第四章 出奔(しゅっぽん)
第四章 出奔
仙吉事件はなかなか進展がなかった。
伝右衛門始め村役人は田植えの繁忙を理由に帰村が許された。数回のお調べのために数カ月の江戸逗留の費用も多大なものになっている。
田植えが終わって、植田上がりの休日が過ぎると、伝右衛門と数人の者がまた江戸に戻って行った。二月の初公判(奉行による人定質問)の後、係りによる審議が二度行われて、一件落着で左平太放免がささやかれてきた。
それでは納得できない伝右衛門たちは、上級審の評定所へ訴えをあげていた。
当村をはじめ近隣の村より評定所へ訴えられた左平太の行状は以下の通りだった。
「深見村、当時百姓左平太は農業不精にて諸所遊楽いたし、博打賭け勝負事を渡世にし、近村にも悪事を企み、村の若者で悪事に手を染める者も少なくなく難儀している。かれこれ申せば、遺恨をもって何をするか分からないので一同恐れて口をつぐんでいる。今後左平太が近村を徘徊しないように取りはかりいただければ、遠村近村の村役人はもとより、百姓一同助かり家業に専念できるので村々一同挙げて愁願する次第です」
仙吉殺害の件は、無理だとしても最悪、所払いをしてもらわないと困るという主張だった。
梅雨に入ったのか、雨は十日ほど降り続いていた。途中上がりそうになったが、そのまま降り続き、ようやく昨日の午後に日が差し始めた。
兵助は迷っていた。江戸に誰を連れて行こうか。
用事はまとめて片付けたかった。こちらの作業具合も、自分がいないときの用心もしなくてはならなかった。いろいろ考えて、やすを連れて行くことにした。手抜きのやすを観察してみよう。
やすと呼ばれるが本名は康治だ。栗原の五平のところは男が五人いた。ただ、それだけの労働力を必要とする耕地がなかった。江戸へ奉公に出すのは心配があったのだろう。兵助は頼まれて面倒を見ることになった。どこかで納得できていないのかもしれない。
旗本屋敷への用事としては、まず村として茅と藁を運ばなくてはならない。地頭の所望の品で、村で調達できるものは年貢として上納する。雑穀、豆、萩や茶、綿、草藁。米に換算され割付けから引かれることになる。輸送は頼んでおいた。それから出納報告や書類の受け渡し、これは村役人の仕事だ。
今回、特別の用件は村から奉公に出た中間、弥平の出奔についてだった。本所の屋敷には泊まらなければならない。つごう三日が一旅程だった。ふつう年に四、五回は往復することになる。
地頭に届ける細々な品を康治にも担わせて、早めに朝飯を食べ、出立した。
暑くなりそうだが、気持ちの良い朝だった。
一面の稲は伸び始め、風になびいている。里道を辿り、宿から街道に入る。本所まで十里余。目黒川を横切って急な坂を上がる。康治はついて来ている。そのあと畑に挟まれた道を歩き、田んぼが見えた所で境川を渡る。また坂になる。康治が遅れ始めた。
振り返って、具合でも悪いか、と訊く。
それほどの荷を背負っているわけではない。追いついたが何も言わない。
遅れれば日暮れまでに着かない、と言って兵助はそのまま歩きはじめた。
考えてみれば康治と話をしたことがなかった。もともと兵助は世間話めいたことはしないし、必要がなければ話さないたちではある。
一刻ほど、緩やかな傾斜地を黙って歩いた。一歩下がって康治はついてくる。
江戸は初めてか、と歩を緩めて訊く。並ぶ格好になる。
行ったことがないです、といやに子供っぽい声で言う。
いくつになった、と尋ねるが返事がない。
五平はさばを読んだかもしれない。
叱らないから、答えてみろ。本当はいくつだ、と兵助は言った。
十三です、と消え入りそうに言う。
大したものだ、兄貴と化けたな。名は違えないな。
はい、四番目です。
背が三番目より高かったのだ。悩んだに違いない。自分を偽ることになるのだから。
