井口 皐月
起立。気をつけ。礼。
たった五秒間でできるこの単純な動作が昔から嫌いだった。
昔は早く終われと願っていた。
たった五秒間でも無駄にはできないと思っていた。筆箱と親への連絡のための配布プリントを詰め込んだだけの学校指定の鞄を背中に背負い。先生に注意を受けながらも華麗にするーして廊下を走り抜け、グラウンドの隅にあったサッカー部の小さな部室に駆け抜けていたのが一年前のことだ。
今は少しでも長くなれと願っていた。
「あきさき、掃除今日も頼むわ」
「俺もお願い」
高校になってから掃除は放課後にするようになっていた。僕が通っていた中学は終わりのホームルーム前に掃除があり、掃除場所に担当の先生がいたのでサボれなかったが、高校に入ると自分達のことは自分たちでするがモットーの学校なので先生はホームルームが終わるとすぐに教室からいなくなってしまう。なのでこの高校の掃除は適当極まりない。
そして僕はクラスメイトから教室の掃除を頼まれている。
僕の了承も得ずに一目散に教室に駆けだしていった二人組は確か野球部だったはずだ。なにやら部活に先輩より早くいかないととんでもない目にあわされるんだとか。
さすが、体育会系で有名な野球部だ。しかし、上下関係が厳しい割には先輩の実力がないらしく、毎年多くの費用を費やしているのにも関わらず県でベスト8という成績とハッキリ言ってしょぼかったりするのだが。
まぁ、彼らはまだマシな方だった。
その他の男子は何も言わずに、さも当たり前のように部活に行って、すでに教室には姿がいなかった。
四十人のうち十五人が教室掃除に割り振られているはずだが、すでに三分の二近くの人数が教室にはいない。つまり僕以外の男子はいなかった。
そして教室に残った女子達はというと、
すでに机を四つほど教室の前に運び、それをくっつけ大きな長方形を作り、そこに四人の女子が座っていた。
僕の視線に気づき、そのグループの中のリーダー的存在の女子が笑いながらこちらを向くと、
「あきさき君は勝手にやっててくれたらいいから」
「そうそう。あたしたちってば忙しいからさ」
キャハハハ、と甲高い声で笑うと、すぐにまた話を始めた。
掃除をする気はないらしい。
これが今の僕の現状だ。
都合のいいパシリ。誰に対しても甞められている。
いじめられていると言ってもいいのかもしれない。
いや、多分ほとんどの人は虐められているんだと思うのだろう。
僕は掃除道具入れから比較的真新しいT字の箒を取り出して、無言で床を掃きだした。
それから何事もなく順調に掃除は進み、教室の前半分を掃き終わり、教室の後ろに下げられた机を一人で全て前方へと運び終わる。これで半分が終わった。
慣れた作業により極限まで時間を短縮しても、四十個の机を運ぶのにはそれなりの時間を要し、掃除を初めて約十分ほど経っている。このペースならあと十分で掃除は終了するだろう。
すでに教室には僕一人を残して誰もいなくなっていた。先程までキャイキャイ騒いでいた女子達は僕が机を前に運び始めるのに、邪魔だと思いながら見ていると、最近の女子達は敏感な年頃なのか僕の視線に居心地が悪いと感じたらしく、机をその場に残したまま立ち去っていった。
どっか行くなら、机くらい直して行けよ。
と心の中で悪態をつく。
気持ちを切り替えて、またT字箒で床を掃いていると、今度は廊下から女子の高い声がしてきた。
ドアも窓も閉め切っているのだが、辺りが静か過ぎて、意識していなくても否応なしに女子の会話が耳に入ってくる。
「ねぇねぇ、こむぎは誰が好きなの?」
「教えてよ~」
聞こえてきたのは、三人組の女子の恋バナのようだ。どうやら二人の女子が一人の女子の好きな人を訊きたがっているようだ。
女子の恋バナを盗み聞きするのも忍びないし、特に内容のある話ではないので、聞きたくはないのだが、どうしても耳に入ってしまう。
「う~ん。今はいないかな」
曖昧な返事をするこの甘ったるい声には聞き覚えがあった。そうだ中学の時に聞いたことがある。
確か小麦って名前の同級生が中学の時に隣のクラスにいた記憶もある。
苗字は……高梨さんだったっけ。
我ながら甘ったるい声だけでよく覚えていたものだ。と褒めてやりたい気分になる。
