マッドなスピン
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃんは、いまでもでんぐり返りってできるかい?
うーん、バカにしているつもりはないよ。ただ最近、自分の体が固くなってきているのを実感しているもので。この大人になったボディで、ぐるりとでんぐり返ろうものなら、首とか「ボキッ」てやっちゃいそう。想像したら、ちょっと怖くなっちゃってさ。
子供の頃を振り返ると、よくあんなことできたなあって思わない? マットがあるとはいえ、ケガと隣り合わせの運動。無事にこなすことができたのも、子供ゆえの軽さとか柔らかさがあったからじゃないかなと、いまさらながらに分析してしまうよ。
よく不思議なできごとって、子供のころしか出会えないっていうじゃない? 条件として、ピュアな心でいられることとかが挙げられるけど、僕は身体も関わってくるんじゃないかと思う。
たとえば、その不思議が求めていることについていけるくらい、無茶がきくとか、ね。
小さかったころ、こーちゃんの周りで不思議なことはなかったかい? 僕はちょっぴり味わうハメになったんだけど、聞いてみない?
ことの発端は、最初にも出したでんぐり返しの件だ。
学校の体育の時間。器械体操となると、僕はあまり気乗りがしなかった。
鉄棒、跳び箱……なぜか、調子がいい時と悪い時とで、できの差がひどかったからだ。
うまく行く時ならいい。自分の思い通りにことが進んで、気分を害する奴なんて、どこの世界にいるだろう。
うまく行かない時は最悪。自分の弱みを皆にさらして、平気でいられる奴なんて、どこの世界にいるだろう。
その日はマット運動。壁倒立などが加わるとなると、僕にとって一気に不安案件の上位に躍り出る。本来見える景色が逆転したり、回ったり、それでいて足が地面についていなかったり……。ごくごく身近にある、非日常体験だと思わないかい?
それになじめるかどうかが、そのままお化けに対する耐性を示すんだと、僕は個人的に思っていた。こういうことにすんなりなじめる人こそ、不自然や不可解を感じとり、受け入れることできるのでは……という具合にね。
その日の壁倒立はうまく行った。逆立ちする時、床とにらめっこをして、視線を外さないのがコツと聞いても、気分の悪さは耐えがたい。
本来、全身のどこよりも高みにあるはずの頭部。それがいまは腕をのぞけば地面の近く。重力に従うまま、身体中の血が顔へ集まってくるのを感じていた。
まず鼻に来る。それから口、両目……どこからも、皮一枚をひっぺがしたら、中の血潮がこぼれ落ちそうな気がした。いや、いまにも穴からこぼれてきそうな錯覚さえ覚える。
その直前にようやく解放されて、息を整えたよ。すぐには立てなくて、先生に壁へ寄りかからせてもらう許可を得た。まだ頭がくらくらしている僕の前で、横たわっている白くて長いマットの上を、クラスのみんなが前転や後転をしながら、横切っていく。
その何人目か。僕の友達のひとりが、回り出したときだ。
初めに先生から、連続して前転することは避けるよう、お達しがされている。前転は一度回ったら足をつけなおして、体勢を整えてから転がるようにしましょうってね。
それが、その子はいささかも止まる様子を見せなかった。運動が得意なことは知っていたけど、そもそも体勢がおかしい。
彼は手を使って回ろうとしなかったんだ。体育座りに加えて、自分の頭すら股の間へ差し込まんばかりの丸まった姿で、マットの上を転がり出す。
順番待ちするみんなの、忍び笑いが聞こえた。悪ふざけだと思ったんだろう。
運動ができる奴ならではの舐めプレイ。あるいは、周りと違うことをして目立とうとする、承認欲求のあらわれ。鞠のように転がる彼だったけど、その身体がマットから外れてからは、皆の表情から笑いが消えていく。
固い体育館の上で、ゴリゴリと音を立てながら彼の身体は転がり続ける。頭の近くへ差し掛かるたび、更にゴキゴキという骨のきしみが、僕の耳へも聞こえた。
極めつけに、彼の転がる速さがどんどん増していく。姿勢も変えないままに、どんどん、どんどん早くなっていって……反対側の壁にぶつかっていった。マットからたっぷり十メートル以上の距離を、丸まりながら、だ。
