10.ポーツマス条約の締結
明治38年(1905年)6月下旬 東京砲兵工廠
東郷さんたちとの会談後、ようやく俺たちの戸籍の準備が整った。
俺たちは見た目どおりの18歳として、戸籍に登録されることとなる。
とはいえ、さすがにバラバラに住ませてくれるほど、信用も警備の余裕もないので、東京砲兵工廠の一角に、まとめて叩きこまれた。
ここは現代の後楽園周辺で、戦前まで巨大な軍需工場があったのだ。
そこで俺たちは表向き、少尉待遇の軍属として務めることになった。
「ふい~、ようやく外に出られたな」
「外っていっても、ほとんど軟禁状態だけどね~」
「いやいや、皇居にいるよりは、よっぽどマシでしょ。これから外出も許されるしね」
「それも護衛という名の、監視つきやけどな」
「ハハ、違いない」
12畳ほどの和室が、当面の俺たちの住み家だ。
プライバシーも何もないが、しばらくはここで生きていかねばならない。
幸いにも大学からの付き合いで、気のおけない仲間ばかりなので、さほど苦にはならないと思っている。
みんなでくつろぎながら、今後の予定を口にする。
「とりあえず俺は、自動車の調査をしながら、国産化の後押しをする感じかなぁ」
「俺は鉱山や製鉄業界を視察しながら、鋼材の開発だな。それから溶接工法の普及」
「僕は発電所を視察して、今後の増強計画を練るよ」
「こっちは石油と化学業界の状況を確認してから、ぼちぼち材料の開発やな。そして日本の化学工業を、大きく発展させてやるんや」
「俺はまず金稼ぎだな。めぼしい企業に出資して、資金を増やさないと」
まず俺は自動車の普及、性能向上に努めるのだが、自動車はまだまだ黎明期なのだ。
どちらかというと蒸気や電気動力の自動車がまだ優勢で、ガソリン車の方が少なかったりする。
なにしろガソリン車の量産に革命を起こしたT型フォードが、ようやく1908年に登場するのだから。
なので当面は国内で外車を輸入している人や、自作に手を付けようとしている人たちを見つけ、後押しをすることになるだろう。
え、技術開発はしないのかって?
この時代ではまだまだ基礎工業力が低すぎて、ちょっとやそっと技術を広めても、意味がないのだ。
なのでまずは、土壌づくりに取り組もうと考えている。
それから後島の方は、国内の鉱山や製鉄業界を視察することになっている。
そのかたわら、砲兵工廠で鋼材の開発をしたり、溶接技術の普及にも取り組むらしい。
これも土壌づくりから始めないといけないけどな。
中島も細かい技術開発より、まずは電気の普及を優先する。
そのためには発電所を作らなければならないので、電力業界を視察しつつ、行政に助言を与えるらしい。
ぶっちゃけ、どれだけ俺たちの言うことを聞いてくれるか、不安な部分もあるのだが。
佐島もまずは石油産業や化学業界を視察してから、材料の開発に取り組む予定だ。
とはいえ、あまり派手にやると、歴史への影響が大きくなるので、当面は既存技術の改良ぐらいに留めるとか。
少なくとも第1次大戦までは、自重するそうだ。
そして川島は、商会を立ち上げる予定だ。
陛下たちと相談して、伏見宮貞愛っていう親王殿下が、看板になってくれることになった。
この人は陸軍の大将で、50前のおじさんだが、快く協力してくれるそうだ。
そのうえで川島が何をやるかというと、これから伸びそうな企業に出資すること。
なんか川島の野郎、タイムスリップを妄想して、いろいろと情報を集めてたらしい。
それはこれから伸びそうな技術を開発する人物とか、第1次大戦までに大きく伸びる企業なんかの情報だ。
彼のパソコンにはそんな情報が入っており、目立たないように投資を進めるという。
ちなみに俺たちの素性がバレそうな、スマホやパソコンなどの未来製品は、厳しく管理されている。
砲兵工廠の一角の金庫に厳重に保管されていて、使いたい時は、いちいち許可を取らねばならないほどだ。
まあ、世の中に出すわけにはいかないから、仕方ないんだけどな。
「それにしても、これからどうなるかな?」
「う~ん、まあ当面は歴史どおりにいくんじゃない?」
「そうだな。とりあえず樺太を占領して、交渉で全島を割譲させたいな」
「そう、それからイギリスを誘って、油田開発や」
「いやいや、まずは東北の油田で経験値を積んでからで、いいんじゃない? どうせ国内の石油需要なんて、まだ大したことないんだし」
「いやいや、逆やって。樺太で得た技術を、国内に移転するんや」
「う~ん、そういう手もあるか~」
そんなたわいのない話をしながら、夜はふけていった。
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明治38年(1905年)12月 東京砲兵工廠
それからの流れはあっという間だった。
