欠落人間
――――さて、あれはいつの頃だったか。
確か、思い始めは両親の離婚のときだったか……。
僕の両親は六年前に離婚した。別段何か問題があったわけではない。親のどちらかが暴力をふるうような人でもなかったし、重い病気を患っていたわけでもなかった。父は穏和な人であまり怒ることはせず、母も気は強いが優しく、夫婦仲は幼い頃の僕達から見ても良好だった。
しかし、ある時そんな二人が超のつくほどの大ゲンカをした。原因はわからない。ただ、きっかけは些細なことだったような気がする。
普段は怒らない父が怒号を上げ、母は狂ったかのように叫んでいた。両者ともに顔を赤くし、目には涙を浮かべていたのにも関わらず、喧嘩が終わることはなかった。
両親が怒鳴り散らしている間、僕と弟は二階の(現在は僕の自室となっている)部屋で息を殺しながら戦争の終わりを待っていた。特に弟は僕にベッタリと貼りつき、たまに聞こえてくる怒鳴り声に身体を震わせていたものだ。
それから何時間後かに、戦火は止んだ。しかし喧嘩が終わったその時には、すでに父は家を後にしていた。
気の強いはずの母が、その時は床に手をつきながら泣き、それを見た弟も釣られて泣き出した。だが、問題は僕だった。僕はそんな母が泣く姿にも、弟が声を上げる様にも何も感じなかった(・・・・・・・・)。それどころか父と母の喧嘩の最中でさえ、何も思わなかったのだ。
そして、得てして悪い事柄というものは重なるもので、父と母が離婚して間もなく、母方の祖母が死んだ。祖父は数年前に他界していた。
母は親戚と葬式を進めながら陰で泣き、祖母に特に可愛がられていた弟はここでも大泣きしていた。けれど、やはり僕は何も感じなかった。祖母には弟ほどではないにしろ、かわいがってもらった記憶があったのだが、それでも涙すら出てこなかった。
悲しい、と思わなかった。〝思う〟ことに冷めていた。達観、というのだろう。なぜ皆が泣いているのかを頭では理解できても、心では理解できなかった。
取り敢えず、そのときの僕は母の言いつけ通りに、葬式のごたごたが終わるまでの間、弟の面倒をみていた。
けれど弟の面倒をみるために、母方実家の空き部屋で弟と一緒にいた時のことだった。
『にいちゃんは、なにもおもわないないの?』
そう、弟に言われた。
その一言が僕に、「欠落している人間ではないか」と気づかせるきっかけになった。人間が人間社会を生きていくうえで必要な他者への共感。それが僕にはなかった。達観し、思う事に冷め、共感できず〝和〟の中でも孤独なのだと気が付いた。
それから六年後の今――僕は、なにも変わっていなかった。やはり、欠落したままだった。つい先日受けた戦争の悲惨さを告げる授業。周りは涙を浮かべていたのにも関わらず、やはり僕は達観し、共感できずにいた。
自分の人生にすら真剣になれず、他者に踏み込まず、ただ在るだけ。自分の命に価値や意味も見いだせず、ましてや、そんな状態の僕に夢などあるはずもない。毒にも薬にもならない存在。だとするならば、それはつまり「いてもいなくても一緒だ(・・・・・・・・・・)」という事にはならないか?
――――生きていて、いいのだろうか?