件の子供と とんでもない乳母
クロウとリアの事はひとまず置いて、シャーリル達はラフィスに連れられて離宮の一角へと向かっていた。乳母役の者にあてがわれる部屋があるそうだ。
向かう途中で遠くから大声が聞こえた。思わず四人が足を止めるのと同時に、ラフィスも足を止める。声が聞こえた方を見て、困ったような顔をしていた。
「なんだ?」
と尋ねると。
「……いえ……」
と、歯切れ悪く答える。首を傾げるシャーリル達とは反対の方向から、元気の良い声が駆けてきた。
「あー、いたいた!」
「シャル!」
クロウとリアだ。笑いながら走ってくる二人に手を振ろうとして、慌ててラフィスを伺い見た。その顔が、かなり険しい。
「止まれ!」
咄嗟にそう叫ぶと、二人は驚いて止まる。
「? ……なんだよ」
「歩いてこっち来い」
手招きすれば、首を傾げながら二人が歩み寄ってくる。ちらりとラフィスを見ると、少しだけ険しさが減っていた。ほっとして二人に視線を動かした、その時だった――。
「殿下! お戻りください!」
必死に叫ぶ声が近くで聞こえて視線を動かせば、リアやサフィと同じ年頃だろうと思われる少年がかなりの勢いで走ってきていた。白金の髪と、それと対象的に濃い瞳の色は碧。少年はシャーリル達に驚いたようだったが、すぐに視線を逃げ道に戻す。
そしてシャーリル達の間を通り抜ける時、僅かにミルーに当たった。驚いて少し振り向いた少年は、それでも立ち止まらずに前を向く。倒れるミルーを慌ててクロウが支える。そして、少年がその場を走り去る——。
「殿下!」
叫ぶ声は少年の足を止める為のものだったが、最終的には、目の前で起こったあり得ない光景への悲鳴となった。
——そう。あってはならない光景だ。
「ちょっと待てこのガキ!」
シャーリルが走り抜ける少年の襟首を掴み上げていた。
「うわぁっ!?」
全力で前へ向けていた力をいきなり後方へ奪われ、少年は悲鳴をあげた。だが、シャーリルはそんなのおかまいなしだ。
「自分よりちっさい子にぶつかっといて何もなしか!」
「……!?」
ぐっと持ち上げられ、少年の踵が浮きかける。驚きに焦る少年は、口をあんぐり開けたままシャーリルを見た。
「どうなんだ!?」
「は、離せ!」
驚いた次は怒り、少年はシャーリルの手を力任せに引っ張るも、襟首を掴む手はぴくりともしなかった。
「ミルーをぶっ倒したのはお前だろ! ちゃんと謝れ!」
「離せと言っている! 無礼だぞ!」
謝るどころか目を吊り上げて怒り始めた少年に、シャーリルの怒りも倍増だ。
「謝れねぇのかてめぇは! ミルーに怪我させたかったのか? あ?」
そう言うと、少年はちらりと視線をミルーに移した。そして、目線を落とす。
「そういう訳じゃ……ないが……」
「悪いと思うんなら、ちゃんとミルーに伝えろ」
「……」
ミルーとシャーリルとをしばらく見つめ、やがて少年は消え入りそうな声で言った。
「その……すまなかった……ミルー……?」
ぶつかられてちょっと泣きそうになっていたミルーは、少年の謝罪を聞いて、にこりと笑った。
「うん、大丈夫」
それを聞いて、少年は心底ほっとしたように少しはにかんだ。しかしミルーの隣でこちらを睨んでいたクロウに気付き、さっと表情を消した。
「よし、いい子だな」
言いながらシャーリルは掴んでいた服を離し、ぽんぽん、と少年の頭に手を置く。見上げた少年の目に、晴天の空色の瞳と、麦の穂のような柔らかそうな髪が映った。その笑顔も、とても柔らかい。
「……」
思わず見つめた少年とシャーリル達の背後で、再び悲鳴が上がった。
「で、殿下になんという無礼を!」
え、と固まるシャーリル達に、少年を追いかけていた年配の女性が叫んだ。
「誰か! この無礼者達を拘束して下さい!」
「「「「「「ええっ!?」」」」」」
さっと身構える六人。そしてラフィスもシャーリルに詰め寄った。
「なんという事をするんです! 恐れ多くも殿下にあのような無礼を……! 貴女はまだ自分の立場が分からないのですか!」
「えー……?」
勢いに押されてたじろぐシャーリルを見て、少年がラフィスに向き直った。
「ラフィス、よい」
「!」
言われたラフィスは目を見開いて驚愕する。まさか自分の行為が止められるとは思っても見なかったのだろう。
反対に、少年がラフィスにとる態度を、シャーリル達は唖然と見つめた。
「しかし殿下、それでは——」
「よいと申している」
きっぱりと言われてラフィスは歯噛みする。
「殿下がよいと申されているのだ。ラフィス、不服か?」
驚愕に震える年配の女性の横で、同じく少年を追っていた若い男がそう言うと、ラフィスはぐっと堪えて目を伏せた。
「……とんでもございません。失礼致しました」
そんなラフィスに小さく頷き、少年はシャーリル達に向き直る。
「そなたら、見ない顔だが……何用でこの離宮にいる?」
大体十四前後だと思われる少年にこんな風に問われ、シャーリルはぽかんと口を開けたまま反応出来ない。さっきとは態度がまるきり違う。
「え……と……」
代わりにティアが口を開いた。
「こちらの女性はこの度、国王陛下より乳母役を拝命致しました、シャーリルです」
