20.辛亥革命の発生
いよいよ大正時代に突入です。
明治44年(1911年)10月
大胆な軍縮と軍機構の改革が進み、国内への投資が奨励されたことから、日本は未曾有の好景気に沸いていた。
なにしろ莫大な軍拡費用が、投資に回ってきたのだ。
まず道路の整備・舗装化、鉄道主要路線の改軌・複線化が進み、さらには製鉄・発電能力が増強された。
これによって輸送力が格段に進歩し、それだけで各種産業への投資が加速している。
それまでは寸断されていた日本各地の工業力が、にわかに連携するようになったからだ。
俺の助言でトラックの開発を進めていた東京自動車製作所も、この流れに乗って順調に販売台数を増やしている。
さらに後進の生産者も現れ、国末自動車製作所、快進社自動車製作所、宮田製作所などが史実よりも実績を伸ばしている。
これらの企業にも俺は足を運び、いろいろと助力をしていた。
特にどこもシリンダーブロックの鋳造に苦労しており(歩留まり5%以下とかが普通)、後島の力を借りて鋳造技術の底上げをしてやったら、とても喜ばれたものだ。
これらの全てが生き残れるとは思わないが、着実に技術者が増え、自動車への親和度が高まっているのは、喜ばしいことである。
また輸送力のアップは、各地への製糸業、機織り業への投資を促した。
これによって主に東北など、農業以外にはまともな産業のない地域の雇用が促進されている。
さらに政府は石油の精製所と、化学産業の建設も目論んだ。
これには政府の補助金を付けつつも、国内投資家の参入を促しているとこだ。
そしてその原料となる石油だが、まず北樺太のオハ油田の開発が進んでいる。
その産出量はまだ年に数千キロリットルに過ぎず、また冬は海が氷結するので、夏の数ヶ月しか搬出できない。
しかし開発が進めば、200万キロリットル/年を超えるポテンシャルを持っているのだ。
近海には油ガス田もあるので、地道に開発を進めたいところだ。
一方、東北の国内油田の開発も進んでいるが、その埋蔵量は知れている。
そこで樺太で巻きこんだロイヤル・ダッチ・シェルから、蘭印(インドネシア)の石油購入も始まった。
いずれは満州の油田も開発する予定なので、それを含めて多角化していけば、史実のような米国偏重の輸入は避けられるだろう。
そして満州だが、こちらも順調に開発が進んでいる。
ただし主に米国の資本で。
なぜなら国内からの資本投下や移民は、大きく制限しているからだ。
表向きは、”そんな金があるなら、国内に投資しろ”、という建て前になっている。
しかし本音をいえば、いつ環境が激変してもおかしくない場所だからだ。
そしてそんな環境の激変が、とうとう起こった。
「辛亥革命が起こったって、本当?」
「ああ、ほぼ史実どおり。武昌で反乱が起こった。これからほとんどの省が独立して、臨時政府ができるだろうな」
「それから袁世凱との取り引きを経て、清の滅亡か」
「そうはさせないけどな」
「ああ、中国には分離してもらった方が、都合がいいからな」
「さて、うまいこと満州を分離できるかどうか」
「まあ、やってみようぜ」
史実ではこの後、清朝は滅亡するのだが、俺たちはそこに介入することにした。
はたしてその試みは成功するのか。
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明治45年(1912年)3月
清朝はやはり、革命の鎮圧に失敗。
内地18省のうち、14省に独立されてしまう。
そして孫文を主席に中華民国臨時政府が成立するも、清朝は袁世凱を総理大臣に任命し、反乱討伐に当たらせた。
ところが孫文は袁世凱に、清の皇帝を退位させたら大総統の地位を譲るとして、彼を抱きこんでしまう。
そして袁世凱はそれを実現してみせ、清朝は300年近い歴史を閉じるのだが、ここで日本とアメリカが介入した。
「清が満州への撤退を了承したぞ」
「そうか、やったな」
「ああ、これで今後がやりやすくなる」
史実では袁世凱の説得で、宣統帝溥儀は2月12日に退位する。
しかし日本がアメリカと示し合わせて、満州への撤退を提案した。
元々、東3省(奉天、吉林、黒竜江)は、満州族の本拠地である。
そこで内地(万里の長城以南)の支配権を放棄する代わりに、清朝は東3省に撤退すればよいと提案したのだ。
