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忘れられない長い夜  作者: 森 彗子
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血と泥と足跡と

 気が緩んだせいだ。ため息をついて再び立ち上がろうとしたが、体の感覚がおかしい。遣り切れない気持ちになりながらも立ち上がろうと体中に力を漲らせてみるものの、なかなかうまく行かない。


 「どうなってるの」とうめき声を発した。


 辺りには当然、誰もいない。孤独は、こんな瞬間に身に迫ってくるものだな、と噛みしめた。


 取りあえず呼吸を整えながら、私は自分の両手を見てみた。しっかりと大地を掴んでいる。指先に意識を注ぐと、ちゃんと動いていた。手のひらで土を掴むが、わなわなと震えて力が入って行かないのだ。失血のせいかもしれない、と思った。


 で、だから?


 ここであきらめるわけにはいかないのよ。


 なんとかして動かなくちゃ。


 私は両目を瞑り、深呼吸をしながら全身の感覚に集中した。

 傷が痛い。寒気がしている。動悸を感じる。ヒューヒューと喘息のような音が肺から漏れているようだ。


 それでも、呼吸は問題なく出来ている。ただ、眩暈がしていた。ぐるぐると地上が揺れながら回っているような、不快な感覚だ。足の裏に意識を持っていき、大地を踏みしめてみた。そのまま脚全体に体重を乗せて、ゆっくりとお尻を持ち上げるように立ち上がってみた。


 よし、うまく行った。


 一歩前に足を出そうとすると、フワフワと雲の上に立っているかのような不思議な感覚になっていることに気付いた。さっきまではあんなに体が重たかったのに、今度は軽すぎて変な感じがしている。また一歩前に進んでみると、さっきの歩幅とはくらべものにならないほど勢い良く足が上がって驚いた。なにがどうなっているのかわからないが、このうちに家に帰れたら良いと思った途端、もう体が勝手に走り出していた。


 フラフラしているが、走れている。痛みや吐き気はもう気にならない。感覚が麻痺したようだ、と思った。


 そして、中継地点である分岐点にたどり着くことが出来て、私は思わず笑いが込み上げた。


 ―――あと半分。


 防風林を抜ければもう間もなく家の明りが見える場所に出るはずだ。そこからは夢中になってひたすら走った。だから、自分でも気づかないうちに呆気なく家の近くまでやって来てしまった。意識が飛んでもおかしくない重症なのかもしれない、と自分を納得させると、私はやっと暗闇の中で輝くランプの明りを確認して安堵の気持ちになった。


 家を囲んでいる木製の柱のひとつずつには、お父さんの手製のランプがぶら下がっている。いくつもあるランプだけど、最近は、お母さんが死んでからは家に最も近い柱のランプだけを灯していた。

 私はその下を通り過ぎて、玄関のドアにたどり着くやいなやドアノブに手をかけた。でも、力がうまく入らないのでドアノブを掴んでもすぐにするりと滑ってしまう。


 血だ。

 血と泥が邪魔をしているのだ。


 私は自分の服で血を拭い、再びドアノブに手をかけたものの、どんなに力を込めても震えながら滑ってしまい、しかもこんなに重かったかと驚くほどの頑丈さに舌を巻いた。


 とうとう、びくともしない扉の前に力尽き、その場にへたり込んでしまった。ドアを叩いて様子を見ても、誰の気配もない。


 父は今留守のはずだ。

 家の中に居るのは、多分弟のケビンだけだ。


 私はまたゆっくりと立ち上がって、ケビンの部屋の窓の辺りまで壁伝いに歩いた。


 半分閉められたカーテンと、テーブルランプの明りがぼんやりと光っている。窓からは時計も見えた。午後22時過ぎだ。私は重い腕を持ち上げて窓をコンコンとノックした。でも、ケビンはベッドに身を預けたまま動かない。すっかり寝入っているようだ。


 いつも開けっ放しのはずの裏口のドアにも行ってみよう。


 私はゆっくりとふらつきながら壁伝いに家の周囲を移動して行った。


 裏口は閉まっていた。私は途方に暮れた。

 ふと視界の隅っこに暗がりではあるが納屋が見えた。


 懐かしい。


 あの納屋は昔、父に叱られて家に入れて貰えなかったときに、怯えながらも逃げ込んで一晩明かした場所だった。吸い込まれるように、私はそのドアを開けて中に入った。


 もうすっかり枯葉が落ちた広葉樹の森の脇にある小さな納屋の中には、昼間の陽だまりの余韻が残っているかのように暖かかった。


 牛のために用意された草のブロックに腰を下ろして、私はそのままそこでうとうとしてしまった。


 朝にはきっとケビンが私を見つけてくれるだろう。血と泥と足跡があるのだから、きっと大丈夫のはず……


 朦朧とする意識の中で、ふと誰かに名前を呼ばれた気がした。


 ―――これはきっと夢だ。


 声がした方に顔を向けると、納屋の奥からお母さんが歩いて来たのだ。その顔は微笑みながら泣いているようだった。私を抱き上げて「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」と優しい声で囁き、あのいつものような手つきで私の背中を撫でてくれた。


 お母さんの匂い、温もり、これは夢じゃないのかな……


 私は薄れゆく意識のなかで何度もお母さんと叫んだけれど、きっと声にはならなかったんじゃないか。そう思いながら、暗い眠りに落ちた。



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