そして離宮生活が始まった
翌朝目覚め、クロウは見慣れない部屋を見回して思い出した。
「そういや、離宮に来たんだっけ……」
すぐ隣にあるベッドではシャーリルがすやすや寝ている。やはり、寝間着は乱れていた。それが女物であるから、問題だ。では何故ティアやミルーと同室にしないのかと言われると、拾われてからずっと一緒に寝ていたから、なんとなく離れ難い、というだけの事だ。きっと。
はあ、と小さく息を吐いて、クロウは起き上がって先に着替えた。用意されていた服は簡素なお仕着せ。着てみるとやはり不釣り合いな気はしたが、今は仕方がない。シャーリルに用意されたものを見てみると、やはり女物だったから思わず笑った。これは起きた時の反応が楽しみだ。
朝日が差し込む窓を開けると、丁度隣部屋にいるティアが顔を出した。
「あ、クロウ、おはよう」
「おう、ティア。寝れたか?」
「うん、結構ぐっすり!」
くすくす笑うティアにつられ、クロウも少し笑った。
「ミルーは?」
「起きてるよ!」
窓から額が覗く。それに噴き出して、クロウは声をかけた。
「すごいな、ミルー。早起きじゃないか」
「ティアが早起きだから!」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん、ティアと同じようにしたいの」
可愛らしい台詞に思わず頬が緩む。
「じゃあシャル起こしたら食卓に行くよ」
「うん、お願いね!」
「待ってるね!」
ティアが手を振るその下から、ミルーの手だけが見えてまた頬が緩んだ。
「よし!」
窓から勢いよくシャーリルのベッドへ走り、がっと肩を掴んで揺らした。
「シャル、朝だぞ起きろ!」
すやすやと眠るシャーリルは、揺れを感じなければ声も届いていない。ちっと舌打ちしてさらに乱暴に揺らす。
「起ーきーろー!」
がくがく揺すると、やっと眉間にしわが寄った。そして、うぅっ、と呻く。ぱっと手を離すとどさっと枕へ落下。間髪入れずに耳元で大声を出す。
「シャル! 起きろ!」
「うー……うるさ……い……」
聞いている事を現す為に目を閉じたまま顔をクロウの方へ向ける。そうすると鼻先が触れそうになって、クロウはちょっと顔を離した。
「起きろ起きろ起きろー!」
今度は真上から耳へ怒鳴る。と。
「うるさいっつってんだろ!」
がしっと胸ぐらを掴まれた。ぐえっ、と僅かに声が漏れた。そのまま腕を横に振られ、決して軽くはない身体がひょいと宙に浮いた。
「うおっ」
ぼすっ、と軽い音がしてベッドに落ちる。
まだ寝ぼけている目を半開きにしてクロウを睨み、服を掴んでベッドに押さえつけたままシャーリルは唸る。
「黙ってろ。お前も寝ろ。起きるな。騒ぐな」
そしてそのまま、目を閉じた。つまり、寝た。クロウはシャーリルの手を押しのけ、再びシャーリルの耳へ声を落とす。
「起、き、ろ! 乳母が寝坊すんな!」
「うっせぇな……」
目を半分開いたシャーリルと睨み合い、クロウは目覚めるのを待つ。そして。
「……乳母?」
ちょっと起きた。
「お前の事だよ、シャル。乳母を引き受けただろ。昨日ミルーをぶっ倒したあのガキの」
またしばらく睨み合う。
「あのガキ……?」
「殿下。えーっとラズウェルとかいう……」
ふと目を逸らした隙にシャーリルは起き上がり、こつん、と額がぶつかった。
「んーと……」
目を閉じたままのシャーリルはまだ寝ぼけている。それでも起き上がったのだから、よしとする。クロウは額を合わせたまま目覚めるのを待つ。だんだん額に体重がかかって、首が辛い。
「早く飯食って、何すりゃいいのか聞きに行こうぜ。シャル」
「……」
ぼうっとシャーリルがクロウの目を見つめる。もう少しで起きる筈だ。
「腹減らないか?」
「……減った」
「じゃあ朝飯食いに行こうぜ」
「……行く」
子供のように微笑むシャーリルに、クロウはもう一息だと頬を叩いた。
「シャル」
「ん……?」
はっと目に現実味が戻る。ちょっと額を離すと、ばつが悪そうに笑った。
「あー、悪い」
「ったく、いつもいつも」
「悪いって。おはよ、クロウ」
「おう。おはよ。じゃあちゃっちゃっと着替えて食卓行くぞ!」
「おう!」
にっと笑ったのを見て、クロウは部屋の外で待つ事にした。
食卓ではすでに四人が食事を始めていて、給仕にせっせと世話を焼かれていて、いたたまれないようだ。
「あ、シャルおはよう。あっスカートなのね」
ティアが気付いて声をかけると、三人もおはよう、と声をかけた。
