とある国の、とある下町で
十年程前、戦争が終わった。それほど長く厳しい戦いではなく、圧倒的な力であっと言う間に。それでも、勝った国も全く無傷というわけにもいかず、戦争の爪痕に民は苦しんだ。
そんな国の片隅の下町に、古びた小さな家があった。
戦前、その家には兄と妹が住んでいた。両親はすでに他界しており、下町の人々に面倒を見られながら二人は育つ。品行方正で明朗な兄と、自由奔放で闊達な妹。少々妹に手を焼きながらも仲睦まじい兄妹を、町人は温かく見守った。
戦後、兄を失った妹は一人の少年を拾った。見るからにぼろぼろで、いやにぎらぎらした目の少年は町人たちには不気味に映る。何か卑しい事をしてきたのではないかと……。
妹はその子を弟のように可愛がって面倒をみた。それに影響されたのだろうか。近づくだけで殺気と呼べる程の空気を醸し出していた少年は、町人に挨拶する事を覚え、目も穏やかになっていった。そうして妹によく懐き、どこへ行くにも何をするにも一緒に過ごす。気付けば、楽しそうに笑うようになっていた。
その後妹はどこで出会うのか、戦争孤児と思われる少年少女を次々拾う。今では五人の少年少女の家族となっていた。どの子も始めは他者を受けつけない、酷く暗い目をしていた。そんな子供たちを町人たちは不安に思ったのだが、妹と暮らす様子を見ていれば、そんな不安は消えていった。
今では皆、やんちゃだが最低限の礼儀を弁えた子たちになっている。そして町人たちが一番心配していた妹は——。
「リアー! サフィー! 帰るぞー!」
よく通る、溌剌とした声の持ち主は二十代の女性。麦の穂のように柔らかな色合いの長い髪を、高い位置で一括りにしている。凛とした顔立ちは、女性らしさはあるが甘さを寄せ付けない。着ている服は男物で、しかし彼女によく似合っていた。
涼しげな瞳は晴天の色。黙って女物の服を着て立っていれば、良い所のお嬢さんに見えただろう。しかし。
「サフィ、早く!」
リアと呼ばれた少年が走りながら後ろへ声をかける。サフィと呼ばれた少年は眉尻を下げて言った。
「待ってよ。僕はリアやクロウみたいに運動、得意じゃないんだからさ……」
「わかってるけど、置いてかれるよ?」
「それも分かってるよ」
女性は懸命に駆けてきた二人にもう少しで“にかっ”という表現がぴったりなんじゃないかという程、溌剌とした笑みを向ける。
「よーし、帰るぞ! 今日は鴨肉だ!」
そう言って狩った鴨が入っている袋を肩に担ぐ。
——そう。彼女の立ち振る舞いや言動は、“お嬢さん”からかけ離れていた。
「鍋にするの?」
リアが尋ねると、サフィが言う。
「僕は鍋の方が好き」
「じゃあ鍋な! クロウは焼いた方が良いっていうだろうけど、狩りを手伝ってくれた二人の意見を優先するよ」
「「やったぁ!」」
ぱっと笑顔全開になる二人に、彼女は優しく微笑んだ。まるで母親ような優しい笑み。この微笑だけは、彼女をとても女性らしく見せた。
彼女の名はシャーリル。兄を失い、戦争孤児を拾って育てている。子供たちはシャーリルを、親しみを込めてシャルと呼ぶ。
ちなみにリアは本名をリアベルといい、サフィはサイファスという。もう名前が出てきたクロウはそのまま。特に縮めるようなところもない。
ついでに言えば後二人孤児がいて、その二人は女の子。最年少七つの子はミルー。シャーリルを除いて最年長十六の子はティア——ティアイエルと言う。
「ただいまー」
「「ただいまー!」」
元気よく古い家の扉を開けると、ティアが笑顔で迎えた。
「お帰りなさい、皆! 今日は何が狩れたの?」
訊ねるティアの影から小さな女の子が顔を出す。
「お帰りなさい」
「「ただいま、ミルー」」
リアとサフィはよしよしとミルーの頭を撫でる。その様子を目の端に入れながら、シャーリルはティアに袋を渡した。