五人がぎょっとしてティアを見る。ラフィスも、年配の女性も、あの若い男も驚いてティアを見ていた。
「……ああ、聞いてはいる。そなたは?」
問われてティアは、すっと丁寧にスカートの裾を持ち上げて頭を垂れた。
「私はシャーリルに拾われて世話になっております、ティアと申します」
「礼儀がなっていると見えるが……?」
「……幼い頃に両親より習いました」
「……そうか」
少年は視線をシャーリルに戻す。その目はまだ幼いのに、すでに王族としての威厳があるように見えた。
「我はラズウェル。追い返しはしないが、乳母は要らぬ。我に構うな」
悲しそうに、寂しそうに。どこか苦しい様子でそう言うと、王子殿下はすっと踵を返してその場を去って行った。先程の年配の女性と若い男と共に。
「いいですか、金輪際あのような無礼を働かないように! あまつさえあのような暴言は本当ならば死罪です!」
怒りが収まらないラフィスは、六人を部屋の前まで案内すると、おもむろにさっきの出来事について説教を始めた。しかし、混乱が落ちついたシャーリルはすぱっと言い返す。
「王族に対する無礼とか言う前に、人として当たり前だろ! 相手に怪我させたら謝るってのは!」
「だからと言って掴み上げるとは何事ですか!」
「あいつが逃げようとするからだろ!」
「殿下をそのように呼ぶのも不敬です!」
「あーもー……! あのな、お前らが立場ばっかり気にして接してるから、あいつは人としての常識も判断出来ないんじゃないのか!?」
「……何!?」
さっと顔色が変わったラフィスにシャーリルを除く五人は思わず身を引いたが、シャーリルはぎっとラフィスを睨みつけたまま言い放つ。
「お前らはあいつに何を教えてんだ!? 偉そうにする態度か? 自分の心配ばっかする事を教えてんのか? それとも、叱られても悪びれない事を教えてんのか!」
「貴様……! 我らを侮辱するつもりか!」
はあっ、とシャーリルは大きな溜息を吐いた。
「……あいつの母親は亡くなって、父親は忙しくてろくに面倒みれないんだろ? だったら人となりを教えてやるのは、あんたらの仕事でもあるだろ」
静かな目に見つめられ、ラフィスは怒りを呑み込んだ。
確かに、先程のラズウェルの態度はよくないとは思った。自分より幼い子供にぶつかり、倒れるのを見ているのにそれを放って行こうとする。それは、良くない行為。そうラフィスも思ってはいたのだ。
「……殿下にあのような乱暴な言動は謹んで頂きたい」
「あいつが変な事しなきゃな」
ふん、とそっぽを向くシャーリルに、思わず動きそうになった手を握りしめる。
「殿下とお呼びするように」
「分かったよ。殿下、な」
こちらを見ようとしないシャーリルに、ラフィスは鎮めようとしていた怒りが沸き上がってくるのを感じた。
「……今日はこちらの部屋をお使い下さい」
返事もしないまま、シャーリルは乱暴に扉を開け放って部屋へ消えていく。その後ろ姿に殺意が湧く。それを見ていた五人の子供がごくりと唾を呑み込んだのを見て、ラフィスははっと怒りを鎮めた。
「……疲れただろう。今日はもう休むように」
こくりと頷いたのを見て、ラフィスは大股でその場を去った。
はらはらした一日が過ぎようとしていた。
一人一人部屋を与えてくれたのだが、広すぎて落ち着かない。落ち着かないと思って部屋の外へ出てみれば、全員が顔を合わせた。
「やっぱり落ち着かないよね」
リアが苦笑すると皆が頷く。そして、シャーリルが提案した。
「じゃあ二人一部屋でいこうぜ」
「それいいな!」
喜んで賛同するも、ティアが首を傾げた。
「でもどう割り振る? ミルーは私かシャルと一緒の方がいいでしょ?」
「それを言うならティアの同室は女の子の方がいいね」
リアがそう言うと、そうね、とティアがちょっと困ったように頷く。いくら粗雑なシャーリルの元で生活していると言っても、ティアはまともな女の子だ。男の子と同室で良いという感覚はない。
「じゃあティアとミルーは一緒でいいよな」
「シャルは?」
「あたしは誰とでも」
それを聞いて即座にクロウが応えた。
「じゃあ俺、シャルと!」
端からみたら姉と離れたくない弟のように見えただろうが、クロウは内心焦っていた。あんな寝起きの格好、リアとサフィには荷が重い。すると、リアが残念そうに言うのだ。
「えー、僕もシャルと一緒が良かったな」
「早い者勝ち」
にべもなく言って、クロウはさっさとシャルの腕を引いた。
「いいだろ?」
「ああ、あたしはいいぞ」
「クロウって猾い」
サフィが恨めしそうに言うのを鼻で笑って、クロウはシャーリルとの同室権を取得した。
焦った。本当に焦った。
陽が落ちて、シャーリル達は専用の食卓で夕食を食べた。こうしていると普段と変わらない賑やかさだが、料理は離宮の料理人が作った豪華なもの。加えて下町ではあり得ない事に、給仕が皿を並べ、料理を並べしてくれるので、正直あまり食べた気がしなかった。
その後はそれぞれ部屋に備え付けのお風呂に入り、シャーリルは用意されていた寝間着が女物だった事にぶつくさ文句を言っていた。そして、ベッドに潜り込むと。あっという間に眠りについたのだった。