第六回
一方的に切られた電話をポケットに戻しながら、私はもう一度、水盤の辺りに目をさまよわせた。けれどもそこには、まるで最初から誰もいなかったように、繁華街の喧噪に取り残された闇が、ひっそりと横たわっているばかり。
云い知れぬ寂寥が胸にせまるのを覚えながら、私は踵を返した。
どうせ遅刻と決まった。あの様子では、よもやグラスに手をつけず、私を待っているわけではあるまい。焦るのも走るのも面倒だし、ここは社会不適格者らしく、のんびり向かうことにした。
フランス文学者だか、ドイツだったか、あるいはその両方か……兎に角、どこぞのお偉い先生方を招くのだという。
私ごとき、無学文盲の風来坊がなぜ隣席させられるのか、ひたすら理解に苦しむが。
(心配しなくても、美人が見られるぜ)
相変わらず堀川秋海は、謎のような言葉ではぐらかす。残念ながら両先生とも殿方でいらっしゃるようなので、美人はほかにいるのだろうか。
「行けば判るさ」
偶然、ごく限られた散歩コース内なので、店の位置はおおよそ把握していた。
ポケットに手を入れたまま、狭い遊歩道に入る。鬱蒼たる樹のトンネル。こんな道が都会の真ん中に横たわるのだから、やはり変な街である。
トンネルを抜けると、また混沌の街があらわれる。エキゾチックな連れ込み宿と瀟洒な美容室が、身を寄せ合っているような。ビルの間に体を割り込ませると、みょうにひっそりとした一角があり、目当ての店が見つかった。
OTELLO
見上げた花文字の看板には、そうしたためられていた。
オテロ。
むろん、シェイクスピアの悲劇「オセロOthello」ではなく、それを原作としたベルディのオペラからの借用だろう。つまり音楽にちょっとうるさい、小洒落たイタリアンレストラン、といった自己主張か。
しかしながら、ガラス戸の奥はパン屋にしか見えない。それも私が駅前でつまむカレーパンなんて、夢にも売ってなさそうな。ドアを押すとカウベルが上品な音をたて、パンを焼く甘い香りに包まれた。
「お待ち合わせですか」
「はあ」
「どうぞ、お二階へ」
黒いエプロンと赤い唇。にこやかに指されたのは、グリーンのベルベットに覆われた急な階段で。背後でくすくす笑う声を聴かなかったのが不思議なほど、あたふたと上り、さらにガラス戸を押し開けると、レジカウンター前の待合室が、いかにも広々としている。
観葉植物ごしに、隣の空間を覗いた。グランドピアノの磨き上げられた黒い輝きに、まず目を射られた。
レストランは高級そうな人々で、満員御礼の盛況ぶり。ラフ、と云えば聞こえは好いが、流民にほかならぬ自身の服装に思い至り、居たたまれなくなり始めた頃、
「やあ、殿様のお出ましだ。こっちだよ酒井くん、こっち」
まごついている私を嘲笑うように、堀川秋海が手招きしていた。
壁際のグリーンのソファに座っているのが、今宵の賓客の両先生とおぼしい。まず驚いたのは、二人とも想像していたより若いことで、さほど私と違わないのではあるまいか。なるほど出世するやつは、出世するのである。
「紹介しよう。こちらの優男が、京林くん。官位はないが、世がこぞって認める新進気鋭のフランス文学者だ。顔写真くらいなら、きみもどこかで見ただろう」
ちょっと会釈したあと、気取って髪を掻き上げた。わざと軽薄そうな眼鏡をかけても、知的に見える自信に満ちている。細身で色白で美男。ワインレッドのネクタイが紙一重で気障に映らないのも、神経を使って着こなしているからだろう。
堀川の云ったとおり、京林雅晃の名は私も知っていた。某有名老舗書店から、サドの新訳を出していたはずだ。無官では異例なことだと、驚いた記憶がある。
「そしてこちらの豪傑が、蒲良肇氏。明京大の准教授さまで、ドイツ文学者。見かけによらず、女の子の詩みたいな論文を書く男だよ」
「女の子の詩とは、ひどいですね」
にやにや笑いながら、腰を浮かせて握手を求めた。堀川も肥っているが、それとはまたタイプの異なる、柔道家のような体格の好さ。カバラという名字の語感から、どうしても河馬を連想してしまう。気さくそうに広がる口や鼻の上で、小さな目がなかなか油断ならない光を帯びる。
「いわば第二の澁澤龍彦、および種村季弘氏というわけだ」