7月末には日本がサガレン(樺太)を占領し、8月10日には米国のポーツマスで講和会議がスタート。
交渉におけるロシアの態度は史実どおりだったので、小村外相が巧みに流れを誘導してくれた。
おかげで賠償金は請求しない代わりに、まんまとサガレン全島の確保に成功する。
ちなみにそれまでの間に、伊藤さんが何回も記者会見を開き、国内へ日露戦争の悲惨さを訴えていた。
なにしろその損害は、
戦死者 8万4千人
戦傷者 14万3千人
損失艦艇 91隻
というものであり、さらに19億円もの戦費が費やされたのだ。
それによって日本の尊厳は守られたものの、その代償はあまりにも大きい。
天皇陛下もこれ以上の損害は望んでおられないので、軽率な行動は慎むように、というお言葉が伝えられた。
そのうえで、賠償金は得られなかったが、韓国に対する優越権、ロシア軍の満州撤退、遼東半島の租借権と南満州鉄道の譲渡、さらにサガレン全島の割譲を勝ち取ったのだと、大々的に発表した。
もちろん”賠償金を得られない政府は弱腰だ”、と騒ぐような奴らはいたが、そんなのは少数派だ。
すでに日露戦争の被害状況が公表され、戦勝ムードに大きく水を差されていたからだ。
そしてこれらのキャンペーンのおかげで、日比谷焼き討ちのような大規模な暴動は起こらなかった。
伊藤さんは実にいい仕事をしてくれたな。
さすがは明治の元老である。
それから南満州鉄道については、やはりハリマンが共同経営を申しこんできた。
史実では桂首相と覚書を交わしたはいいが、小村外相にひっくり返されて涙目になった人である。
今回は俺たちが事前に情報を渡していたため、桂首相も余裕を持って交渉に当たれた。
表向きは歓迎ムードで接しながら、より多くの投資を引き出すよう、掛け合ったのだ。
その結果、南満州鉄道株式会社を設立し、その株式40%を米国資本が1億円で引き受けることになった。
そして日本が50%の株式を持ち、残りの10%を清帝国に2千万円で割り当てた。
清はただで寄越せとゴネたが、2割引だと言って金を出させている。
史実では完全に経営から弾き出していたのに比べれば、ずいぶんと宥和的であろう。
実際に清は少しでも利権が取り戻せたと考え、関係は若干、改善しているほどだ。
この交渉が決着して、史実でいう満州善後条約が清との間に結ばれた。
その内容はほぼ史実に沿ったものだが、前述の満鉄利権に加え、満州内の資源開発を共同で進めることも盛りこまれている。
当面は鉄道の復旧を優先するが、可能であれば、遼河油田や大慶油田を開発していきたいものだ。
ちなみに満州とは違うのだが、日本が中国に持つ租界の権利をアメリカに売りたいと、清に相談してみた。
これは上海、天津、漢口、蘇州、杭州、重慶、沙市、福州、厦門の9つで、アメリカは上海と天津にしか持っていない。
当然、清側は租界の売買は認めないと主張したが、こちらも粘り強く交渉した。
なんてったって、戦争のおかげで金がないからな。
”なんだったら、清が買ってくれるか?”と持ちかけたら、渋々ながら一部を了解してくれた。
結局、蘇州、杭州、福州、厦門の沿岸都市の権利をアメリカに売り、天津、漢口、重慶、沙市を清に返還することで話がついた。
アメリカは喜んで買ってくれたよ。
あの国は大陸への進出に熱心だからな。
当然、日本国内で、”大陸の利権を売り払うとは何事だ!”って騒ぐやつはいた。
しかし多数の租界も、必ずしも有効活用できていたわけではないのだ。
それぐらいだったら上海に一本化して、少しでも金を得たほうがよいという論法で、封じこめた。
まったく、いつの世にも、無責任なことを言う輩はいるものだ。
それから史実の第2次日韓協約は、その形を大きく変えた。
すでに1904年の段階で、大韓帝国は外交権を奪われ、大きな制約を受けていた。
そしてそれに不満を抱いた皇帝が、ロシアやフランスなどに密使を送ったため、日本が韓国を保護国化してしまった。
しかしこの世界では、俺たちの助言を受けて、不干渉主義に舵を切った。
具体的にいうと、日韓同盟を結んで大韓帝国の国境防衛には協力する。
ただし政治や外交には口を出さないが、金も出さない方針とした。
それだけだと、また国内の馬鹿どもが騒ぐので、ロシアから韓国を守った報酬として、北部の鉱山の採掘権を譲渡してもらった。
さすがに金銀の鉱山は許されないが、それ以外の卑金属だと意外にゆるいのだ。
そして朝鮮半島北部では、貴重なタングステンも採掘できる。
その辺を中核に、今後採掘を進める予定だ。
それから第2次日英同盟も、史実どおりに調印された。
ロシアを負かすほどの国との同盟は、イギリスにとっても利益があるからな。
イギリスとは今後も、仲良くしていきたいものである。
俺たちがタイムスリップした1905年という激動の年は、そんなふうにして暮れていった。




