第十七回
「私は昨年の春、芸術系の大学を卒業したばかりです。まだまだ未熟ですし、だからと云って天性の才能があるかというと、心許ない限りです」
「そんなことないぞ!」
蒲良の掛け声が、私を仰け反らせた。一滴も飲んでいないとは、周囲の客は誰も信じまい。明子は肩を竦め、頭を下げてみせた。
客たちはいい加減、黙らされていることに飽きてきた様子。ぽつぽつと私語が聞こえ始め、中には露骨な反抗心をもって、声高に料理を注文する者もいた。が、明子は依然、一身に注目を集めているような態度を崩さない。
「憧れのプレイヤーたちは、ですから、はるかな高みで、星のように煌めいています。私は星に手が届くと信じている、愚かで幼い女の子みたいに、ひたすら高みに向かって手を差し伸ばしては、空をつかむばかり。でも皆さま、今夜、そんな私に童話みたいな奇跡が起きて、星が降ってきたと申したら、どう思われますか?」
もはや私たちのテーブル以外で、彼女に目を向けている者は数人しかいない。日本人もドライになったものである。白けきった空気の中、私は自信が生唾を呑む音を、意外な思いで聴いた。
「それでは皆さま、今宵、私のささやかな誕生日に舞い降りてくれた、二つの綺羅星をご紹介します」
声を弾ませたあと、彼女は素早くピアノの前に座り、上品な行進曲を鳴らした。間もなくスポットライトの下にあらわれた二人の女は、明子と違ってステージ衣装など着ておらず、むしろ地味な普段着に身を包んでいた。
にもかかわらず、花瓶いっぱいに生けられた花がかすんで見えるほど、強烈なインパクトに打たれずにはいられなかった。
「ちょっと、あれ、まさか……」
「えっ、嘘だろう」
「まさかあの……有坂姉妹じゃないか?」
衝撃波のように、驚きが客たちの間に広がるのがわかった。ある者はあんぐりと口を開け、ある者は身を乗り出し、後ろのほうでは立ち上がる者もいた。椅子が倒れ、グラスの割れる音まで聴こえた。
有坂姉妹。
華やかな世界とは無縁の私でさえ、その名を聴いただけで瞬く間に絵姿が浮かぶ。いまや世界の注目を集めるソプラノ歌手とピアニスト。しかもクラシックファンのみならず、その血筋により、美貌により、そして華々しい成功によって「芸能」界の寵児となり、もはや知らぬ者とてない存在。
まさに、二つの綺羅星に他ならなかった。
姉の有坂鞠花。
マリカと読む。幼い頃から天才と謳われ、二七歳になるまで優勝したコンクールは数知れない。今年はスカラ座で世界三大テノールの一人、プラシド・ドミンゴとの共演を果たし、世界の聴衆を唸らせた。
またクラシック音楽界でのハードな活躍とは別に、妹と組んで童謡やポピュラーソングのディスクを国内で発表し、これがまた飛ぶように売れた。CFで歌ってみせれば、バラエティ番組にも出てくる。完璧なまでに美しく、頭が好く、高慢で、あくまで気品がある。
大輪の薔薇のような魅力は、一般大衆をも惹きつけて止まなかった。
妹の有坂水月。
ミヅキと読む。鞠花とは父親が異なる。二四歳。幼い頃から賞を総なめにしてきた経緯は、姉同様である。ピアニストとして実力も実績もあり、やはり姉に劣らず美しいのだが、鞠花を燃えるような深紅の薔薇に例えれば、彼女は月光を浴びて咲く青い花を想わせた。
国内の大衆に対して彼女が知名度を上げたのは、姉に負うところが大きいのは確かだ。思うに鞠花か、彼女をプロデュースするサイドは、姉妹を並べることにより、お互いの魅力が極限まで引き立てられることを、知悉していたのではあるまいか。
太陽と月のように。
ゆえに国内では、鞠花や水月個人よりも、「有坂姉妹」の呼称のほうが、一種の社会現象と呼べるほど、まかり通っているのだった。
「見ろよ。出て来ただけで、場の空気を一変させちまった。我々と同じ人間だと云うのに、どこがどう違うんだろうね。カリスマだなんて簡単に云うが、神かデモンか、本当に人間以外の何かが、乗り移っているとしか思えんよ」
堀川の言葉を上の空で聞いた。あれほど私を魅了した長篠明子の存在が、暁光に呑まれた星のように、消えかけていることに驚愕しながら。




