竜と妖精
緑の鱗の老いた竜と、白い衣の小さな妖精。
緑のと、白いの。
これは、そんな二人の物語です。
秋空の中を、一匹の竜が飛んでいた。
大地に影を落とす巨体を、二枚の翼で力強く浮き支え、風を切って飛んでいた。
竜は千年の時を生きた老年の竜だった。
最盛期は宝石のように美しく輝いてた緑色の鱗も、今はくすんだ灰色が混じっている。
体の衰えもハッキリとしていて、音を置いてけぼりにして飛んだのは、もう何百年も前の話だ。
こうして今空を飛んでいるのも自由の旅路ではなく、人里に近い洞窟から、より静かな場所を求めての引っ越しであった。
やがて竜は、身を落ち着かせるのに適した場所を発見する。
それは山の中にある、人間が捨てた砦か何かの跡地……廃墟であった。
いつか戦に使われたのだろう、風化しきれず残っている石壁のところどころに焦げ跡が見える。
その戦も随分と昔の事だというように、廃墟を隠すようにして、綺麗なカエデの木がいくつも生えていた。
竜は、元は砦の中庭、あるいは広場だっただろう空間目掛けて身を傾けると、空から急降下した。
勢いを増して大地に飛び込み、ぶつかる前に大きな翼を広げて空気を受け止め、減速する。
竜が大地に足を下ろした時、ずしんという音と共に柔らかな地面がいくらか砂を巻き上げた。
「わぷぷっ」
不意に聞こえる誰かの声。
人の気配はなかったはずだと、竜はその場をぐるりと見まわした。
舞い上がった砂が竜の首振りで払われると、声の主の姿を見ることが出来た。
「けほっこほっ」
竜の正面、ほぼ土くれとなっている壁だった物の上に、白い衣を着た少女が座っていた。
少女といってもその背丈はネズミほどしかない、小さな小さな存在である。
竜は少女の正体を、一目見るだけで理解した。
「おお、こりゃあ失敬。妖精の先客がいるとは思わなかった」
竜の呼び掛けに、砂をかぶって咳をしていた少女が、自分の体についた砂を払いつつ返事をする。
「いえいえ、その大きな体で私のような小さな妖精を見つけるのは難儀でしょう。仕方のない事よ」
妖精の少女はそう言って、改めて竜と向き合い、スカートの裾をつまんで挨拶をした。
「初めまして。私は冬の妖精。ここで冬が来るのを待っていたの」
「こりゃご丁寧にどうも。ワシは竜。ここには騒がしさから逃れるために参った」
妖精の丁寧な挨拶に竜も頭をしっかりと下げて応え、二人は知り合いになった。
妖精は、小さい存在でも軽んじない大きな竜に驚き、竜もまた、ここまで丁寧で上品な妖精など初めて見た。
お互いにお互いを知りたいと思った二人が仲の良い友達になるまで、そう時間は掛からなかった。
仲良くなった年老いた竜と妖精の少女は、お互いを愛称で呼ぶ事にした。
いつまでも竜さん、妖精さんやキミ、あなたでは味気ないからと、出会って3日目位でそうする事になった。
お互いを愛称で呼ぶ事にしたのは、竜には沢山の名前があって、妖精にはひとつも名前がなかったからである。
お互いが決めた愛称で呼べば対等だと、二人は考えたのだ。
妖精は、竜の緑の鱗を見てこう言った。
「あなたは鱗が緑色をしているから、緑の鱗の君なんてどうかしら?」
竜は、妖精の白い衣を見てこう言った。
「キミは綺麗な白い衣を着ているから、白い衣の君なんていかがかな?」
そうして二人は互いを愛称で呼ぶようになったが、しばらくするとその愛称が長い事に気が付いて。
「面倒だから“緑の”でいいかしら?」
「面倒だから“白いの”で構わないかい?」
いつしか愛称は短くなって、気付けば二人は互いを緑の、白いの、とばっかり呼ぶようになっていた。
※ ※ ※
竜と妖精は、出会ってすぐのころは共通の話題で語り合った。
「ここはいいところだ。自然が多く、カエデの木も立派だ。雨風を防ぐ場所もある」
「ここはいいところよ。人の手が入っていて、登りがいのある石壁もたくさん。空もこんなに見晴らしがいい」
