逢魔が時
「ただいま」
夕方十八時。逢魔が時。
僕の溢した帰宅を知らせる言葉は返答されることもなく、誰もいない薄暗い廊下に空気のごとく溶けていった。この反響具合から察するに、まだ誰も帰ってきてはいないらしい。おそらく母は仕事で、弟は部活だろう。僕が一番乗りというわけだ。
「はぁ……」
僕は疲れからなのか、それともたいして嬉しくもない一番の称号を得たからなのか、自分でもどちらかわからないような溜息をひとつ吐くと、台所へと向かった。台所には、まだ朝の分の食器が残っている。
僕は食器を手に取るとそれらを洗い、ついでに手も洗った。十月も末、蛇口から出る水は少し冷たかった。
手を洗い終えた僕は、そのままの足で二階の自室へと向かう。
部屋に入ると僕は椅子に座り、勉強机の引き出しを開けた。そして、そこに隠してあった あるモノを取り出す。
『安楽死願い届』――――と書かれたその紙を。
「…………」
僕はそれを手に取り、なんとはなしに見つめた。
そこには難しい文章や、聞いたこともないような単語がツラツラと並べられていた。中には教師が話していなかったことも書かれており、その情報量の多さに、内容を理解するだけでもかなりの時間を有してしまいそうだった。
しかし――――
「まぁ、そんなことはどうでもいいんだけど」
僕は思ったことを口にした。
そう、僕にとって書いてある内容など大したことではないのだ。大切なのは最後の部分。
「…………」
本人記載の署名と捺印。僕はまだ、その部分を埋められずにいた。