第九回
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劇場に着いたのが、開演時間ぎりぎりで、侏儒症とおぼしい、エリザベス女王みたいな恰好の女が木戸口に立っていた。ジルフェとおれを認めると、自動人形みたいにスカートをつまんで小腰を屈めた。
カナリアが口をきいたらこうもあろうという、異様な美声で「ご機嫌よう旦那さま」と唄うのだ。
埃だらけの階段を上る。桟敷席とは名ばかりの、狭苦しい箱に押し込まれる。おそらく合唱隊のボックスを改築したのだろう。平土間には労働者風情がいっぱいに詰まっており、緋色の幕の前で、序曲らしきものが掻き鳴らされていた。
あやしげな二階の桟敷は、十にも満たない。真向かいの箱へ目を遣ると、僅かに開いたカーテンの間から、通常の五倍くらい、鼻の長い男の顔が覗いた。仮面をつけているのだ。
ジルフェの姿はいつの間にか消えており、まるで瞬間的に移動したように、幕の前に立っていた。
かれの横には、庭師のなりをした男が一人、いかにもふてぶてしい様子で、あぐらをかいていた。林檎のような赭ら顔。鈴のついた帽子を被っているから、こいつは道化師に違いない。
「えー、おっほん。今宵お集まりの紳士の皆様」
団長がフランス語でしゃちこ張ると、道化師が飛んだり跳ねたりしながら噛みついてくる。
「ちぇ、紳士ばかりじゃ色気がねえや。おおかたカミさんの目と財布をちょろまかし、涎を垂らして来やがったな」
「これこれ、失礼なことを云うもんじゃない」
釣られてジルフェまで平易なイタリア語となり、平土間の連中が、どっと笑う。
「へいへい旦那さま。お代さえいただけりゃ、お望みどおりでさあ。トンボ返りだって、このとおり。ただしおいらの給料じゃ、三廻転半がいいところ。ぜんぶ飲み代にしたところで、くるりとも目が廻らないんで」
そんな遣り取りの後、道化師は棍棒で尻を小突かれながら、舞台から叩き出された。ジルフェはネクタイを締め直し、あらためて一礼した。まがまがしい宝石じみた、目の輝きが手に取るように眺められた。
「えー、厄介者もいなくなりましたところで、あらためてお礼申し上げます。ようこそおいでくださいました。おかげさまで、今夜で無事に七度めの舞台と相成りましたわけですが、中には初日から欠かさず通っていらっしゃる、奇特な殿方もおられるとか」
また平土間が沸いて、声援やら野次が飛ぶ。何気なく、また真向かいの桟敷へ目を遣ると、仮面の男は呆然と舞台を見下ろしたまま、しきりに酒杯を重ねていた。
「そこでご祝儀と申すのも恐縮ですが、今夜は特別に、昨夜までとは少しばかり変わった趣向をご用意しております。それがどのようなものなのかは、ご覧になってのお愉しみといたしましょう」
少しばかり変わった趣向。その言葉だけフランス語だったが、仕草や表情で客は意味を悟るのだろう。卑猥な歓声が飛ぶなか、けれどおれの目は、仮面の男に引き寄せられずにはいられなかった。
黒い蓬髪はロマン派の詩人を想わせるが、身なりからして立派な貴族。毎晩通ってくる「紳士」とは、かれを指すのではないのか。そんな根拠のない疑惑が、胸をよぎった。
ジルフェが退場すると、ニンフの恰好をした少女たちによって幕が開けられ、奇怪なオペラが始まった。レチタティーヴォの合間に、猥雑なアドリブのセリフが挟まれるわ、楽器の調弦は狂ってるわ。とてもまともな鑑賞に堪えないが、見世物小屋特有の魅力があったと、白状しておく。
音に聞くシカネーダーの一座なんか、こんなふうだったのかもしれない。
噂のプリマドンナは、タイトルどおりの水妖、ウンディーネの役どころ。
地上の優男に恋をして人間に姿を変え、逢瀬を重ねるが、よこしまな魔法使いに目をつけられて捕らえられる。テノールの優男は協力者に助けられながら、別嬪さんを取り戻すため、魔法の城へ乗り込んでゆく。なんだか、モーツァルトの「魔笛」を換骨奪胎したような話さ。
ああ、たしかに、好い女だったよ。
連中が涎を垂らして集まるわけだ。水妖という役にかこつけた薄手の衣装も、はらはらと危なっかしくて、あれじゃ何かの弾みで、ぜんぶ脱げちまってもおかしくない。もちろん今夜こそはと、連中の目は皿のごとくさ。ジルフェの思わせぶりな口上も、効いていたからね。
そうだ、ひとつ特筆しておかなくちゃならん。プリマドンナの声は異様にしゃがれていた。下手くそとかそんな域じゃない。ヒキガエルみたいな声だったよ。きらめくばかりに姿が好いだけに、どこかこの世のものではない感じがした。