「おう。遅くなったな。これしか着るもんないんだよ」
「いいじゃない。しばらく女性らしい生活が出来そうで」
リアが楽しそうに笑った。
「シャルの寝坊は習慣だからもう慣れたよね。それに僕たちも、なんだか違和感ある服装……」
サフィがさらりと小さな嫌味を言うも、皆笑った。
「さ、じゃあ食べなよ。クロウも」
リアが椅子を指し示してそう言うと、シャーリルとクロウが席に着いて賑やかな食事が再開された。
「リアが食べてるやつうまそうだな」
「うん、おいしいよ。あ、すいません。これをクロウにも持ってきてもらえますか?」
「お前よく平気な顔してそういう事言えるよなぁ……」
「だってそういうのがお仕事でしょ? 遠慮して頼まないのも、お仕事出来なくて困っちゃうんじゃない?」
「そーかぁ? なんか変な感じだよ。俺たち自分の世話は自分でやってきたのにさ」
「これが上流社会の常識なんだもの。仕方ないよ。ほら、えーっと……なんだっけ?」
「“郷に入っては郷に従え”?」
「あ、そうそう。さすがサフィ!」
頷いたリアの横でクロウが目を輝かせた。
「あ、サフィが食ってるのもうまそう」
「自分で頼みなよ」
「冷たっ! リアとえらい違いだな!」
「今自分で言ってたじゃない。“自分の世話は自分で出来る”って」
「だから、“郷に入っては郷に従え”だろ!?」
「だから頼んだら持ってきてくれるんだから——」
「あ、すいません。どうも」
「そうやって騒いだのって実は持ってきて貰うためなの?」
「ティア! 俺が面倒くさいやつみたいじゃないか!」
「違うの?」
「おいサフィ。食べたら表出ろ」
「ミルー、クロウがいじめるよ。助けて」
「あ、てめぇ汚ねぇぞ!」
「クロウだめ! サフィいじめないの!」
「……ミルー! 俺まだいじめてないぞ!」
「「“まだ”?」」
「ぐっ、くっそー……ミルーを盾にするな!」
「え? いつ僕がミルーを盾にしたの? クロウがいじめるって言っただけなのに」
「サフィは逃げるの上手いよなぁ」
「シャル。なんか僕の事いじめようとしてない?」
「シャルもだめ! サフィいじめないの!」
「いじめてないよ、ミルー。逃げるの上手いなって褒めただけ」
「そうなの? ごめんね、シャル」
「いーんだよ、ミルー。いい子だなー」
「ミルー……だまされてる……」
「ん? 何かな? サフィ」
「なんでも。あ、ティアそれは?」
「一番始めに出てきたスープよ。美味しかったからもう一度もらったの」
「僕も。すいません、このスープお願いします」
「あ、あたしの分も」
「シャル……まるで男並みの食欲だな……」
「今更じゃない?」
「クロウ、リア。食べた分の消費には付き合えよ」
「「うっ」」
わいわいと会話が絶えない食事風景に、初めは影で眉を顰めていた給仕の者達も、いつの間にか耳に聞こえてくる会話に笑顔が零れていた。
やがて六人が満足いくまで食べ終わると、見計らったように食卓の扉がノックされた。
「失礼致します、シャーリル様。入ってもよろしいでしょうか?」
低めの柔らかい声。一瞬ラフィスかと身構えたシャーリルは、拍子抜けした。戸惑いつつも黙っているわけにもいかないので、とりあえず言ってみる。
「あー……えーっと……どうぞ」
「そんな気の抜ける返事があるか!」
とクロウに突っ込まれるものの、シャーリルは苦笑するに留まる。
「失礼致します」
そう言ってすっと扉を開いて現れたのは、薄茶色の長い髪をふわりと肩口で結び、茶色混じりの緑の目を持つ青年だった。
立ち襟の、軍服とは違う様子の制服に身を包み、剣士かと思うような立派な剣を腰に下げている。しかし、醸し出す雰囲気はやはり争いには向かないように思えた。
青年はシャーリルと目が合うと、にこりと微笑んだ。すっと優美な礼をして言う。
「お初に目にかかります、乳母殿。私は本日から貴女様の侍従となりました、シェイザード=ルーヴェルスと申します。お役に立てるよう、精一杯努めて参ります」
「は?」
ラフィスが初めて訪れた時同様、大きな事をさらりと言ってのける青年に、シャーリルは呆然とした。そして、頭を下げたまま上げないシェイザードに困惑する。
「いや……えっと……」
ささっと後ろへ下がってサフィに耳打ちする。
「(じじゅうってなんだ?)」
「(シャルの召使いみたいなもんだよ)」
「えーっ!?」