今日からもう一度雇ってやる、人には言わないから、しっかりやれ。さあ、急ごう。
何かを払ってやるように兵助は明るく言った。
多摩川を渡れば半分来たことになる。
土手で川を眺めながら昼飯をとった。薄曇りの空に涼しげに風が流れていく。味噌を塗った握り飯はうまかった。
半人前で仕方なかったのだ、と兵助は思った。康治としては精一杯だったのだ。午後は暑くなるだろう。一休みして先を急いだ。
考えたくはないのだが、弥平の件を整理しておいたほうがいい。本所の用人から書き付けてきたのは、三日前に、いや四日前の夜にいなくなって、次の朝に気づいたのだ。夜、寝静まって屋敷を出る。少しおかしい。それならその夜は何をしていたのか。どこかに泊まるか、寝ずに動いているか。村に戻るなら、次の日、遅くてもその次の日には戻っていなくてはならない。昨日には戻っていない、隠してもしようがないのでそれは間違いない。ということは、村への出入りは禁止になる。村の保身のためだ。無宿者に係わってはならないからだ。
兵助はまず弥平が村に戻っていないことを告げなくてはならない。それで兵助の役目は終わりのはずだが、弥平の親から何とかしてくれという頼みがあることと、用人から何とかしろと言われそうなことがある。どちらにしても弥平を捜し出さなくてはならない。日数を限られるだろう。気の重い話だ。
青山を過ぎ飯倉から新橋を通って下町に入る。入って驚くのは、道の広さと軒を連ねる商家だ。多くの人が行き交い様々の衣装が流れていく。康治は珍しさにきょろきょろしている。見世物や食べ物小屋の並んだ広小路を抜け、両国橋を渡って本所の屋敷に着く。もう日暮れに近い。手足と顔を洗い、身なりを正した。
用人侍、服部様に奥用の土産の品々を示す。といって村の作物しかない。竹の籠、藁草履、瓜、茄子などなど。用人に金二朱を包む。これは前からの慣例だった。兵助が好んでするわけではないが、贈答儀礼だった。だから断られれば、あえてするものではない。
屋敷には三名の用人がいる。服部は深見村担当の用人といっていい。三十がらみの背の高い男だった。兵助が屋敷にいたころの服部様は年老いた頑固者だったから先々代に当たるかもしれない。
詳しい話は明日、依頼の件は書式にして提出するように、と用人は言う。
斎藤殿から下問があるから待つように、と言って下がっていった。
玄関先である。さらに後ろに控えていた康治に品物を奥に運ぶように伝えた。
斎藤は四十過ぎの小太りの用人だった。泰然としている様で、どこか口うるさそうな感じがした。職務柄なのだろうか。
弥平のことだ、と言った。
村には戻っているのか、確かに下問だが悪い感じはしなかった。
戻っておりません。
そうか、とは言わずに少し頷いた。
弥平を出頭させるよう申し付ける。
捜して連れて来いというわけか。そのまま去ろうとする。
少しお話を聞かせてください、と兵助は頼んだ。このままでは雲ともつかない。手がかりが必要だ。
ことの仔細は吉沢に訊くように、と言い残して去った。
自分にもああいう所があるのだろう、と反省することになった。自分の分かっていることを人に説明するのが面倒なことはある。不親切という意識もなく、人に接してしまう。反対に一度のことですべて了解されたと信じてしまうこと、がある。くどい、のが嫌いなのはどんな性向なのだろうか。たとえば武士に二言はない、などと言われれば納得してしまう。大層にいえば信義の問題だし、対外的には面子、面目の問題になる。親切であることは難しい。
屋敷の家人としては侍、若党それに中間がいる。あとは使用人。奥は殿様家族だ。吉沢はその若党の一人で背が小さく、そのせいなのか子供のようにみえる。ちょうど食事の後で、すぐみつかった。こざっぱりしているが、健康そうには見えない。庭の端で立ち話しをした。どこかへ出かけようとしていたのかもしれない。