「遠くから実りの果実の匂いがする。ありゃきっと、熟れた柿でもなっているな?」
「見て見て! 美味しそうなどんぐり。近くにクヌギの木でもあるのかしら?」
「今日は昨日より寒いな。段々と嫌な空気になっていくよ」
「今日は昨日より寒いわ。段々と好きな空気になっていくの」
二人の見ている物はまるで違っていたが、二人の会話はよく弾んでいた。
お互いがようやく手に入れた話し相手だったから、話がかみ合わなくても、意見がぶつかっても楽しかった。
「白いのは何を言っているんだ?」
「緑のこそ何を言っているの?」
話せば話すほど、お互いがよく分からない。
だがだからこそ、言葉は尽きなかった。
「旅をしてきたんだよ。遠く遠く南の地から、長い年月をかけて」
「旅をしてきたの。遠く遠く北の方から、まだ一年も経ってないけれど」
「ずっと孤独に行くだろうと思っていた。何しろワシは竜だから」
「ずっと孤独でいると思った。だって私は妖精だから」
言葉を交わして、日々を過ごして。
竜と妖精は少しずつお互いを知り、お互いを理解し、お互いを思うようになった。
「この間話していた柿の実だが、ほら、これだ。一緒に食べよう、白いの」
「緑のは鱗の掃除が下手くそね。せっかくだから、私がきれいにしてあげる」
竜に出来て妖精に出来ない事は竜がしてやって、妖精に出来て竜に出来ない事は妖精がしてあげた。
昨日より妖精はグルメになって、昨日より竜は身綺麗になった。
二人は毎日を楽しく過ごし、ますます仲良くなった。
「白いの、キミは間違っているよ。魚は焼いた方が美味しい」
「間違っているのはあなたの方よ、緑の。魚は煮込んだ方が絶対に美味しい」
「キミは少し焦げた皮のパリッとした触感と苦みについてもっとよく学ぶべきだ」
「あなたこそふわふわとろとろになった身の柔らかさと甘みを理解するべきよ」
「そんな悠長に待っていられるか」
「せっかち過ぎなのよ」
仲良くなったからこそケンカもしたが、お互いが大切だった二人は最後には仲直りした。
「白いのはまだまだ若い」
「緑のは考え方が古いのよ」
軽口を叩き合いながらも、カエデの森の廃墟から、竜も妖精も離れようとはしなかった。
カエデの木の葉は、そのすべてが鮮やかな赤に色づいていた。
※ ※ ※
妖精は世界を知らなかった。
だから、長い長い時間旅を続けていた竜の話を聞きたがった。
「ねぇ緑の。今度は広い広い海のお話をしてくれない?」
「海の話はこれで8度目だ。キミも好きだね」
「構わないわ。緑のが話す海の話は、毎回中身が違うんだもの」
「それは結構。では今日は、赤色の海について話をしよう」
「ええ!? あなた最初に、海は青くて美しいものだと話したじゃない!」
「そうとも。だからこれは、一部の特別な海の話だ」
竜は妖精にせがまれるまま、彼が長い年月をかけて見知った事を何でも話して聞かせた。
高い高い、白い化粧をしたいくつもの山々の話を。
暑い暑い、岩に囲まれた灼熱の池の話を。
広い広い、どこまでも澄み切った青い海の話を。
遠い遠い、誰の物にもならない果てなき空の話を。
物知りな竜は話し上手で、知りたがりの妖精は聞き上手だった。
竜はあの手この手で妖精を感動させて、妖精はあーだこーだと思いを馳せた。
「白いのは面白い考え方をするね」
「そうかしら、こんなのいつもの事よ?」
竜は色々な事を見落としていた。
そんな彼にとって、妖精の目線で語られる物事は新しい気付きに溢れていた。
「大事件よ、緑の」
「その言葉は昨日ぶりだね、白いの」
「今日はもっとすごいのよ。カエデの葉がいっぱい落ちてたの!」
「そんなの、昨日だって落ちていただろう?」
「気付いてないのね。私の寝床、日に日に豪華になっているのよ?」
「なんだって?」
「ああ、カエデの葉がこれ以上落ちてきたら、いつか鳥の巣ほどの寝床になるわ。どうしましょう」
「その時は、完成祝いに木の実でも贈ろうか」