僕が入学した高校には同じ中学の友達が受験する人は少なかった。サッカー部のみんなもそれぞれ違う高校に進学して、今ではバラバラになっている。
そのため同じ中学から進学してきた人がいることに、嬉しいという感情が浮かぶがすぐに消えていく。
「えぇー、つまんなーい」
高梨さんの友人の内の一人である女子が駄々を捏ねる。
「でも、好きだった人なら最近までいたよ」
「え、誰?誰?私たちの知っている人?」
高梨さんのことをよっぽど知りたいのか、案に話題がそれしかないのか周りの女子二人は根掘り葉掘り訊こうと詰め寄っている。
「多分知ってるかもだけど、二組の秋咲君なんだけど……、分かる?」
自分の名前が出てきたことに動揺を隠せず、持っていたT字箒から手が離れるが、咄嗟のところで掴みなおした。冷たい汗が背中を辿る。今自分が教室にいることが彼女等にばれるのは不味いと直感し、息を潜める為に咄嗟にその場にしゃがんだ。
「秋咲って、誰だっけ?」
その言葉に微かに安堵し、ほっと溜息が唇から洩れるが、
「秋咲って、確か二組の髪で目元を隠してる。あの虐められている子でしょ、あんた。あんなのが好きだったの?」
「うん。そうなんだけど……昔はあんなのじゃなかったんだよ」
昔はあんなのじゃなかった。
その言葉が僕の心臓をわし掴むように響き、握りつぶすような感覚が迫ってくる。
僕だってこんな自分にはなりたくなかった。
「あっ!思い出した。秋咲ってあの。サッカー部の海桐君とマネージャーの井口さんの仲を取り壊そうとした人でしょ」
「あっ、それ私も聞いたことある」
「しかも、それで最終的に井口さんにストーカーして、親友だった海桐君にボコボコにされて見捨てられたんでしょ。うわっ!自分で言っててなんか引くわ~」
「そうそう!え!?こむぎ本当に秋咲が好きだったの?あんな最低な奴のどこがいいの」
と女子二人だけが盛り上がり、声のボリュームが上がる。
違う! 止めてくれ! と、この場で叫び、教室のドアを開いてこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、両手で自分を抱きしめて小刻みに震えた身体を必死に堪える。
「わたしもその噂を聞いてから嫌いになったの……でも中学の時は本当にカッコ良かったんだよ。サッカー部のエースで運動もできて、勉強も常にトップだったし、その上みんなに優しくて、女の子から凄い人気だったんだよ」
「なにそれ!?別人じゃない」
「あたしたちの知ってるのと全然違うじゃん!」
「うん。だから噂を聞いた時は本当かな?って思ったんだけど……海桐君に訊いたら本当だっていうし……」
高梨さんが煮え切らないでいると、女子二人が好き勝手に言い始めた。
「ストーカーするとかサイテー」
「ほんとほんと井口さんが可哀想すぎる」
違う違う違う。僕はそんなことしていない。
誰か助けて。無意識のうちにそんな言葉が口から出ていた。
「誰が可哀想ですって?」
僕の願いがなにかに届いたのか、廊下から昔から聞き慣れた声がしてきた。その声には怒りの感情が込められて鋭い口調になっていた。
「あ、皐月ちゃん」
高梨さんの震えた声がした。いきなり声をかけられて驚いたのだろう。
「久しぶりね。高梨さん。高校に入ってからは話してなかったから。中学以来ね」
「そ、そうだね」
「……あなた達」
皐月のどすのきいた声に恐れをなした女子二人組は、はい。と条件反射で答えると、非難がましい口調で、
「人のことを勝手に可哀想とか言わないでくれるかしら、私は可哀想なんかじゃないし、あなた達に同情される筋合いもないわ」
「わ、わかったわよ。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのよ」
皐月のあまりの迫力に慄いたのか、上擦った声ですぐに謝った。
行こう。と小さな声で怒った時の皐月の怖さを知っている高梨さんが呟き、二人を先導してこの場から立ち去った。
「またね。高梨さん」
と皐月は軽い口調で言うが、
「う、うん、また」
高梨さんは引き攣った口調で返すしかなかったようだ。
しばらくして、高梨さんら三人の足音が消えると、
「そこにいるんでしょ。歩夢」
突然のことに喉から心臓が出るんじゃないかと思うほどにびっくりした。
何で?ここにいるのが分かった?