耳元で叫ばれて悶絶するサフィを視界から消し去り、シャーリルはシェイザードに詰め寄った。頭を下げていたシェイザードは、素早く近づいてくる気配に慌てて顔を上げる。と、がしっと両肩を掴まれた。
「あ、あんた! そんな事しなくていいから! あたしは自分の世話は自分で出来るから! こいつらもいるし!」
あわあわとそう言われて、シェイザードは目を丸くした。
「世話しろって言われたんなら、しなくても大丈夫だから。な? それともあれか? ラフィスに見張っとけって言われたのか? 暴れたりしないからって言っといてくれ!」
「シャル……取りあえず落ち着け……」
がしっとシャーリルの腰を抱えて、クロウがずりずり引き離す。さっとティアが頭を下げた。
「すみません、掴み掛かったりして……」
「シャル落ち着いて。あんな風に詰め寄ったら怖いから」
「そう。シャルが怖いから。落ち着いて」
リアとサフィが宥めるのに、ミルーものっかる。
「シャル。深呼吸。はい、吸ってー、吐いてー」
「いやそれは……」
クロウがミルーを止めたところで、やっとシェイザードが凍結から解けた。くすりと柔らかい笑みを浮かべる。口元に手をやって笑う様は、やはり剣が不釣り合いに見える。
「シャーリル様……貴女様が必要だと仰らなければ、無理に手出しは致しません。ご安心下さいませ。それと、私を乳母付きに命じられたのはレヴァイン陛下ですよ。ラフィスが何を言おうと、私が彼に従う必要はあまりありません」
「「「「「えっ!?」」」」」
ミルーは話しがよく分からずにぽかんとしていたが、他五人は硬直してしまった。
「陛下が!?」
ティアが叫んだのを皮切りに、口々に騒ぎ始める。
「なんであたしに!?」
「ラフィスさんと親しいんですか?」
「シャルが担ぎ上げられてる……」
「このまま行くと本当に“お嬢さん”になれそうだね」
「「無理だろ!」」
ごごん!
リアの思いつきにサフィとクロウが力強く否定して、シャーリルの鉄拳が下った。それを見たシェイザードがまた目を丸くしている。
「で?」
落ち着きを取り戻したシャーリルが腰に両手を当てて首を傾げる。
「だから、その……侍従っての、どうしてもやるのか?」
態度の割に弱った様子のシャーリルに、シェイザードは思わず笑ってしまった。
「ええ、そうですね。申し訳ありませんがご容赦ください。ご迷惑にならぬよう、気をつけますので」
「いや別に……気は使わなくていいけどな……」
さらに弱ったようだ。
「その……あたしはどうすれば?」
要するに、侍従という存在の扱いに困り果てているようだ。シェイザードはにこりと微笑んだ。
「そうですね。御子らと同じようにお考え頂ければよろしいかと」
「「「「「「え?」」」」」」
突然の提案に、六人がまた戸惑う。
「シャーリル様も私にお気を使わず、まあ、便利な男手がいるとでもお思いください」
「…………男手、ねぇ」
そう考えると、そう大事でもない気がしてきた。貴族が下民の侍従になるというのに違和感はあるものの、取りあえず受け入れてみようかと思った。
「……よし!」
大きく頷いて、シャーリルはにっと笑いかけた。
「じゃあよろしくな! えっと……」
手を差し出し、名前を呼ぼうとして、うろ覚えだったことにちょっと困る。差し出していた手をシェイザードにふわりと握られて、驚いて目が合った。
「シェイザードと申します。シャーリル様。お許し頂けて安心致しました」
「……あ、ああ。そんな大層なもんじゃないけどな……」
「お手に触れさせて頂けるとは思いませんでした。光栄です」
「は?」
きょとんとしていると、ティアが教えてくれた。
「上民、貴族はね、男女は無闇に接触しないものなの。貞節を守るためよ」
「ていせつ?」
「自分の夫以外には身体を触れさせない、という暗黙の了解ですよ」
すっと手を離してシェイザードが言うと、シャーリルは叫んだ。
「手も駄目なのか!? 握手とか、やるだろ!?」
「やらないから光栄だって仰ってるんじゃない」
「……ああ……そっか」
納得したシャーリルを見て、シェイザードはまた笑った。
「ですから、シャーリル様。成人した男にあまり気安く触れませんよう」
「いやでも、下民だぞ? あたしは」
「……ではせめて、シャーリル様と面識のある者以外には触れない、という事でいかがですか?」
「……ん。分かった」
そして、溜息を一つ。
「なーんか、上は大変だな。変な決まりがいっぱいあってさ」
げんなりと言うと、その場にいた全員が笑った。シャーリルは今まさに、その“上”の世界にいるのだから。