兵助と申します。弥平のことで斎藤さまから言い付かりましたのでお話をお聞かせください。
顎を上げて聞いている。
何か変わった様子はございましたでしょうか。
弥平とはあまり話したことははない。
続きがありそうだった。
あの朝、中間の芳蔵がやってきて弥平がいないというので、斎藤様に報告をした。それだけだ。
斎藤様からは何かお言葉がありましたでしょうか。
他言無用、騒ぎ立てることのないように、と。
お手間を取らせまして、有難うございました。
康治を奉公人用の空き部屋に押し込み、兵助も旅の荷をといた。
お勝手で食事をとるように言われたので連れだって出かけた。久しぶりの米だった。芳蔵はもう部屋に戻ったらしい。
奥女中は愛想の良い娘だった。かしこまっている康治にお代わりを勧めた。
弥平とは、同じ村のものですが、どんな風でしたか、と世間話のように尋ねた。
おとなしくて、きちんとした人ですが、とそのあと言いごもっているので、兵助もご飯の代わりをもらった。
好きな人がいたかもしれません。確かなことではないのだけれど、と碗を渡しながら言った。
どうしてそう思うのですか。
文を木陰で読んでいるのをみたことがあるのです、と言うと奥へ引き込んでしまった。
ごちそうさま、と大声で言った。誰もいなくなってしまって、奥に声を掛けたつもりだった。年かさの女中が出てきて挨拶をした。
今日のうちに芳蔵に会っておこうと思って、中間部屋を訪ねた。
戸口に出た男は二十才頃で色白の町人ふうだった。
芳蔵さんですか
と、確かめて、中へ入れてもらった。
畳の部屋はきれいに片付けられていて、横の板間に荷物が置かれている。
ここで弥平と一緒にいたので、と兵助は切り出した。
そうだよ、と芳蔵は気さくな様子で話した。
そうすると、お前さんは弥平の村のものだね。
兵助が頷くと勝手に喋りだした。
弥平は村育ちのせいなんだか、おっとりしたとこがあって、こっちがすぐに手を出してしまう。それがあんなことをしでかすなんて驚きさ。前の日にはそんな素振りは毛ほどもなかったんだ。ぐっすり寝ている間に消えちまった。荷物なんぞ風呂敷にでも包めばあっという間、いつも起こしてくれる相棒が、もぬけの殻だ。すぐに逃げたなと思ったよ。給金を貰った次の日じゃ、そう思うよ、と一息ついた。
なぜ、夜、逃げたので。
そりゃあそうだな。借金取りに追いかけられているわけでもなし、夜逃げしなくてもいいようだが、と上を眺めた。
弥平に借金があるとか、事件に巻き込まれたとかなかったと。
弥平にそんなことが有りそうには思えなかったな。事件はわからないが、女の話にはあまり乗ってこなかったな。
あとで、ちょうどあの晩、美濃屋で女中がいなくなったとは聞いたが。
それは関係あるかもしれないね。
一つ目の手がかりだった。
そいつと逃げたと。
いや、分からないが、捜し出さなくてはならないのです。深見村の兵助といいます。手伝ってくれないか、吉沢様には了承を取りますから。
何をすればいいんだい。
その商家とか、出かけそうなところへ連れて行って欲しいんだ、と言って、切り上げることにした。
疲れたし、それこそ明日詳しく話をすればいい。
戻ると康治はもう寝ていた。兵助もそのまま眠った。
目が覚めて改めて周りを見る。
康治はまだ寝ていた。
康治を起こして外に出る。井戸端で顔を洗い、口を濯いだ。
外は明るくなり始めていた。村ではもう朝の仕事に取り掛かっているだろう。取りたてて兵助たちにはすることがない。康治に下男の仕事を手伝うように言って、兵助は部屋に戻った。提出する書類の整理をした。付け加える部分を確認した。前期分は綴じてきていた。勘助の件は伏せておく。