「今日は鴨だ! 鴨鍋にしような」
「う、うん」
ティアは若干緊張しながら袋を受け取った。
ティアを拾ったのは三年前。多分、良家の娘だったのだろう。着ていたぼろぼろのドレスを見て、“ああ、生き残れたんだな”と思った。それで、ここへ連れてきたのだ。
初めは粗雑なシャーリルの言動や振る舞いに戸惑い、すでに迎えられていたリアやサフィやクロウの屈託なさ、ミルーのぼんやりした性格に困惑していたようだ。が、一年のうちに慣れてしまった。慣れてしまえばはきはきとした活発な子で、正直シャーリルはほっとした。さっぱりした性格の方が付き合い易い。
そして今ティアは、殺されたての獲物をさばく、という人生最大の難問に日々挑戦している。
「やっぱりあたしがやろうか?」
顔が青くなりかけているティアにそう言うと、固まりそうなまま言った。
「だ、大丈夫。私も、やれるように、ならなくちゃ」
錆びたロボットみたいに台所へ消えていくティアの側に、いつの間にかクロウが寄り添う。
「俺が持ってくよ。またさばき方教えるから」
「う、うん。ありがとう」
クロウは十四歳。一番最初、八年前に拾った子だ。そのせいか今では兄貴分だ。面倒見が良い。
リアとサフィは六年前に加わったのだが、サフィは頭の悪い大人に虐げられていたのを助けた。リアは何かに怯えているのを拾った。
同時期に入ったからか、二人は仲がいい。そして、クロウにとって最初に出来た家族だからか、これもまた仲が良い。
ミルーの時は迷わなかった。ミルーは五年前、捨てられていたのだ。まだ二歳だった。捨てられたと分かっていたのだろうか。ミルーは泣かなかった。
泣けなかったのかも知れない。心が、凍てついてしまって。
「わたしもお手伝いする!」
そう言ってティアについていく姿がとても愛おしい。だが直後、クロウに追い払われて泣きながら飛びついてきた。
そう。今はちゃんと泣けるのだ。
「よしよーし。ミルーの今の身長だと、台所で包丁持つの危ないだろ? もうちょっと大きくなったらたくさん手伝ってもらうから。な?」
そう言ってミルーの背を撫でるシャーリルを、少し離れた所で見ながらリアとサフィは呟く。
「身長の問題かな?」
「違うと思う。普通は刃物使うことを注意するよね?」
シャーリルの注意するポイントはずれているのだ。
夕餉は皆で鴨鍋を囲った。下町の一角で、その賑やかさは貧しさなど感じさせないものだった。
ティアの朝は早い。ここへ来たばかりの頃は昼近くまで寝ていて、夜は遅くまで起きている事が多かった。けれど今は違う。誰よりも早く起きて朝餉の仕度をしている。
今日も夜が明ける前に起きだした。野菜を洗って、切って。半分はスープにして、半分はサラダ。発酵要らずのパンを焼いて。そうこうしている間に匂いにつられて皆が起きてくる。
「ティア、おはよう」
今日の一番はリアだった。リアの髪は蜜色で、とても艶やかだ。肩の下まで真っ直ぐに伸びていて、とても綺麗。瞳は深い深い青。顔立ちは中性的だがとても整っている。にこりと笑うと魅惑的だ。
「おはよう、リア。先にスープでも飲む?」
「あ、うん。少し貰おうかな」
すぐに小さなお椀によそって渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう言って食卓の方へ去って行く背中をしばし見送る。
リアを見た時、自分と同じ良家の子息だと思った。しかしここでの暮らしの影響だろうか。その所作は洗練されているとは言えない。気にはなるものの、詮索はしなかった。ここではそれが当たり前だ。
少しして、リアが空のお椀を持って戻ってきた。
「これ、もう持っていっていい?」
出来上がったサラダを指差して言う。ティアは笑って答えた。
「ありがとう。そうしてくれる? お椀、貰うね」
「うん」
