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忘れられない長い夜  作者: 森 彗子
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どうにもできない問題

 頭が冷静になったところで、私は現実に直面した。ついさっきまでは考えようともしなかったことだ。


 それは、傷の程度のことだ。この刺さったものが錆びた鉄かなにかで、破傷風にでもなって敗血症になっていたら最悪だ。命に関わる危険がかなり高い。


 小さい頃に、有刺鉄線の錆びた先端を誤って肘に刺したことがある。無知で幼い私は、家に帰って絆創膏をただ貼ってそのままにしていたら、傷が化膿して熱を持ち、全身が酷い倦怠感に包まれて、終いには意識が無くなるほど悪化させてしまったことがあった。気付いた時には病院のベッドの上で寝かされていて、青白いお母さんの顔色が最初に目に飛び込んできたときは、心の底から恐ろしくなった。


 発見が遅れていたら、死んでもおかしくない怪我だったのだと聞かされ、生きていることにどれほど感激したか……。


 昨年の秋、お母さんが亡くなったばかりなのに、今度は私が自分の間抜けのせいで死んだりすれば、お父さんや弟には本当に申し訳ないことをしてしまう。お母さんが死んだときの、あんな悲しそうな顔を二度とさせたくはない。身を切られるほどに辛い死別を、これ以上繰り返すわけにはいかないんだ。


 そうよ、死ぬわけにはいかない!

 お母さんの分まで生きるって誓ったんだもの!!


 私は焦りと共にかなり苛立っていた。思えば最近の私は、いつも苛々してばかりいたように思う。この持って行き場のない怒りは、どこからやってきたのだろう。


 また、舌打ちした。


 そしておもむろに腕時計を見た。秒針がピタリと一点を刺したまま、静止している。さっきも見て同じ気分に浸ったはずなのに、まだ時計に頼ろうとしている。この時計はお母さんの形見の品だ。


「お母さん、私を守ってね」


 歯を食いしばりながら、一歩ずつ前に進んでいく。どれほどの時間を過ごしているのかを知る、その手段を失った今は、ただ出来ることに集中する以外ないと思われた。


 苛立ちが募っても、どうしようもない。

 どうにもできない問題もあるのだ。


 ふと、お父さんの顔を思い浮かべた。虚しい目に無精ひげ。言葉を失った乾いた唇と、影のある無表情。あれはきっと、お母さんを失ったショックでどうにもならないことだったのだろう。お父さんだって、きっと自分のことで手いっぱいのはずだった。


 何もわかってあげられなかったのは、私の方だ。構ってもらえないとか、過干渉だとか、勝手な言い分並べてお父さんを困らせて。


 バカだった。私は最低最悪の娘だった。


 気付けばどんどん涙が溢れて、もう何も見えなくなっていた。


 単純に前進を繰り返すことは容易なようでいて、今の自分にはとても難しいことになってしまっている。涙で霞んだ視界の向こうには家へと続く一本道が伸びているというのに、様々な感情や思考が行く手を阻んでいるかのようだ。つまり、自分が自分の足を引っ張っているということに他ならない。


 やっぱり自業自得なんだわ、何事にも。


 とはいえ、足は前に出ているし、ふらつきながらでもこうして立っていられるのだから、常識的に考えれば全くもって大丈夫なのだろう。


 「私は大丈夫!」と自分に何度も言い聞かせては、ひたすら歩くことに集中するように努めた。


 しばらくは無心になって歩いたが、ふいにまた幼き頃の思い出が脳裏に流れ出した。小さな少女だった私と父のやさしい声でハミングしている風景が見えてきた。


 大きなお父さんの手を掴んでいる。私は三つ編みをしていて、お母さんが手縫いで繕ってくれた花模様のワンピースを着て、いつもより大人っぽくなれていると大はしゃぎだった。そう、あれは移動遊園地が町にやってきていて、私は初めて回転木馬に乗って遊んだ思い出だ。


 夕闇の中でもほんのりと灯ったランプの明りが幻想的な風景を浮かび上がらせていた。薄汚いテントもランプの明りの中ではとても美しく見えたのが不思議だった。人の気配が暖かくさえ感じた。


 へたくそな鼻歌は、確か当時流行していた映画の挿入歌だった。歌詞までは思い出せないけれど、お父さんと私でよく一緒になって歌っていた。


 あの頃は、お父さんのことが大好きだった。


 優しくて頼りがいがあって、どんなときも私を抱きしめてくれてた……。

 眠くなった私を大きな背中で背負い、そこで寝かせてくれた。

 その隣で私の顔や髪を撫でるやわらかいお母さんの手の感触や、髪や服から感じ取れる良い匂いも一緒に思い出された。


 お母さんがまだ美しく元気だったあの頃。


 お父さんがヒステリックで厳しくなったのは、お母さんの死がきっかけだったように思う。


 ―――なぜ、お母さんは死んだのだろう?


 ある日、元気だった人が突然死ぬことはあることぐらいは知っている。

 ただ、なぜ死んだのか。


 未だに私はその本当の理由を聞いていなかった。


 病気やノイローゼがあったかどうかは、毎日接していても全く気付かなかった。お父さんに聞いても、首を横に振るだけで何も説明してくれないまま、もう半年以上が経っている。


 そうよ。

 お母さんの死の真相を知らずして、死んでたまるか。


 急に現実に返ってやる気が漲ってきた。


 お母さんの死の真相は、何を差し置いても聞かなければならない重要事項なのだと思った。その決意が、明確な希望として私を奮い立たせてくれる一番の動機になった瞬間だった。


 わずかな傾斜だが坂道を上っていることに気付く。


 小さな丘になっているポイントがあることを思い出した。ここまで来たのなら、例の分岐地点までは残り500メートルほどだろうか。急に気が昂ぶってきた。


 丘を越えると今度は下り坂になった。


 おぼつかない足取りの私は、よろけながら傾斜を下り始めたのだが、心配している矢先に足を捻じり、慌てて踏みとどまろうとして最終的にしりもちをつく格好でまだ転んでしまった。



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