もちろん孫文と袁世凱は大反対したが、日本とアメリカが後見するのだ。
彼らもあまり強いことは言えない。
結局、平和的に内地を明け渡すことを条件に、清朝の満州撤退が決まる。
ちなみにこれに合わせて、チベットにはダライ・ラマ政権(イギリスが後見)、モンゴルにはボグド・ハーン政権(ロシアが後見)が成立し、それぞれ独立を宣言することとなる。
それは別として、満州への撤退によって、大勢の満州人が東3省に流れこんできた。
そしてその多くは富裕な支配層であったため、膨大な資産も入ってきたのだ。
もちろん民国政府との話し合いで、国の資産は残さざるを得なかったが、個人の資産だけでもかなりのものだ。
その資産が投資に向かい、満州は未曾有の好景気に沸くこととなる。
さらに清朝は、軍備の拡充にも注力した。
すでに西太后もなく、しかも中華民国に敗北した清朝にとって、それをためらう理由はない。
日本とアメリカから大量の兵器を買いつけ、アメリカからは軍事指導団も招いている。
これによって満州の防備は急速に固められ、ロシアや中華民国も容易に手を出せなくなる。
そしてアメリカもガンガンと満鉄に金を注ぎ込み、日本はそのおこぼれにあずかる形となった。
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大正元年(1912年)7月30日 日本
史実どおりに明治天皇が崩御し、とうとう時代は大正に移り変わった。
俺たちがこの時代に来てから、すでに7年が経ち、名目上は25歳になっている。
ちなみに史実で明治天皇に殉じた乃木将軍は、勅命により自殺を止められ、軍の改革に邁進することとなる。
そんなイベントをこなしつつ、1912年は暮れていった。
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大正2年(1913年)12月
中華民国では12年12月に、総選挙が実施されていた。
そこで国民党が圧勝したはいいが、袁世凱が党首の宋教仁を暗殺し、実権を握る。
さらに孫文も勢力争いに負け、ふたたび日本へ亡命してきた。
ここから袁世凱は独裁を強め、この10月に正式に大総統に就任した。
さらに史実では、”21カ条要求”などのイベントを経て、袁世凱は皇帝を名乗ることになるのだが、海外や配下からの反対にあって、帝政を撤回する。
1916年6月に袁世凱が死去すると、中国は軍閥が割拠して争い合う、乱世へと突入するのだ。
この世界で21カ条要求は実現させないが、その他はおおむね史実に沿うであろう。
「来年にはいよいよ、第1次世界大戦か。あっという間だったな」
「ああ、ほんと。だけどやれることはやってきたつもりだぜ」
「そうだよね。発電能力だって着実に高まってるし、周波数も統合できた」
「製鉄能力もだぜ」
「それでも日本は、まだまだ弱小やけどな」
「まあまあ、これからさ」
実際問題、日本の国力は着実に高まっていた。
ちなみにこの頃になると、商用電源の周波数も整理され、60ヘルツに統合されている。
現時点における主な指標を、ここに上げておこう。
【1913年の国力】カッコ内は史実の値
実質GDP:1200億ドル(957億ドル)※2011年ドル換算
人口: 5200万人 (5167万人)
製鉄能力: 40万トン (20万トン)
発電能力: 60万kW (50万kW)
自動車保有:1500台 (892台)
石油生産量:50万kL (30万kL)
これが日露戦争後、8年にもわたって軍拡費用を、国内の開発に回してきた結果だ。
しかしそうはいっても、日本なぞまだまだ小国である。
例えばGNPを列強と比較すると、
イギリス:3.8倍
アメリカ:12.7倍
ドイツ: 4.4倍
ロシア: 4.6倍
というふうに、まだまだ大きな差がある。
(1900年はそれぞれ7.8倍、15.6倍、7.8倍、6.9倍だったのだから、だいぶ縮んではいる)
そんな日本ではあるが、明確に列強の一角として浮上するきっかけが、すぐそこまで迫っていた。
実質GDPは、フローニンゲン大学のデータを参考にしています。
後々の数値と比較するには、価値を揃えなければいけませんからね。
ちなみに製鉄、発電能力、石油生産はけっこういいかげんなので、参考程度に見てください。