ティアにお椀を渡し、サラダを食卓に並べ始める。そんなリアの後ろから元気の良い声が聞こえてきた。
「よおリア! おはよ!」
「おはよう、クロウ。もうすぐ出来るから皆を起こしてきてよ」
「ああ、分かった」
ひょい、とクロウが台所を覗き込んできくる。
「おはよ、ティア!」
「おはよう、クロウ」
挨拶だけして、クロウは元気よく皆を起こしに行く。用意が終わったティアはリアと一緒に全員の朝餉を食卓に並べ、皆を待った。
クロウはまずシャーリルの部屋へ入った。こうして部屋に入るのはクロウだけだ。他の皆が遠慮しているのもあるが、クロウにはシャーリルが部屋にいる時に他の皆を入れたくない理由があった。それは——。
「……やっぱりか」
寝相が悪い、というよりは、寝返りをよく打つので寝間着が乱れる。本人は全く気にも止めていないが、シャーリルは妙齢の女性なのだ。特にリアとサフィにこれは見せられない。と、思っている。
「シャル! 朝飯出来るぞ!」
一応襟元を直して掛け布団をかけてから、シャーリルをゆっさゆさ揺らす。遠慮無く揺らす。シャーリルの眠りは深い。遠慮なんてしていたら起こせないのだ。
「んー……」
この返事、本人は全く無意識にしている。
「シャル!」
軽く頭が浮くくらい激しく肩を掴んで揺さぶった。
「うー……」
ようやくぼんやりと目が開く。そこでクロウは肩を離す。ぽすっ、と軽い音がしてシャーリルの頭が枕に落ちた。そのまま閉じそうな目を至近距離で覗き込む。
「おいこら! 朝飯食っちまうぞ!」
ぱち、と目が開いた。晴天の空がクロウを視界いっぱいに捉える。
「……あたしの朝飯?」
「おう。シャルの朝飯食っちまうぞ」
がばっとシャーリルが飛び起きたと同時に、額が激突するのを避けてさっと身を引いた。
「てめぇ人の飯食っていいと思ってんのか!」
がっと頭を両手で掴まれるが、クロウは慣れたものだ。そのままの状態で睨み返す。
「起きたんなら間に合ってるから」
「ん……?」
そこでようやくシャーリルは気付く。
「ああ……そっか。おはよう、クロウ」
「おう。おはよ」
にっと笑ってお互いの額をこつんと合わせた。出会った時からの、二人の挨拶みたいなものだ。なんだか照れくさいから二人の時しかやらない。
「じゃあ早く食卓行けよ」
「おう。ありがとな」
部屋を出ようと扉に手をかけ、クロウは振り返った。
「シャルさぁ。一応女だって自覚持ってる?」
「あ? そりゃあ持ってるぞ。身体が女だからな」
「……じゃあ俺とリアとサフィが男だって認識してよ」
「してるって。どっからどう見ても男だろ、お前らは」
「……」
これは無駄だな、と思ってクロウは諭すのを諦めた。
シャーリルはのんびりと着替え、少し遅れて食卓へついた。
「おはよ、ティア、リア」
「「おはよう、シャル!」」
にこやかな二人の笑顔に、シャーリルは微笑む。
「ティアはいつもありがとな。おかげで毎朝快適だ」
「皆に食材摂ってきてもらってるからね。私はこれで」
くしゃくしゃと頭を撫でると、くすぐったそうに笑う。そこへ—。
「シャル!」
クロウとサフィが、ミルーを伴って食卓へやってきた。
「どうした?」
「ミルー、具合が悪いみたいなんだ」
「「「えっ!?」」」
皆が慌ててミルーを囲む。シャーリルはそっとミルーの額に手を当てた。熱を診ながら顔を覗き込む。
「……」
ミルーは少しぼうっとした目でシャーリルを見返していた。
「熱……少しあるか?」
皆もミルーを覗き込む。
「ミルー、だるいか?」
「……少し」
「ミルー、スープ飲んで少し寝ようか」
ティアがそう提案すると、ミルーはこくりと頷いた。ティアに誘われて食卓へつくミルーを見ながらシャーリルは考える。
「薬を買いに行くか」
「……まあ、今のうちに治した方がいいよな」
クロウが頷いた。