迫り来る不吉な闇
深呼吸をしろ。
目を閉じて、落ち着け。
ここはうちの庭。
うちまでほんの数百メートルの勝手知ったる庭じゃないの。
大丈夫。
こんなところで諦めなければ、ちゃんと家に着いて泥だらけの服を着替えられるわ。
そう言い聞かせながら、私はゆっくりと立ち上がって闇の中で目を開けた。
進むべき場所がどっちか一瞬わからなくなったが、今来た方向に左指を指してからその反対側に指を差し向け、正しい方向に向かっていると信じることに決めた。すると、背後の方角から犬の遠吠えのような声が聞こえてきて、たちまち私の心を弱らせ、嘲笑っているかのように不気味に響き渡っている。
歩き出したばかりの私はつい立ち止まって振り返り、じっと闇に目を凝らした。でも、結局どんなに頑張っても見えるのは真っ暗過ぎてなにも見えないという現実だった。
今夜は月がない夜だった。珍しいぐらい漆黒の闇夜が一面を覆い隠している。今更ながら、私は悪寒を覚えた。
なぜ、こんな日に私は懐中電灯も持たずに家を飛び出したのか。
無謀にも程がある。我ながら呆れ返ってしまう。
だからお父さんにいつも嫌味を言われて馬鹿にされてしまうのだ。
『とにかく前だけ見てろ。後ろを振り向くな』
いつだったか、お父さんがそんな言葉をかけてきた場面が脳裏に流れた。あの時は、ただただお父さんの熱っぽいアドバイスが鬱陶しかった。
「私だって、自分なりにやっているのよ」
そう、心の中で何度も叫んでいたものだったが、今は違う。
今は、あの時とは全く違う感覚で、お父さんの言葉が心に刺さってくるような気がした。いつも中途半端な私をいつでも正してくれようと必死だったに違いない父親の心を今、漸く感じている。
死と背中合わせになってやっと届くなんて……。
『上手くできなくても、最後までやり遂げなさい』
お父さんの声が、こだまのように聞こえてくる。
もちろん、お父さんは今ここにはいない。今頃、車を運転して、遠くに住んでいる病床の親友に収穫したばかりの野菜を自らの手で届けに出掛けたのだから。
毎年、一緒に出掛けていたのに。今年もあんな喧嘩なんかしなければ、今頃は一緒にどこかのドライブインで煮詰まって酸味の濃くなった不味い珈琲を飲んでいたはずだったのに。
いつの間にやら、私の頬伝いに滴り落ちた涙が顎の下に溜まっていた。私をそれを服の袖で拭った。
持ち上げた腕が傷くて、私は顔を歪めた。
なにかが刺さったままの二の腕から暖かい血が流れているのだ。これを引き抜いたら、もしかすると血が止まらなかったら……。そう考えて、私は刺さったまま家に帰ろうと決意して歩いてきたのだ。フラフラになっているのは、きっと事故のショックのせいだ。それに、片一方の靴を無くして裸足で歩く羽目になったせいもある。
靴がないと、こんな悪路は歩けない。自転車は崖の下に落ちて行った。おそらく靴も一緒に落ちたのだろう。あの崖の細道を自転車なんかで行こうとした自分が信じられない。
あの道はもう何年も行ってなかった。まさか、木の枝が目の高さに伸びているとはつゆほどにも思っていなかった。薄暗い獣路のような路地を、無謀にも速度を緩めずに突っ込んでしまった。そして、枝が顔に当たり私はバランスを崩して崖に向かって倒れたのだ。
投げ出されたとき、何かが腕に刺さった。固くて尖ったそれは、私の二の腕に深く突き刺さっていた。ドクン、ドクンと力強く打つ脈を傷口に感じている。
私はまだ生きている。
そう実感できることが、唯一の希望だと思えた。痛みや恐怖は、生きているという実感を私に突き付けているようだった。
牧草地の真ん中に伸びた細い路は、慣れ親しんだ路とはいえ今はまるで、全く知らない土地に迷い込んだかのような拒絶感が漂よわせている。
しばらくは一本道で、途中分岐しているところがあるのだけど、その場所は事故に遭った地点と自宅までの丁度半分辺りにあると思われる。ショックのせいで時間感覚がない私には、どれほど歩いているのかよくわからなくなっているため、距離にしろ時間にしろ全然予測できなくなっていた。
とはいえ、かなりゆっくりなペースであっても随分歩いて来たはずだから、そろそろ到着する筈と思っても、まだ見えてこないことが歯がゆかった。焦りと苛立ちと不安がないまぜになって、気分がどんどん沈んでいく。
重い体を引き摺りながら、ほんのわずかな一歩を繰り返す行為は、まるで針の山を歩いているようだと感じられた。
失った靴の片方を思い浮かべた。燃え盛る業火の谷底へ転げ落ちて行った私の左足の靴。
痛みと暗闇への恐怖と、生きて帰れないかもしれないという絶望が背後に迫っている。急がなければ、すぐそこまで押し寄せている闇に捕まった途端、死神の長い釜によって首を刈り取られる。そんな不吉なイメージが脳裏をよぎり、悲鳴を押し殺して舌打ちを繰り返した。
こんなところで行き倒れても、すぐには誰にも発見してもらえない……。
流れ落ちる血の量は、どの程度なのか全くわからない。でも、確実に失血していることには違いない。
フラフラと眩暈がして、鉛のように重くなる体で歩いている事自体が夢みたいに思い始めた。
もうダメだ、という瞬間がすぐに突きつけられそうで身震いした。
ダメ!こんなに弱気になってはダメ!!
頭の片隅に居たのか、もう一人の自分が突然必死になって激励し始める。
唇の端が吊り上がったのを他人ごとのように感じながら、頬を伝う涙の温もりを手の甲で拭った。
「大丈夫!うちに帰るのよ!」と、私は広大な牧草地で一言つぶやいた。
気持ちが落ち着いたような気がした。