壁紙
すべての壁紙をはがし終えた時、夫婦は喧嘩をはじめた。
とても些細な原因だった。きれいに剥がさなければならない、といったことだった。
喧嘩が始まって三分もするとどちらかきれいに剥がさなければならないと決めたのか、どうでもよくなった。
その家は橋の近くに建っていた。庭があり、木が植えられ、花が咲き、雨が降るとさみしく感じる町がよく見えた。
家は満足して買った。夫は壁紙なんて今のままでいいと言った。円香は気に入らなかった。
「晴れの日にはいいのよ、文句ないわ。でも雨が降るとこの壁紙じゃ気が滅入るのよ」
二人は黙ったまま仕事をはじめた。夫は少しずつイライラが積み重なっていったのだ。休日に一日がかりですることではなかった。
円香は夫の気分が悪い方向に進んでいることに気づく余裕はなかった。勝手すぐにすべき仕事じゃないわ、と円香も思った。壁紙を剥がしてしまうとまるで、生きた人間が朝から晩までいる場所じゃないと思った。円香は夫にそう感じたことを話してしまった。包装紙がボロボロにされたプレゼントのように、まるで価値のない物のように映った。
家を手に入れるために夫婦はありとあらゆることをした。リストに書き出してみれば大したことなど一つもなかった。銀行に行ったり、夜中にお金を数えたり、両親や友達に相談したり。夫婦なりにそれでもよくやったと思えた。
言い争いは、二人から気力を失わせた。
この家がいいと初めに言ったのは自分ではないとお互いに主張した。
橋の下を流れる小川に小魚がキラキラ光って見えたのを夫は思い出した。
天気のいい日、この家の庭に咲く花を見て目を輝かせたのはどちらだったのか、円香は思い出せない。夫は悔やんでいた。あの壁紙のどこがいけないのか、十分じゃないか、と説き伏せればできないことじゃなかったのに。
夫は疲れていた。
黙って円香の話に軽く頷いていれば楽だと思ったのだ。円香は泣き出した。夫はソファに坐り、頭を掻きむしった。口喧嘩の声が外に漏れていたんじゃないだろうか、と気になった円香は剥がした壁紙を力づくで丸めながら泣いていた。
夫は慰める気にはなれなかった。剥がした後の壁、我が家の壁、これから何十年と支払っていく家の壁は安っぽい発泡スチロールのようなもので作られている。
円香は肩を上下にゆすって声を殺して泣きつづけていた。庭に時々やってくる野鳥たち、近くに住む自分達と同じような若い夫婦たち。遠くに見える土地よりも古い土地はどうして雨の日、さみしく見えるのか夫はその理由を考えたけれどわからなかった。
今日中になんとかしないとこのままじゃまともな生活とは言えないぞ、夫は家を見回して思った。昼の一時を少し回ったところだった。けれども今から壁紙を貼っていくなど考えただけでうんざりした。腹が空いた。
円香は呼吸を整えていた。夫は犬でも飼おうかと思った。いい考えだと思った。駅の近くにペットショップがあった。種類は少なかったが注文もできるだろう。庭は小さいが家の中で飼える犬でもいい。散歩すればこの町のことをもっと知ることができるし、運動にもなる。気晴らしにもなる。
円香は顔を上げた。夫は犬の話をすべきかどうか迷った。
「私、なんて馬鹿なことを言ったのかしら」と円香は言った。
「壁紙のことなら、いいよ。二人で無理なら、また業者に電話すればいい」
「そのことじゃないわ」円香は笑った。「この家のことよ」
夫は円香が大声で笑うのを見ていた。丸めた壁紙をボールのように投げたりしながら、叫んだ。
「この家、この家、この家! どうして雨の日にこの家を見に来なかったのかしらね!」
夫は何も返事しなかった。雨の日にわざわざ家を見に行くなんてそんな気にはなれなかった。
「晴れた日に」と夫は言った。「なんとなく気分がよくなって、家でも見に行こうかって言ったんだよ。君も賛成したと思う。晴れた日には庭の緑も映えた。町の人たちも見知らぬ俺と君にこんにちはと挨拶してきた。銀行で金を借りる前から俺と君はこの町の住民になって庭の雑草の心配なんかしてた。橋の下にいる小魚も可愛く思えてしまったんだよ」
「プロの人がやれるように上手く貼れるかしら」と円香は穏やかに言った。
「今日中にやってしまいたいけれど」
「無理ね、毎週日曜日、少しずつ、しなくちゃいけない。私、毎日やってみる。私が言い出したんだもの」
この家が本当の意味で自分の物になった日、心から嬉しいと感じるのだろうか、と夫は思った。自分達で壁紙を貼れば少しでも愛着がわくかもしれない。
「この家を」と夫は言った。「買って、本当によかった。雨の日に見に来ていたとしても、この家を気に入っていたと思うよ」
円香は庭を見た。土の上に草が生え、野鳥が飛び去った。石がゴロゴロと転がっていた。その上に虫がいて蠢いている。円香は庭を掘り返したいと思った。
「犬を飼わないか?」と夫は訊ねた。
円香は返事をしなかった。庭を眺めていた。夫の声は聞こえなかった。
「ねぇ円香、犬はどうだろう?」と夫は繰り返した。自分の声は届いていると思っていた。
「駅の近くにペットショップがあるんだよ」
円香は湿った土のことだけを考えつづけていた。
(了)