少女と老父人と時々幽霊と喫茶店
季節は夏、の筈だ。
カレンダーに記された7を意味する文字、それだけ見ると今は暑さが増し汗の一つでもかいてもいい筈なのだが、窓を開けた瞬間室内に吹き込んだ空気は何とも涼しいものだった。
「夏というのに、全然暑くないんですねぇ」
やけに間延びした声が室内に響いた。
言葉のテンポも少し遅い。聞く人が聞けば苛ついてしまうのではないかという程の緩さが、その声には宿っていた。
「?…あら、どうして私夏が暑いものだと思っていたのかしら…」
腕を組んで、眉を寄せ、唇を少し尖らせ、如何にも困ってますというような表情を浮かべて、女性は呟く。
窓から入り込む風が彼女の長い黒髪をさらってそよがせる。やはりその温度は彼女の知る夏の温度では無かった。
「まあ、もうそんな時間?すっかり考え込んでいました。ありがとう、マーニャさん」
思考に耽っていた彼女が弾かれたように顔を上げて壁に掛かっている時計を見る。
時刻は午前7時30分。
後30分で開店時間だ。時間があるとは言えないが彼女は焦る様子もなく柔らかく微笑んでそう言うと開店準備に取り掛かる。
胸に届く黒髪を耳の後ろの高さで結わえ、水色のリボンでキュッと締める。
リボンと同色の淡い水色のワンピースドレスの上に白いエプロンを着て腰の辺りで結ぶ。
何処かで見た事ある衣装だが、彼女は其れが何処か思い出せない。
「…どうだ、ナオコ、準備は終わりそうか?」
また思考に囚われそうになった時、カウンターの奥、厨房に続くドアから強面でがっしりとした体型の白髪の高齢男性が現れた。
厨房から香る焼けたてのパンの香りに彼女、ナオコはうっとりしながら笑みを浮かべる。
「おはようございますダリスさん。はい、もう終わりますよ」
「…そうか、パンは出来てる。ケーキはもう少しだ」
「ダリスさん、笑顔笑顔ってマーニャさんが言ってますよ」
ダリスは元傭兵らしい。
がっしりとした体型に上背もあるし、何より愛想が欠片も無い、顔も怖い。
素っ気ないとも取れる態度にナオコは全く動じ無いが、苦言を呈する者がいる。
「…わしの笑った顔が怖いと言ったのは君だと、伝えておいてくれ」
今この店に居るのはナオコとダリスの2人だけ、けれどダリスはなんの疑問も持たずに少しだけ表情を和らげながらそう言うとまた厨房に引っ込んでしまった。
「…だそうですよ、マーニャさん?」
『冗談に決まってるのに、困った人ね』
ナオコは誰も居ない筈のカウンターの内側に目線を向ける。そこには確かに誰も居ないが、ナオコにははっきりと視えていた。
少しふくよかで、笑顔がとても可愛らしい老婦人。
彼女はマーニャ、1年程前に亡くなったダリスの妻だ。
ナオコには不思議な力がある。
幽霊が見えるのだ、しかも話せる。
だが触れる事は出来ない。
今から半年ほど前、ナオコは突然現れた。
何処から来たのかも分からず何故その場所にいるのかもわからず、途方に暮れていたナオコを助けてくれたのがマーニャだ。
半透明のマーニャに驚きながらも連れて来られたこの店で色々あって居候させて貰っている。
ダリスとは最初衝突してばかりだったが、今ではとても仲が良い。
少なくともナオコはそう思っている。
『さあナオコ、今日も忙しくなるわよ!私のこういうカンはね、当たるのよ?』
「じゃあ急いで準備しなきゃですね。今日も頑張ります」
マーニャはとても元気だ。
太陽のような人だと思う。
生憎霊体の為彼女に出来る事は限りなく0に近いが、それでも居てくれるだけでとても心強い。
カランと耳に心地の良い音をドアに付けられたベルが奏でる。
外は快晴、ナオコは眩しさに目を細めながら石畳の上に立て看板を出し、出入り口を飾る青い花に水をやる。
「今日も綺麗に咲いてますね」
目が醒めるような鮮やかな青の花に目を細める。
水を浴び太陽の光で輝くその花はまるで宝石みたいでナオコはとても好きだった。
日課の水やりを終えると店の中に戻って扉を閉める。
遮光用のカーテンを外して開店を知らせるプレートを外に見えるように金具にぶら下げて、これで準備は完了。
『こら、パンを出し忘れてるよ!』
背後から聞こえた声に肩を竦ませる。
苦笑しながら振り返るとおかしそうに笑うマーニャがいて笑みが深くなった。
けれど時間が迫っている為慌てて厨房に入れば其処にいたのは真剣な表情でケーキに最後の飾り付けを施すダリス。
あんな大きな手から可愛らしいパンやケーキが出来るのだからまるで魔法みたいだなと思いながら見ていたが、気づいたダリスが厨房の壁に掛かっている時計に目線を向けた。
これが開店を急かす行為だという事を知っているナオコは苦笑いしながらパンが沢山入っているバスケットを抱える。
両手が塞がっている為背中で扉を開けて、レジのすぐ横にあるショーケースにバランスよくパンを並べていく。
『随分上手になったわねぇ』
「マーニャさんのお陰ですよ。今日も美味しそうですねぇ」
『ダリスが作ってるんだもの、美味しいのは当たり前よ』
マーニャはダリスが大好きだ。
霊体になってもこうして側に寄り添う程に今でも変わらず愛しているらしい。
それはダリスも同じようで、本人はバレていないと思っているだろうが実は毎日マーニャの絵姿を見て何か一言語りかけているのをナオコは知っている。
「素敵ですねぇ」
ショーケースにパンを並べ終えて、これで漸く開店準備は完了だ。
時間は午前7時58分。ギリギリだが及第点。
マーニャも満足そうに頷いているし、後はダリスのケーキを待つばかりである。
ナオコがこの店に勤めて半年が経った。
記憶も無く出自も分からない。
わかるのは自分の名前と幽霊が見えるということ。
こんな得体の知れない女を受け入れてくれた2人に、ナオコはとても感謝していた。
ここはラケル大陸の王都シューデンツ。
ユリウス通りという大通りから3本路地を入った場所にある長閑な市民街、決して人通りが多いとは言えない場所の一角にこじんまりとした喫茶店が一つ。
そこは美味しい紅茶と一風変わったデザートを出すお店。
仏頂面のマスターと、珍しい黒髪を持つ年頃の女の子。
笑顔が絶えない店のベルが今日も鳴る。
『さ、お客様だよ!』
明るく笑う半透明の老婦人と、ケーキが並んだバットを持って丁度厨房の扉を開けた仏頂面の店主。
ふわりと鼻腔を擽る優しくて甘い香りに、ナオコと本日1人目のお客の表情がふにゃっと和らいだ。
互いの反応に互いがくすっと笑い出す。
彼女は息を吸うと花が綻ぶように笑った。
「いらっしゃいませ」
喫茶エトワール、知る人ぞ知る隠れ家的なお店。
今日も忙しい一日になりそうだと、目を合わせて微笑んだ。
ナオコさんは18歳です。
記憶喪失で、幽霊見える女の子です。
詰め込みたい事いっぱいあり過ぎて詰め込めない私の馬鹿たれくっそぅ……
ファンタジーな喫茶店で幽霊見える女の子が知らず知らずのうちに騒動に巻き込まれるってパターンがしたかったけど開店準備で終わった。