30.建機にもテコ入れしよう
大正13年(1924年)3月 東京砲兵工廠
「以上の仕様にて、それぞれの機械を造っていただきます。我こそはと思うメーカーは、試作に名乗りを上げてください」
「「「ザワザワザワ」」」
関東大震災から半年も経ち、日本が復興に向けて忙しくしている中、俺は国内のメーカーを集め、説明会を開いていた。
その内容は、震災の復興で大活躍している建設機械の試作についてだ。
残念ながら建機類は、海外からの輸入品しかなく、国内では圧倒的に不足していた。
一応、第1次大戦後に生産を促したのだが、技術力が足りないし、必要性が薄いのもあって、ほとんど進まなかった。
そこでやむなく海外から蒸気式の建機を輸入して、震災に備えていたのだ。
そして震災でその必要性が認められたので、改めて呼びかけを行っているわけだ。
やがて各メーカーから、活発な質問が出る。
「試作品については、全て買い取ってもらえるのですね?」
「ちゃんと機能するものであれば、買い取ります」
「技術指導というのは、どこまでやってもらえるのですか?」
「図面や現物の貸し出しから始まって、技術者の出張も考慮します」
「低利の融資をしていただけるとのことですが、上限は?」
「必要と認められれば、青天井です」
「特許の申請についても、助力してもらえるんですか?」
「有用な特許であれば、軍との連名で申請します。その際の諸手続きは、こちらで受け持つことになるでしょう」
「「「おお~~!」」」
軍から手厚い支援が得られるということで、各メーカーともにずいぶんと乗り気である。
ちなみに今あつまっているのは、三菱造船、川崎造船、石川島造船、東京瓦斯電気工業の大手に加え、小松製作所(後のコマツ)、山岡発動機工作所(後のヤンマー)、池貝鉄工所(後の池貝ディーゼル)などにも声を掛けている。
どこも現代では、建機やディーゼルエンジンで名を挙げているので、有望な製品が生まれると期待してのことだ。
そして彼らには、ブルドーザー、ショベルカー、クレーン車、ロードローラー、ダンプなどの試案を示し、試作の希望を募った。
あまりに偏るようなら調整するが、できれば自由に競わせたいと思っている。
そしてそのために彼らには、優秀なエンジンと、巨大な車体を駆動する機構を造ってもらわねばならない。
それはいずれ、戦車などの軍事用途にも役立つであろう。
ぶっちゃけ、今の日本では荷が重いのだが、そこは未来知識でドーピング予定だ。
アメリカやドイツでやれる程度の技術を、先取りしてやろうじゃないか。
楽しみだな。
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大正13年(1924)6月 東京自動車製作所
「最近はどうですか? 吉田さん」
「やあ、大島さん。震災のおかげでトラックが売れてるから、まあまあかな。大島さんの言うとおりに準備しておいて、良かったよ」
「それはよかったですね」
「まあ、それでも経営はカツカツだけどね」
久しぶりに東京自動車製作所を訪れると、吉田さんたちが忙しそうに働いていた。
史実だと1910年代に経営者も社名も変わっている東京自動車だが、この世界ではまだ続いている。
それは俺たちの地道なテコ入れと、日本の国力が増しているからなのだが、それでも経営は厳しい。
いくら豊かになっているとはいえ、アメリカのように、多くの個人が乗用車を買えるほどではないからだ。
商用のタクシーやハイヤー、それとバスやトラックを中心に、徐々に台数を伸ばしているような状況である。
そんな状況ではフォードのような大量生産はできず、コストも下がらない。
そのため1922年でも、国内の保有台数は2万台程度(史実では1.5万台弱)に過ぎなかった。
しかし23年に大震災が発生し、鉄道が寸断されてしまった。
そこで荷物や人の搬送に、自動車が大活躍したため、24年には3万台(史実は2.4万台)まで行きそうな状況である。
そして史実では、増加分のほとんどを輸入車がまかなったのに対し、この世界では半分を国産車が占めている。
これは国産メーカーを育ててきたのに加え、輸入車の関税が100%になっているのも大きい。
というわけで、確実に改善はしているのだが、どこも経営には四苦八苦していた。
「やはり苦しいですか?」
「ああ、最近は商売敵も増えているからね」
「う~ん、それ自体はいいことなんですけどね」
「でもそんなにお客さんは、多くないからなぁ」
実際、この頃になると、東京自動車の他にも、快進社、発動機製造、川崎造船、三菱造船、石川島造船、東京瓦斯電気工業、実用自動車、白楊社などが自動車生産に参入し、しのぎを削っていた。
しかし前述のように、国内需要はそれほど多くない。
ちなみにこの頃のアメリカの自動車生産台数は、どんなものかというと、なんと300万台を超えている。
日本の総保有台数の100倍が、毎年作られるのだ。
ちなみに彼の国では、廃車台数も年100万台を超えている。
恐ろしい国である。
そしてその恐ろしい国のメーカーが、日本市場に本格参入してくるのを、俺は知っている。
1925年にフォードが、そして27年にはGMが日本に工場を建て、ノックダウン生産を開始するのだ。
これによって日本市場は、一気に拡大するものの、そのほとんどはアメリカ車という状況になってしまう。
結果的にそれは、零細でやっていた国内メーカーの成長の芽を摘んでしまうのだ。
しかしこの世界では、そうはさせない。
「ここだけの話、近々日本にも、アメリカのメーカーが参入してくると考えています」
「ええっ、そんなことされたら、うちなんかひとたまりもないじゃないか!」
「ええ、なので軍から政府に働きかけて、本格参入は阻もうと思ってるんですよ」
「ぜひ頼むよ。日本にはまだまだ、アメリカとやり合う力なんてないんだから」
「ですよね。だけど吉田さんたちも、覚悟はしてくださいよ」
「覚悟って、どんな?」
吉田さんが困惑したように問う。
「適当な資本家なり、提携先を探して、大規模な生産体制を構築して欲しいんです。もちろん軍や政府も、それを後押ししますけどね」
「大規模な生産体制って、一体どれくらい?」
「そうですね……年産1万台ぐらいですか」
「1万台って、今の百倍近いじゃないか! そんなに作って、売れるのかい?」
「先の震災で、自動車への注目度は高まってますからね。可能性はありますよ」
「それにしたって……」
吉田さんは渋い顔をしているが、冗談ではないのだ。
なんとか日本の自動車産業を、独り立ちさせねばならない。
そのためには俺も、もっとがんばらないと。




