、いつも言ってるじゃないですか」
相変わらずの引き抜き攻勢を、苦笑しながら断る。
実は以前から俺は、中島飛行機でエンジン開発の全体を見る責任者を置くべき、というアドバイスをしていた。
史実では、若手の技術者を開発責任者に抜擢したため、会社としての設計方針に統一性がなく、結果的に信頼性や量産性を損なっていたからだ。
その点、ライバルの三菱では、深尾さんがエンジン部門を統率したため、開発にちゃんとした方向性があった。
それは例えば、ボア径は140と150ミリ、ストロークは130、150、170ミリに限定し、信頼性を重視するという方針だ。
これが中島飛行機の場合、ボア径だけで5種類もあった。
そんな状態では、個々の設計はバラバラとなり、信頼性の確保には不利となる。
しかし中島は、軍の期待に応えようと無理をする傾向があり、そんな状況も見過ごされていたのだ。
その結果、期待の2千馬力級エンジンとして開発された”誉”エンジンは、最後まで稼働率の悪さに悩まされた。
それは燃料やオイルの質の低下などもあろうが、エンジン自体の信頼性が、低かったのも否めない。
ちなみに誉エンジンは、生産性や整備性の悪さでも有名である。
性能を求めるあまり、別に作っておいたアルミフィンを、シリンダーヘッドに鋳込むなんてことをしていたのだから、それも当然だろう。
そんな事情で俺は、前々から中島さんに、エンジン開発の統括責任者を置くよう、助言していたのである。
しかしワンマンの中島さんと合う人も、なかなかいないのであろう。
そこで俺は、彼に脅しを掛けることにした。
「そういえば中島さん、三菱さんが本格的に空冷エンジンに取り組むようですよ。そうなると規模の小さい御社は、不利になるんじゃないですかねえ」
「ええっ、そうなのかい? こうしちゃあ、いられない。もっと資金を集めて、工場を拡張しなくちゃ」
「ちょ、ちょっと中島さん。統括責任者はどうするんですか?」
「とりあえず、大島さんから言い聞かせておいてくれないか? 頼むよ」
「ええっ、困りますよ。俺だって忙しいんだから」
あっけに取られる俺を残して、中島さんはどこかへ行ってしまった。
結局、その後しばらくは俺が、中島飛行機のエンジン開発を指導することになってしまう。
敵わないなあ、中島さんには。




