第十回
どうせ連中は歌なんか聴いちゃいない。総裁政府時代のジョセフィーヌ皇后みたいな恰好で、美人がしどけなく蠢くさまを見たいのだ。
おれもご多分に洩れず、桟敷に上っちまったのを悔やんだほど。広くもない平土間からなら、光を透かす薄布の下で蠕動する、艶めかしい肉体が手に取るように眺められたろう。
「もうすぐでございますよ」
思わず飛び上がりかけた。ジルフェがいつの間にか隣に突っ立っており、おれに不穏な目配せを送っていた。
舞台では、あたかも捕らえられたウンディーネが、魔法使いに責められているところ。川底に眠る黄金の林檎のありかを教えろと、脅したりすかしたり。そいつを手に入れた者は不老不死となり、神に等しい力を得るのだとか。
メルヒェンにかこつけて、はぐらかされているが、性行為を迫っている場面にしか見えなかった。
可憐な水妖が古城の広間を逃げ惑えば、裾があやしくひるがえる。太い杖で打擲されるたび、衣装が裂ける。しゃがれ声の悲鳴が、みょうに生々しく響き渡る。
この台本の作者は(まずもってジルフェ本人であろうが)、サド侯爵の地下出版物を読んでいたに違いない。
ついに彼女は紡錘形の巨大な鳥籠に閉じこめられ、太い鎖で籠ごと吊り上げられた。
舞台上は真っ暗になった。
ただ歌姫の姿だけが、籠に仕込まれた蝋燭の炎と、破れた天井から洩れる月明かりに、半々に照らされていた。
水牢の演出とおぼしい。
周囲は沈黙に満ちていた。
あれほど騒がしかった酔漢どもが、固唾を呑んで鳥籠を見上げていた。何やら名状し難い、鬼気迫る空気が漲っていたのは、確かだ。
宙吊りのプリマドンナは、むしろ桟敷席からのほうが、よく見えたはずだ。つい真向かいへ目を遣ると、仮面の紳士が我を忘れたように、手すりから身を乗り出していた。おれは掠れた声で尋ねた。
「歌うのか? 禁断のアリアを」
「左様で。ご準備を怠りなく」
云われるまでもない。汗ばんだ掌には、すでに頑是ない木の実のような二つの塊が握られていた。
オーケストラは沈黙したまま、やがて古びたハープシコードだけが、どこまでも灰色の伴奏を奏で始めた。
――なかば水没した幻の森があらわれた。
どこまでも灰色の風景の中、男が独りぼっち、右に左によろめきながら歩いていた。後ろ姿しか見えず、小人かと疑うほど背が低い。無帽で、薄い髪が無残に乱れ、もとは豪奢であったろうマントは、凝固した血や焦げ痕で、ぼろぼろに蝕まれていた。
軍靴が完全に隠れるほど、男の足は沼に没している。それでも爪で泥を掻き分けてまで、前進しようとあがいている。かれの背中には、けれど一片の勇気も垣間見られない。
恐怖。
かれの全身を支配するのは、ただ恐怖ばかりだ。
雪がちらついていた。
かれを打ち負かした敵兵が、追って来るのを恐れるのか。あるいは寒さに飢えた猛獣を? いやそのいずれでもなく、もっと恐ろしいものの気配が、沼地に湧く毒霧のように、ひしひしと忍び寄ってくる――
「Bさま、いけません」
ジルフェに肩を摑まれ、幻から覚めた。
手の形の痣がくっきりと残っていることを、後で知った。どうしようもなく重い、頭痛と吐き気。最下等なビールを樽ごと飲み干したって、これほど厭な、厭な気分にはならなかったのではないか。
なかなか焦点を結ばない視界の先で、プリマドンナが歌っていた。
哀歌を歌う時のお定まりのポーズが、巨大な鳥籠の中でまがまがしく映えた。振り乱した髪と、見開かれた目。蒼ざめた唇から洩れるのは、この世のものとは思えない、魔性の声に他ならない。
がちがちと噛み合わない歯を懸命に食い縛り、二つの木片を両耳にねじ込んだ。全身を焼き尽くそうとしていた地獄の業火が遠ざかり、代わりに凍るような汗の冷たさが意識された。
いつの間にかおれの視線は、真向かいの桟敷席に釘付けにされていた。
仮面の紳士はワイングラスかかげた姿勢のまま、一心に鳥籠の中の歌姫を見つめているようだった。その手が激しく震えていることに気づいたとき、すでにグラスは平土間へと落下していた。




