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第八回

「さしずめ、きみの好みじゃないのかね」

 堀川に図星を指されたのは悔しいが、認めざるを得まい。蔓薔薇の小ぶりな花のような清らかさに、たとえ見かけ倒しであったとしても、私は限りなく弱いのだ。

 しかしある意味、お定まりのステージ衣装を身につけながら、これほど華美さからほど遠い印象の女性も珍しいと云えた。

 ピンクがかった赤のドレスは、肩を露出させながら、襟ぐりやスカート丈はどこかおとなしめ。装身具を含めて、光沢が抑えられている。真っ直ぐな髪が、頭の後ろで一つに束ねられたさまは、女学生から抜け出せていない。

 ならば地味すぎて「華がない」かと云うと、決してそんなことはなく、トーンを抑えているがゆえに、若々しさが引き立てられる。ちょうど制服の似合う女学生が醸す、センシュアリティを想わせる。抑圧の色香。化粧も徹底的に抑制されているため、厭みのない清潔な顔立ちは、かえって魅力を増すようだ。

(まるで、おのれを知り抜いている人みたいだ。周囲と自身との距離を計って、巧みに立ち廻っているのか)

 後にこの作家気取りの分析が、当を得ていたことを思い知るだろう。するうちに、女がはっきりと、こちらへ視線を向けるのがわかった。目の前では京林雅晃が、軽く片手を上げて、彼女の眼差しに応えていた。

 私が内心穏やかでなかったのは、云うまでもない。

「じつに隅に置けない男だね。ひたすら黴を喰らう書物の虫かと思いきや、花から花へ飛び廻る、悪戯な蝶の心得も持ち合わせているとは」

 堀川に揶揄され、京林は苛々と髪を掻き上げた。

「隣の蒲良くんだってそうですよ。なにもぼくが、独り占めにしてるわけじゃない」

「覚えておくがいい、酒井くん。先生がたはこう見えて、油断ならぬ艶福家らしいよ」

 女はすでにピアノ椅子に座り、薄手の長手袋をはめた手で譜面をめくっていた。やがて粒の揃った音色で奏で始めたのは、「ジークフリート牧歌」。グレン・グールドによるピアノ編曲版とおぼしく、場所を鑑みれば、渋めの選曲と云わねばなるまい。

 ゆめゆめ私は村上春樹みたいに、広汎な音楽の蘊蓄を持たないが、なぜかグールドだけは学生の頃から、ポップスと同じ感覚で聴いていた。

 料理の皿がすべて下げられた後も、何本めかのワインがテーブルに居座っていた。問わず語りに堀川が語るには、彼女の名は、長篠明子。二二歳。東京藝術大学を出たての新進ピアニスト。

「なんで藝大を出ながら、こんな場末のレストランで弾いてのるか。そんな顔をしているな。ならばきみ、東大の文学部を出ておれば、作家として喰っていけるのかね? そうじゃないだろう。編集者というサラリーマンになるなら、まだしもだ。殊更この国は、芸術家に対する賤視が根強い。河原乞食と見做している」

「認めたくないのでしょうね。賎民に頭を下げたくないという抵抗感が、まず先に来る。名が売れて巨大な流通の一角に割り込めたとき、初めて先生扱いされる。けれどもこの先生は、すでに商品に貼られたレッテルに過ぎない」

 堀川を受けての京林の意見を、私は意外な思いで聞いた。まさに先生面した気障なやつだと感じていたが、大学にポストのある蒲良などと違って、案外、痛いめに遭ってきたのかもしれない。にやにやと、揉み手をしながら蒲良まで乗ってきた。

「国立歌劇団もバレエ団も持ちませんからね。嘆かわしいことに、国家経営の根本から、文化の要素が欠落してるんですなあ」

「政治の話はよそうじゃないか。まあおれに任せておけば、今に一万五千円のチケットで独演できるさ」

 舌舐めずりする堀川に、私は眉を顰めた。ただこの男の数少ない長所として、豪語するほど好色漢でないことが挙げられる。

 離婚歴があるらしいが、詳細は不明。麻布十番のマンションでハーレムを営んでいると吹聴しているが、私の見る限り、寒々しい独居を囲っている。出版をちらつかせ、子分の女性を幾らでも誘惑できる立場にありながら、ついぞ噂一つ耳にしない。

 もし一度でも手を出せば、堀川帝国は瞬く間に腐敗し、瓦解する。そのことをよくわきまえた上でだろうが、いつか酔った本人の口から本音らしきものを聞いた。

「永井荷風が『断腸亭日乗』に書いている。正確な文章は忘れたが、たしかこんなふうだ。おれはこれまで星の数ほどの女と交わってきたが、一度も処女と褥をともにしたことはないと。ものすごく鼻高々に書いてるんだよ、酒井くん。文士たるもの、こうありたいものだ」

 荷風の云う処女とは、素人と同義であろう。ちなみに堀川が麻布界隈に住んでいるのは、狸の名所だからではなく、荷風散人に私淑してのことらしい。

 それにしても、いまだに私は今宵の会合の意図を摑みかねていた。

 狸が妖怪に化けたような鼻持ちならぬ大男と、いずれも一癖ありそうな両先生。そしてかれらとは懇意らしい、清らかな美貌のピアニスト……いったい私たちは、この魑魅魍魎がつどう魔都の一角で、どんな狂宴を繰り広げようというのか?

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