と考えているうちに、教室の後方の曇りガラスが嵌められているスライド式の扉がガラガラと音を発ててゆっくりと開かれた。
そこにいたのはやはりというか、それ以外にはありえないのだけれども、僕の幼馴染である。井口皐月がいた。
皐月は悠々と教室に入って僕の前にまで来ると、
「手伝おっか?」
と優しく声をかけてきた。
皐月の前で蹲って震えている僕は酷く醜いだろう。それがもし中学時代の僕を知っているのならば、それが僕を一番近くで見ていた人なら、
「ほら、早く立ちなさいよ、私も暇じゃないんだから」
皐月は震えている僕の右手を掴むと、よいしょっと、と僕の身体を立ちあがらせた。
165センチ50キロと高校生にしては比較的身長も低く痩躯な僕の身体は女子である皐月でも立ちあがらせるのは容易かったらしく、何の抵抗もなく僕は皐月の眼前に立ち尽くすことになった。
162,3センチの女子としては地味に長身の皐月の頭は僕と殆ど同じ高さにあり、否が応でも視線の高さも一緒になってしまう。そのため日本人特有のダークブラウンの凛々しい瞳が僕の目を捉えている。
背中まで伸ばしている艶やかな黒髪から鼻腔を擽るいい匂いが漂う。
懐かしい匂いだ。
と心の奥で昔のことを一瞬思い出してしまうが、すぐに頭を切り替え目の前の状況をどうにかしようと、
「い、いいよ、後机運ぶだけだから。一人でできる」
そう言って僕は皐月から逃げるように持っていたT字箒を掃除道具入れに直しに行く。
「こういう親切は素直に受けなさい」
皐月は僕の言うことを無視して勝手に教室の前方に並べてあった机を運びだした。
「サッカー部。忙しいんでしょ。こんなところで油売ってたら怒られるんじゃない?」
「いいのよ。たまには、人間息抜きは必要よ」
息抜きなのに重い机を運ぶという結構な重労働をするのは意味が分からない。
そんな中皐月は次々と机を定位置に並べていくので、僕も慌てて机を運ぶ。
「いいの?こんなの海斗に見られたら」
「怒られるわね。見つかったら殴られちゃうかも」
皐月は冷静な口調で答える。
「だったら!」
「バレなければ何してもいいのよ。バレなければいいの。それがなんであってもよ。そもそも私と怜音が会うのがいけないってのが意味が分からないわ。だから私は悪くないし、怜音も悪くないわ」
「そういうことじゃ……」
ないだろ、と続けようとするが、それはすぐに阻まれてしまった。
「サッカー部に入ってよ。歩夢」
皐月はいつの間にか僕の傍らに歩み寄っていた。皐月の声は真剣そのもので真直ぐと僕に届いてきた。
「それは…………」
僕は高校のサッカー部には入っていない。
理由は一つだけだ。
海桐 海斗。
僕の元チームメイト。元幼馴染。元親友。
全て『元』だ。今は海斗は僕のことをどう思っているのか分からないけど、少なくとも親友とは思っていないことだけは確かだ。
『俺の前から消えろ』
それが高校に入学する前に言われた台詞だ。
海斗がサッカー部にいる限り僕がサッカー部に入部することはないだろう。
ましてや、皐月がマネージャーをしている内には。
「戻ってきて」
「ごめん」
僕はそう答えるしかできなかった。
皐月の顔が苦痛そうに一瞬歪むのを見てしまい。罪悪感に襲われる。
「僕と海斗はもう無理なんだよ」
「……無理って何よ」
皐月が俯き、切り揃えられた前髪が皐月の瞳から光を奪う。
「無理って決め付けるから無理なのよ!」
皐月は何かに耐えるように胸元に手を押しあてて、瞼を閉じて、身体を曲げて叫んだ。
皐月が泣きそうになっているのに、僕は冷淡に、
「無理だよ。僕たちの関係は罅が入った程度じゃないんだ。ガラス細工のようにバラバラに砕け散ったんだよ。砕け散った破片は大きくない。粉々で、もう僕たちの手で元に戻すことはできない。」
「それでも……」
「ごめん」
茫然と口を開けつつ、皐月の瞳には涙が溜まっていた。
「…………ゃ、……いや、……嫌」
「我が儘言わないでよ。僕だって辛いんだから」
泣きそうになる皐月を宥めるように声をかけ、皐月の肩に手を伸ばそうとする。
「やめて!」
と皐月が怒鳴り上げる。その音量にビクッと伸ばした手が止まる。
「なんなの!その喋り方!そんなの本当の怜音じゃない!私の知ってる怜音じゃないわ」
そんなの自分が一番わかっている。
こんなのは秋咲 歩夢じゃない。秋咲 歩夢の抜け殻だ。
でもそうしないと僕はもうこの世界で生きていけないんだ。
海桐 海斗と井口 皐月が前を向いているこの世界で秋咲 歩夢が一緒に生きることはもうできない。
美しく、華やかで、幸せで溢れた世界はあの時終わったんだ。
あの三月十五日に終わったんだ。
あの日、あの場所で。
全ては終わった。
だから、僕は皐月にこう言うんだ。
せめて、笑って言いたかったけど、僕はもう自分で笑うことができないから。
唇の両端を引き攣らせて僕は、
「そうだよ。秋咲 歩夢は変わったんだ。ここにいるのは皐月の知ってる秋咲 歩夢じゃない」
と皐月に告げた。
僕は僕自身の世界を変えて、己自身の存在を変えた。
この世界に秋咲 歩夢はもういない。
あれ?どうして主人公がこんなに憂鬱なんだ?
明るい設定だったんだけどな……