「それはいい知らせだわ。ぜひよろしくね」
竜にとってはささいな事でも、妖精にとっては大事件である。
風に吹かれカエデの葉が舞い散るのも。
日に日に陽の当たる時間が減っていくのも。
寝ぼけて竜が石壁を壊しても。
「まぁ大変、木枯らしとカエデの葉のダンスタイムだわ。彼らの一世一代の大舞台、見守りましょう?」
「夜の時間が伸びていくわね。明日はもっと、星と語り明かせるわ」
「見て見て緑の。ここ、とんがってるわ。芸術ね。あなた建築家の才能があるんじゃなくて?」
妖精は竜が歯牙にも掛けてこなかった事に、特別な意味を与えていった。
妖精の小さな体で表現される何もかもが、竜にとってはキラキラした財宝のようだった。
竜と妖精は、そんな風にしてお互いを深く重ねあっていた。
※ ※ ※
それは、竜と妖精のいつものたわいのない会話のひとつだった。
「ねぇねぇ緑の。あなたは人間と話をしたことはある?」
「あるともさ。彼らは臆病で、勇敢で、悪辣で、そして善良だ」
「それって矛盾してないかしら?」
「そうともさ。彼らは矛盾しているからこそ人間なんだ」
「へぇ、人間ってすごいのね」
「すごいとも。で、どうしてこんな話を?」
「あなたが壊した壁を作った人間は、怒ってるんじゃないかって思って」
「ああ……確かに。謝らないといけないな」
「その人はどこにいるのかしら?」
「さあてね。出会った時にでも謝罪するとしよう」
「そうするべきね」
そこでひとつの話題が終わるのが二人のいつも通りだったが、今日は少しだけ違っていた。
「そうだ。忘れていた」
「あら、何を?」
ゆらりと首を持ち上げて、竜が南の空を見る。
濁りを交えた青い瞳が、妖精の知らないどこか遠くを見つめていた。
「ここに来るまで住んでいた洞穴に、昔に出会った人間からもらった大切な物があったんだ」
「それは大変だわ。すぐに取ってこないと」
「ああ、とても大切な物だ。帰らないと」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
妖精に見送られ、竜は老いた翼を羽ばたかせて空へと舞い上がる。
遠く南の空へ向かって飛んでいく竜へと、妖精は彼が点になって見えなくなるまで手を振っていた。
その日、竜は妖精の待つ廃墟に戻ってこなかった。
※ ※ ※
カエデの葉がすべて落ち切っても、竜が廃墟に戻ってくることはなかった。
話に聞いていた限りでは、ここから前の住処まで、半日と掛からずに辿り着けるはずである。
「もしかして、道に迷ったのかしら?」
年季の入った空の旅人が道を間違うはずもない。
「忘れ物が見つからないのかしら?」
物知りな彼が大切な物を雑に扱ったりするはずがない。
「不思議な事があるものね」
妖精は竜が出かけている間、一人で過ごした。
毎日は相変わらず変化の連続で、それらは変わらずに妖精を楽しい気持ちにさせた。
葉が落ちて、日に日に見晴らしが良くなっていく森の姿も。
凍えないよう身を寄せあう鳥達の姿も。
すぐに眠りについてしまうようになった太陽も。
妖精にとって初めての連続で、彼女は毎日大事件に飛び跳ねた。
だが、どうしてだか。
竜がいたころよりもほんの少しだけ、楽しくないような気もしていた。
「緑のなら、この森を見てなんて言うのかしら?」
「あの鳥達みたいに引っ付いたら、緑のはどんな顔をするのかしら?」
「こんなにいっぱい寝てしまうだなんて、どこかの誰かさんにそっくりになってしまったわね」
何を言っても返事がない。
何を知っても伝えられない。
それがたまらなく、苦しい。
妖精は、生まれて初めて寂しさの中に立っていた。
「早く帰っておいで、緑の鱗の君」
遠く南の曇り立つ空に向かって、妖精はつぶやく。
ネズミの鳴き声よりか細いささやきは、誰の耳にも届く事はなかった。
妖精のまとう白い衣が、気付けばキラキラと美しい輝きを放ち始めていた。
※ ※ ※
次の日の朝。
