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忘れられない長い夜  作者: 森 彗子
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長い夜が終わり

 ざわめきのような、沢山の人たちの声が周りでしている気がする。目を閉じたままなので、気配やら声やら感じてはいるが、ここがあの真夜中の納屋だとしたら可笑しな話ではないか、と疑問が湧いてきた。


 ―――目を開けなければ。


 私は薄い光の帯が上下に広がる様を眺めてから、両目をしっかりと見開いた。


 なぜだろう。 ここは、事故に遭ったその場所じゃないか。


 あの大勢の声は? 気配は?


 何が起きているの?


 痛みを覚悟しながら頭を持ち上げてみた。少しだけ痛いぐらいで、案外簡単に頭を上げることが出来たので、私は首を回して周囲を出来る限り見渡してみた。


 夜露が乗った雑草が目の前にある。どこかで鳥が羽ばたくような音が聞こえる。朝焼けに染まった空は、怖いほどに美しくて幻想的だった。まだ付近には朝霧が立ち込めていて、視界はそれほど良くはない。傷を気にしながら、私は立ち上がろうとしたが動けなかった。


 確か家までたどり着いて、それから納屋に入ったんじゃなかったか?


 そして、そこで思わぬ人が待ち受けていて……


 そう。私はてっきり死んだのかと……



 ズキっと鋭い痛みが全身に走った。「ああぁぁぁ」と声が漏れた。


 耳に入ってくる自分の声は、しゃがれている。現実だ。紛れもなく、私は今ここにいる。


 あれは夢だったの?


 家に帰る夢だったというの?


 あんなにリアルだったのに……


 呆然としていると、どこからか砂利を踏むような音が聞こえてきた。その音が段々と近付いてきて、ついにその正体が草間から覗いた。


 一匹のキツネのようだ。目と目が合う。


 キツネは警戒するように頭を下げて鼻をひくつかせながら、じっと私を見ていた。キツネは私を食べたりはしない、と思ったらなんだか可笑しくなって「ぷ」と噴出してしまった。吃驚したようにキツネは飛び上がると、何かに警戒するようにきょろきょろしてから素早く去ってしまった。


 キツネが去った方角とは真逆の方から、また足音が聞こえてきて、それはまた私を見つけると吃驚したように鼻をひくつかせた。先程のキツネの何倍も大きな犬だ。私は身構えたが、犬は遠慮なく私の体中の匂いを嗅いでいた。そして怪我している辺りを集中的に嗅ぐと、今度は長くて柔らかな舌でぺろぺろと舐めまわした。


 見知らぬ私のことを心配してくれているのか、クゥンと悲しそうな声を出している。


「おまえ、どこの子? 朝の散歩なの?」


 私はか細い声で犬に話しかけてみた。


 犬はさっと頭を上げて、遠くを眺めるように空に向かって遠吠えを始めた。赤い首輪に金色のタグが見えたが、目が霞んでしまって文字が読めない。飼い犬であることはわかった。


 それから、ほどなくして自転車で誰かが近づいてくる気配がした。自転車を乗り捨てたのか、砂利を踏みながら急ぎ足でその人はやってきた。


「なんてことだ!」


 とても驚いた様子で、私と目が合った。「これはひどい!」と、見覚えのあるその人の良さそうなおじさんは駆け寄ってきた。


 「君、いつからここに? 自転車で転んだのかい?」と聞かれたが、私は急速に眠くなり、目を閉じてしまった。


「アリー。起きて」


 柔らかくて優しいお母さんの声がした。

 

 私は目を開けた。


 見えるのはただ空だけだった。


 懐かしい色の雲がたなびいている。


 唇が渇いて、言葉が出せない。


 わけがわからない。


 私を呼ぶ声は、もうどこにも居ない。



 寂しくて涙が溢れ出てきた。



 遠くから大勢の足音が迫って来るような気配がして、私はまた重いまぶたを開けた。お父さんの友達の消防のおじさんに、水道工事屋さんのおじさん、大工さんにさっきの人、隣の農園のおじさん、保安官二人に、ケビンがいた。


 「姉ちゃん!」と真っ青な顔をしていた。


 担架に乗せられて、私は牧草地を移動していく。


 気分とは裏腹に、空は青く澄み渡っていてとても綺麗だった。


 私は不思議な気分に浸っていた。



 分岐点に来ると、そこに停めてあった救急車に乗せられて、地元では一番大きな病院に運び込まれた。古い柵の丸太が腕に突き刺さり、貫通して脇に刺さっているのを除去する手術を受けた。入院ベッドに横たわった頃、お父さんが遠方から戻ってきた。


 最初、お父さんは滅茶苦茶に泣いていた。そして案の定、ものすごく怒られた。


 私は泣きながら怒っているお父さんを見て、一緒に泣いた。お母さんが死んだ時、我慢して流せなかった分の涙まで全部洗い流す勢いで、号泣した。そのすぐそばで、ケビンも一緒になって、家族三人でバカみたいに泣いた。


   ◇


 一か月後に退院して、やっと自宅に戻ってからすぐにあの問題の納屋に行ってみた。


 そこには血の付いた手型がいくつも残されていた。


 ケビンはあの日、朝起きて私がまだ帰っていないことに気付いて外に出てみると、そこらじゅうに血と泥の手形が着いていることに驚いたと言っていたけれど、本当に私が付けた跡が沢山残されていた。


 外壁の汚れは雨風でもう消えてしまったけれど、

ここにこうしてしっかりと証拠が残っている。


 あまりにも不思議な出来事に私は笑いを堪え切れずひとしきり大笑いした。それから、その場に崩れ落ちるように号泣した。


 あれは夢なんかじゃなかった。私はここまで辿り着いていたんだ。そして、この場所でお母さんに抱きしめられたのもきっと夢じゃない。お母さんは私を守ってくれたんだ。


 きっと、そう。


 家族がこれ以上、死によって引き裂かれるのを止めてくれたに違いない。


 今夜はお父さんに、お母さんの死の真相について聞いてみようと思う。


 焦らなくても良い。お父さんが話せる時が来るまで、待ってあげても良い。それだけじゃなく、私の本音を素直に打ち明けてみよう。私は今こうして、ここに生きていられているのだから。



「お母さんが守ってくれた命の灯を、宝物にするね」



 日溜まりの納屋に、お母さんの残り香がした。





 おわり


 一人称で小説を書こう!そう思って初めて書いたものが、この作品です。

 平凡な日々が突然、非日常に変わるとき、人は生きるために絶望と恐怖から逃れようと足掻きます。一度でも、人生においてそうした体験をすると、普段何気なく暮らしていることが特別であり奇跡のようであることを認識するようになります。この小説は私の実体験を元に、かなり脚色してドラマチックに描こうと試みました。大変、勉強になりました。


 最後まで読んで下さって、ありがとうございました。


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