第十一回
紳士は両手で頭を抱えた。まるで空間を隔てて、歌姫と同じ舞台に立っているかのように。次にうんと身をのけぞらせ、何か叫んだようだが、おれの耳には届かない。
気がつくとウンディーネの歌声だけが、ごくかすかに聴こえていた。まるで耳を素通りして、頭の中で直接鳴ってるみたいだった。
きみ、これはいったいどういうことだろう?
ここはアウステルリッツでもなければ、ワーテルローでもない。目の前で大砲をぶっ放しているのなら兎も角、古ぼけたハープシコードの演奏と、魔女の囁き声みたいな歌声が、木片をきっちり詰め込んだ耳に、どうして届くんだ?
L・V・B氏が書いた曲だからか?
今や死を目前にして、ほとんど無音の境地にいるという。かれの音楽には、聴覚を超える力があるのか?
きみ、もし目を閉じてもアルプスの絶景が鮮明に見えたら、そりゃ恐ろしいだろう。ひとたまりもなく、気が変になるんじゃないかね。生々しい思い出みたく、どんなに耳を塞いでも、頭の中で音楽が鳴り続けているとしたら?
オデュッセウスならぬ凡人の身に、どうして耐えられるだろう?
おれは夢中で耳を覆った。手すりに肘でしがみつき、歯ぎしりした。けれどもどういうわけか視線だけは、真向かいの桟敷から引き剥がすことができなかった。
皮が剥がれないのが不思議なほど、男は髪を掻き毟りながら、きりきり舞いを演じていた。原始的な踊りを踊っているようにも見えた。
いつの間にか仮面が外れており、その顔には、ありありと死相が浮いていた。
真っ蒼、としか云いようがない顔色。落ち窪んだ目は真円形に見開かれ、歯茎が全て剥き出しになっていた。目に見えない何かをつかもうとするように、腕を宙に泳がせ、そのまま見えなくなった。
男が倒れると同時に、真向かいの桟敷席が、真っ暗になったんだ。
それからどうなったのか、実のところよく覚えていない。
オペラがはねてから、例の匣馬車に乗せられ、工房に送り届けられた記憶は、かろうじて残っている。小僧の話によると、わけのわからない譫言を云いながら、五日も寝込んでたという。
桟敷席の男がどうなったのか、さっぱり判らない。噂一つ聞かなければ、死人や逮捕者が出たという情報もない。一座はまだ街に居座っているが、ジルフェはその後一度も、おれを訪ねて来ないんだ。
あの夜、平土間にいた観客の一人を捕まえるのは、一苦労を要した。あそこへ足を運んだことを、他人に知られたくないんだな。娼館通いの連中みたく、ほとんどの男たちが粗末な仮面をつけるなどして、顔を隠していたらしい。
そいつは背の低い小肥りの厭味な髭をたくわえた中年男で、時計を売り歩く行商人だから街の者じゃない。
「好い声じゃなかったが、むしゃぶりつきたくなるような体つきをしていたな。田舎芝居にしちゃ、ちょいと高い木戸代だったが、投げ出した甲斐があった」
「鳥籠の中で、歌うのを聴いただろう?」
「ああ、いきなりドイツ語で歌い出したのは驚いたね。私は二回観ているが、たしか前に観たときは、大袈裟なイタリア語のアリアだった。ずいぶん辛気くさい曲に、差し替えられていたっけ」
「ドイツ語が判る?」
「売り買いに支障がない程度なら。私は根っからのジェノバ人さ」
「聴いていて、厭な気分にならなかったかね?」
「たしかに、タチのよくないワインでも飲んだみたいに、頭がくらくらしたな。ずいぶん高い所を、永いこと見上げていたせいもあるんだろうが。もちろん、裾の中を覗き込もうって魂胆でね」
「他の観客の様子はどうだった? たとえば、ぶっ倒れたやつがいたとか」
「周りは、へべれけに酔ってるやつばかりだからね。何人か転がってるのを見かけたが……おっと、そろそろ神輿を上げなくちゃ。夕方までには船に乗りたいんでね」
五里霧中。
けっきょくもう一度、ジルフェの一座を訪ねるしかなさそうだが、おれにはもうそんな気力がない。それに何となく、やつとはもう二度と行き逢わないんじゃないかという気がしてならない。
あれから、眠れば必ず悪夢を見るようになった。目覚めると必ず「ウンディーネの嘆き」が、頭の中で繰り返し鳴っている。死神の冷たい腕に絡みつかれたような、おぞましい感触とともに……
思いがけず長い手紙になってしまったようだ。
きみ、実を云うと、これがおれの遺書になるかもしれない。もう一度きみと杯を酌み交わさずに逝くのは、とても名残惜しいが。L・V・B氏とどちらが先になるのやら、ふふふ、どうか笑って見届けてくれたまえ。
J・B
追伸 同封した楽譜は、例のアリアを記憶から書き起こしたものだ。くれぐれも、演奏してみようなどという酔狂は起こさないことを、きみの幸福とともに心より祈る。




