36.最強メーカーへの道
昭和5年(1930年)5月 愛知県 刈谷町
「私自身は、ぜひ一緒にやらせてもらいたいと、思っています」
「おおっ、それでは――」
喜ぶ吉田さんを、豊田さんが手で制す。
そして少し困ったような顔で、言葉をつけ加える。
「待ってください。私だけでは、決められないことなのです。なにしろ私は、この会社の常務でしかないのですから」
「……やはり社長の説得は、難しいですか?」
「ええ、残念ながら」
豊田さんは残念そうな顔で認める。
彼は豊田佐吉の長男だが、豊田自動織機の社長は豊田利三郎だった。
利三郎は伊藤忠商店(後の丸紅)出身の辣腕家で、喜一郎さんの妹と結婚している。
そして喜一郎より年上のため、豊田家の主導権は利三郎にあった。
つまり自動車産業に参入するならば、利三郎の説得は避けて通れない。
史実でも利三郎は自動車産業への参入に危機感を抱き、しばしば喜一郎と衝突したという。
しかしだからといって、俺も簡単に諦めたりはしない。
「ふむ……豊田さん。仮に愛国商会が旗を振って、中京地区の銀行団から出資を引き出せたら、やれませんか?」
「愛国商会って、たしか皇室が後見している商会ですよね。そんなところが、応援してくれると言うのですか?」
「ええ、愛国商会は有望な企業を応援してるし、私にはツテがあります。十分に可能性はありますよ」
「たしかにそういう噂は聞いていますが、うちみたいな田舎企業に?……」
疑わしそうな豊田さんに、俺はさらにたたみ掛ける。
「実は東京自動車製作所は、何回か愛国商会の出資を受けてるんですよ。優秀な国産技術を持つ企業は、貴重ですからね。ねえ、吉田さん」
「え、ええ。大島さんのツテで、支援してもらってます」
「そうなんですか?……なら可能性も、あるのかな」
「はい、十分に可能性はあると思いますよ。豊田財閥は、中京地方ではそれなりに存在感がありますし」
「う~む、なるほど」
豊田さんはしばし考えこむと、思いきったように顔を上げた。
「分かりました。社長を説得してみます」
「それは良かった。あっ、そうだ。東京自動車の新型に乗ってきてるので、社長に見てもらってはどうですか?」
「おお、それはいい。ちょっと社長の都合を確認してきます」
そう言って豊田さんは、嬉しそうに出ていった。
すると吉田さんが、心配そうに訊ねてくる。
「なんとか合意、できますかね?」
「資金に目処がつくなら、なんとかなるでしょう」
「そうですか……しかしうまく合意できても、その先はどうなることやら……」
「豊田さんは生粋の技術者ですからね。それに国産の技術を育成するのに、熱心なんです。たぶん上手くやれますよ」
「本当にそうなら、いいんですが……」
その後、なんとか利三郎社長をつかまえ、説得の場を設けてもらったのだが……
「うちみたいな田舎財閥に、自動車製造なんてできない!」
「しかし社長。技術力はすでにありますし、愛国商会が出資を募ってくれるというのです」
「愛国商会だと……なぜ皇族ゆかりの商会が?」
「大島さんのツテで、東京自動車はすでに出資を受けているそうです」
「そうなのか?」
利三郎社長に問われ、俺と吉田さんで説明をする。
「はい、愛国商会は有望な企業を応援してますから、すでに出資されてます。東京自動車の技術力には、かなりなものがあるんですよ」
「はいっ、性能には自信があります」
「むむむ……」
ここでもうひと押しとして、東京自動車の新型に乗ってもらった。
工場の狭い敷地内だが、乗ってみた利三郎が、その出来に感心している。
「おお、これはなかなかいいな。国産技術は、ここまで来ているのか」
「ええ、なかなかのものでしょう? しかし今のような少量生産では、外国車には勝てないんです。そこで大量生産に対応した生産ラインを、構築する必要があります」
「それはそうだろうが……なぜうちなんですか?」
「帝大で工学を学び、国産技術に理解のある喜一郎さんなら、やれると思うんです」
「う~む……」
なおも悩む利三郎さんに、喜一郎さんが許可を求める。
「社長、やらせてください。親父は自動織機で日本に貢献したんだから、私は自動車で貢献したいんです」
「う~む、たしかに佐吉さんには、君のことを頼まれているからなぁ」
結局、利三郎さんは、目標の出資額を集めることを条件に、参入に許可を出した。
そしてそれを勝ち取った喜一郎さんは、とても嬉しそうだった。
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昭和5年(1930年)12月 愛知県 刈谷町
その年の末までには目標額が集まり、豊田自動織機の中に、自動車部が誕生していた。
自動織機の資本金は600万円から、1200万円へと増資され、まずは試験的な工場が刈谷町に作られることとなる。
それと並行して、喜一郎さんと吉田さんが協力して、新型車を開発するのだ。
その新型車を試験工場で月に数百台レベルで生産し、ゆくゆくは月産2千台の工場も建設予定だ。
ただし乗用車の需要はまだそれほど多くはないので、トラックやバスも作れるようにする。
まだまだこれからという段階だが、それでもトヨタ自動車の歴史を、3年は前倒ししている。
はたして今後、どれだけその流れを加速できるだろうか?
吉田さんも豊田さんも、国産車製造の先駆者として苦労した人なのに、晩年は不遇でした。
吉田真太郎は1909年に、豊田喜一郎は戦後に、それぞれ会社を追われ、失意のうちに亡くなっています。
(喜一郎さんは社長に復帰する目処が立ったところで急死したから、失意ではないか?)
この世界ではそんな2人が報われて欲しくて、この話を書いてみました。