頭からぶつかり、彼の丸まりが解ける。天井を見上げ、大の字に伸びてしまった彼は、目を閉じたまま動かない。
近くにいた人が抱え起こそうとして、先生がそれを止める。頭をぶつけたなら、下手に揺らしたら危ないって。
でも先生が近づくより先に、その子が目を開く。頭を押さえながら立ち上がるも、すぐ足元がふらついて、尻もちをついてしまう。休んだ方がいいと、彼は僕の横に座らされた。そして、ぽつぽつと授業は再開される。
「――ねえ、なんであんな転がり方したのさ」
指導のために先生が離れたのを見計らって、僕は話しかけた。
彼はとん、とんと、かなづちのような動きで、後頭部を軽く壁へ打ちつけながら答えてくれる。
「直感。あれをやっておかなきゃいけないと感じたんだ」
「いやいや、ありえないっしょ。あの準備、あの転がり、かなり意識しなけりゃできないって。なに? ふざけたかったの?」
「自分のだから、じかには見てないけどさ。あんなの恥さらしだろ。まだ頭が痛えし。いまだろうが、後だろうが、もうやりたくないさ」
結局、わけのわからない応答に終始し、授業の時間も終わってしまう。
その後、器械体操の授業があっても、彼があの妙な格好で転がることはなかったよ。ただ、体育の授業が屋内の種目へ移って、数日後のこと。
夜中。家の二階の自室で布団を敷き、明かりを消した僕の耳には、風や近くを通る車の音が聞こえてきていた。
その中でもひときわ大きい、エンジン音をふかせる一台がある。音の具合からして、ちょうど家の真ん前に停まっているのだろう。僕の家の近くにある交差点は、まれに車の列ができ、門扉の前まで伸びることもあった。
ここの信号が変わる間隔は長くない。あと数十秒も過ぎれば青信号とともに、このエンジン音も遠ざかっていくはず。
そう思っていたのに、家の前にいるであろう車は、いくら待っていても動く様子がない。ますます音を立てて騒ぐばかりで、「いったいどんな車だ」と、窓から下を見下ろしてみたのさ。
そこに「車」はなかった。厳密には、僕が想像してるような「車体」がだ。
でもタイヤがあるべき位置に、影がうっすらと見える。
三軸の大型トラックと同じだ。信号に向かう形で前方に一対。後方に二対。でもそれ以外には運転席も、タイヤ同士をつなぐ土台も存在しない。
見間違いかと、目をこすってよく観察しようとして……後悔した。
タイヤのようなたたずまいだと思ったそれは、いつぞやの体育で見た彼と同じ。丸まった子供の姿だったんだから。
前に二人、後ろに四人――いや、よく見ると後ろはダブルタイヤと同じで、一人分で済むかもしれないスペースに、二人が寄り添っている。合計10人が、トラックのタイヤのごときポジションで、道路の真ん中にうずくまっていたのさ。
またしても、あのエンジン音が響き渡る。
もちろん、ここにエンジンはない。代わりに10人の丸まった人たちが、一斉に身体をぶるぶると震わせていた。彼らの振動が止むと、エンジン音もおのずと小さくなっていく。
そして彼らが動き出した。誰も身を起こすことなく、あの時の彼と同じように全身で転がり出したのさ。
始めこそ、ただの前転と変わりない速さだった。それがどんどん加速して、本来の車と遜色ないほどになり、窓から消えていってしまったんだ。でんぐり返しでね。
思わず顔を出して行方を確かめたけど、すぐ交差点を曲がっていってしまったらしく、彼らの姿は少しも確認できなかった。ただ直後に、彼らが停まっていた場所を調べると、アスファルトに湿り気があったんだ。
オイルじゃない。錆びた鉄のような臭いがプンプンしたよ。恐らくは血液だった。
翌日。あの彼が、身体中の目立つところに湿布とかガーゼとかをひっつけて、登校してきた。
何ヶ所からはまだ血がにじんでいたよ。みんなは驚くし、保健室に行くっていってたびたび授業は抜け出すしで、ちょっとした話題になったさ。
あのときの10人に、きっと彼も入っていたんだろう。なぜあんなことをしているかは、やぶへびになりそうで、尋ねずじまいだったけど。