妖精が目を覚ますと、いつもの場所に竜が戻ってきていた。
竜は全身傷だらけだった。
緑の鱗は至る所が剥げて、赤い血を流していた。
牙も片方が折れ千切れ、翼も破けてしまっている。
一目見て、妖精は竜がもう長くない事を悟った。
「お帰りなさい、緑の」
「ただいま、白いの」
「起こしてくれてもよかったのに」
「寝ているキミが幸せそうだったから申し訳なくてね」
竜は、もう片方が見えなくなっている瞳に妖精を映す。
視界が悪くても、妖精の姿はよく見えた。
「気のせいかな。キミが輝いて見えるんだ」
「気のせいよ。だって私はいつも通りだもの」
そう言って妖精は、えへんと胸を張ってみせる。
竜は静かに息を吐いた。
「お土産があるんだ。白いの」
竜が取り出したのは、小さな小さな指輪だった。
金でこしらえた輪に、竜の鱗と同じ色の、緑色の宝石がはめ込まれた財宝だった。
「まぁ。これはなかなかの髪飾りね」
指輪を受け取った妖精は、それを迷うことなく頭に被った。
髪飾りは小さな妖精にぴったりだった。
「ちょっと重いけど、あなたとお揃いだわ」
「よく似合っているとも」
「ありがとう緑の。で、これが遅れた理由なのかしら?」
「いかにも。実は、ワシの家がもうワシの家じゃなくなっていたんだよ」
「なにそれ! 聞かせて!」
久しぶりに竜の話が聞けるとあってはしゃぐ妖精に、竜も楽しげに口を開いた。
竜が前に住んでいた場所には、別の若い竜が住み着いていた。
竜の貯め込んだ宝も、すべてが若い竜の物となっていた。
竜は目的の品だけでも返してもらえないかと願ったが、若い竜はそれを拒んだ。
意見が噛み合わなかったから、ケンカになった。
「なるほど。だからそんなにボロボロなのね」
「そうとも。これは名誉の負傷さ」
若い竜と真っ向から戦って、老いた竜に勝ち目などなかった。
だから竜は勝手知ったる我が家の中を逃げ回り、目的の品を手に入れて、すたこらさっさと逃げたのだという。
「それがこの髪飾りだったのね」
「そうとも。人間が教えてくれたんだ。孤独な竜よ、いつかあなたに大切な人が出来たなら、それを渡してあげなさい。とね」
「光栄ね」
「そう言ってもらえると、苦労した甲斐もある」
「ええ、本当に光栄よ。緑の鱗の君」
話し終える頃には、竜はもうぐったりとしていて、息も深く、荒くなっていた。
「お疲れ様。大変だったでしょう? そろそろもう一眠りしてはいかがかしら?」
「そうだな、そうしよう。どうにもさっきから、眠くて、仕方がないんだ」
「大丈夫、あなたのためにきれいなお布団を用意するわ」
「それは、よく、眠れそう、だ」
「ええ。寝心地は私が保証するわ。だから、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ……白い衣の、君………」
妖精がそっと、竜の眉間を撫でさする。
少しずつ少しずつ竜のまぶたが落ちていき、閉じれば間もなく彼は眠りについた。
荒かった息も静かになり、傷を負って高まっていた熱も少しずつ引いていく。
永い眠りにつく竜のために、妖精は子守唄を歌い始めた。
それは一生に一度だけ、歌う事を許された歌だった。
廃墟に雪が降り始める。
それは妖精が、天に祈りをささげて降らせた雪だった。
しんしんと降り積もっていく雪が竜の体を優しく包み込み、覆いつくしていく。
妖精は、少しずつ見えなくなっていく竜のそばで歌い続け、ずっと見守っていた。
降り積もる雪は近隣の山々のすべてを覆いつくすほどに降り続け、生きとし生ける者、そのすべてがその到来を理解する。
秋が終わり、冬が来た。と。
冬を呼んだ妖精は、その役割を終えた。
廃墟には、もう誰もいない。
うず高く積もった白い雪の上には、そこに寄り添うようにして緑の宝石が光り輝いていた。
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