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忘れられない長い夜  作者: 森 彗子
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長い夜が始まる

 指先から熱くて赤い血がしたたり落ちていくのを感じていた。辺りはすっかり暗く、目を凝らさなければ家路の慣れ親しんだ風景さえもよく見えない。


 街灯のない暗い路地の両脇は果てしなく続く広大な牧草地だ。土に水分が含まれているのか、むっとするほど黒カビと泥の匂いが鼻を突いている。


 靴を失った片方の足が湿り気の強い土と、その上に転がる石ころを踏むたびに痛み、惨めな気分に追い打ちをかけている。そろそろ見えてくるはずの家の明りを探しながら、暗い世界を孤独な旅人気分で歩いた。


 今は進むしかない。


 私はいつだって自分の力で何とかやってきたのだ。

 今回も、なんとかなるだろう。


 そう自分に言い聞かせていた。


 時々猛烈に感じる血の匂いは、私自身から溢れ出てくる匂いだ。どれほどの出血量なのか、はっきりとはわからない。でも、傷に突き刺さっているコレを引き抜いたときの出血量は、たぶん想像を超えるほど大量になるだろう。そうなったら、自分だけでなんとかするというレベルじゃなくなる。


 私は誕生日の一週間前に出血死することになる。自分の遺影を想像してから、頭を振って不吉なそれをなんとか打ち消した。死ぬなんてことだけは、どうしたって避けたい。


 血の匂いに誘われて、獣が寄って来ないかということだけが心配の種だ。この辺は昔、狼が棲んでいたと死んだおじいちゃんが言っていた。


 狼は血の匂いに興奮する?


 そこまでは知らないけれど、私は心の底から怯えていた。獣に噛み付かれ、引き裂かれるなんて最悪だ。

 時々、暗闇の草原に意識を注いで気配を探ってみたが、今のところ特に問題は起きていない。


 とにかく、早く家に帰りたい。


 安全な場所で、とりあえず落ち着いてから傷の具合を見て病院に行くか、救急車呼ぶか決めれば良い。


 疲れた体をソファーに投げ出して、息を吹きかけたくなるほど熱々のコーヒーを啜りたい。


 石をできるだけ踏まないように、私はできる限り急ぎ足で牧草地帯を突き進んだ。着の身着のままの格好だけで飛び出してから半日が経っていたが、こんな日に限って頼りになる人は遠出している。


 なんて最悪な日だろう。あんなに罵ったばかりで、もうあの人を頼ろうとしている自分に呆れてしまう。


 意地を張って留守番することに決めたときは、まさかこんなことになろうとは想像すらしなかった。


 私はただ、どこにも居場所がないことに腹を立てていた。何を言っても聞き入れて貰えず、何を言われても全く耳に入って来ない。同じ空気を吸っていると考えるだけで吐きそうになるほど、私はあの人のことが許せなかったんだ。


 孤独の檻に自らひきこもったわけではなく、そこに追い打ちをかけられ閉じ込められたような気がしていた。


 自分は悪くない。


 誰も、たぶん悪者なんてものは最初からいないのだろうけれど、そうと思いながらも、私はひたすら憎らしかった。


 怒りを抑えることができないほど、周りが見えなくなるほど、自分を持て余し暴走してしまった。そのツケが回ってきたのだろうか。これは試練なのだろうか。


 くだらない言い訳ばかりで、自分を正当化している私に、神様は厳しい試練を与えているのかな。


 いつだったか、そんな話をお父さんにされたことを思い出して、私は唇を噛み締めた。自分の不注意で事故になり、我が身を傷付けて帰った姿を見たら、あの人は…お父さんはなんて言うだろうか。


 なんて顔をして、私をまた傷付けるだろうか。それとも……。


 その時、なにかに躓いて地面に顔を叩きつけてしまった。



 泥の味がした。



 暗過ぎる。何も見えない。

 さっきから霧雨が降っているのか。


 肌や髪がしっとりと濡れ、首筋に張り付いているのは汗のせいかもしれなかった。顔に着いたであろう泥を、指でこそぎ落としてみるが、ただの気休め程度にしかならないことを私は知っている。


 小さい頃に、お父さんの畑でよくどろんこになって遊んだものだった。3歳年下の弟と私は、お母さんがどんなに嫌そうな顔をしても、どろんこ遊びにやみつきになって日が暮れるまではしゃいだ。


 あの頃は良かった。


 心からそう思い、その苦いものを唾と共に吐き出してみたけど、泥の味は唇にこびりついて離れようとはしてくれなくて、心が折れそうになる。


 自分を取り巻く全てのものが不快な存在にしか感じられない。


 苛立ちがこみ上げ、泣き出すのをずっと我慢している自分に気付いた。


 鼻の奥がツンとして、泣きたい衝動に負けそうになる。

 だけど今、この怪我の状態からして立ち止まって泣いてる余裕なんてない、と自分に喝を入れた。あとでたっぷり泣いて良いから、今は歩け!立ち止まるな!


 ……これほどの惨めな気分というのは生まれて初めてだ。

 自分を嘲笑っても、嘆いても、誰も助けに来ないのなら自力で乗り越えるしか、ない。


 暗闇で荒々しい息遣いが耳元でこだましているようで不気味だった。


 これは誰の呼吸?


 私しかいないじゃないか。


 そう。ここには自分しかいないのに。


 ずっと、違和感と苛立ちと混乱寸前の精神状態に、恐怖を感じずにはいられなかった。



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