食事をしに勝手に向かった。奥は別だが、侍分も奉公人も一緒になる。たまたま吉沢と同席だった。変わらず顔色が悪い。芳蔵のことを頼んでおいた。業務に支障がないように、と念を押された。力仕事なら康治を使ってくれと伝えた。
段取りが悪く空いてしまう時間がある。いつも急かされて生きている者にとって、この時間は安息でもあり、焦燥でもある。まして強いられているなら苛立ちにもなる。こんな時は雲でも見てゆっくりするのがいい、と思って庭を眺めていた。松を通して、東の空が焼けて雲が連なっている。天空は雲ひとつない。朝焼けは下り坂という。天気が崩れてくるのだろうか。
用人に書類を渡した。作付けの様子、麦の収穫状況、村民の動向など訊かれるままに答える。こちらからは、神社への寄進の依頼、催しの許可願い、山林伐採について……。近況報告をし、一つの形は終わった。
斎藤様に弥平を捜すよう言われましたが、お屋敷ではどうお考えなのでしょうか、と探りを入れてみる。
出奔は連れ戻すが筋。吟味の上、処罰が下されるが、身分は残る。身分がなくなれば人にあらず。
処罰の内容はどうですか。
弥平の場合、百姓身分ゆえ、お役御免。
免職して村に戻れるというわけですね。
出頭すれば。
服部は微笑んだ。が、それが難しい。
芳蔵をつかまえて美濃屋にいってみる。
弥平は文をみていなかったかい。
外へ出てから質問した。奥の女中が言っていたことだ。
付け文ですか、と笑いながら言う。
弥平は猫をかぶっていたのかな。冗談も言わない堅物にしか見えなかったが。
どこへ行ったと思う。
金を持って出たんだから、しばらく旅でもできますよ。お伊勢参り、とか言って戻ってきてもいい。そうすればお咎めもないでしょう。でもあの堅物だと、そこまで器用にはできないか。そうすると、と考え始めた。
何か思い出したのか、そうそう、昨日あれから考えたんだが、夜行く所があったんだ。呼び出されて誰かと会う、とか岡場所とか。あの番は月もあったから灯りもいらない。
弥平の格好はどうだい。
出かけを見たわけではないけど、いつもの紺の着物だな。侍風の髷、中肉中背、顔は四角で眉が太い。女にはもてないよ。
美濃屋では女の様子や、出身や特徴を聞いてみて、外で待っていますから。
芳蔵は無造作に中に入った。
やはり消えたまま。女中でも下働きだったらしい。行徳の出で、十八。奉公にきて二年もいれば少しは勝手が分かると言うもんだ。よくやっていたらしいよ。原因は不明、いなくなったのは夕方、と戻ってくるなり、簡潔に言った。
同じ日にいなくなったという以外関連は見つからない。そうだ、名はきよ、色は黒いが愛嬌のある娘だったらしい。
何かほかに手がかりはないかな。
兵さんも大変だな。出てくるまで無理だって。隠れていれば見つかるわけはない。誰かに連れて行かれたなら余計わからない。でもいい大人を連れ出す奴がいるのかね。
一緒にどこか行きましたか。
芳蔵の嘆きは無視して粘った。芳蔵しか頼りはない。暑くなってきている。
一休みしようや、といって芳蔵は通りの甘酒屋を顎で指す。
そうするか、と言って席についた。
さっき思い出したんだが、前に給金をもらった日二人で一杯やったんだ。年に何回しかないことだけど、まあお祝いさ。弥平は相変わらずで、面白くなさそうだが、嫌なわけでないことは判る。まあ、こっちが一人で喋って、ときどき弥平が返事をするって按配だ。おえんのことでからかったりしていたんだが、反応がない。それで、何をしたいんだみたいな話になったんだ。
続きがありそうだったが確認してみた。
おえんというと。
屋敷の若い方の女中さ。
からかうというのは。
弥平に親切だな、というようなことさ。半分は冗談だよ。
ところで、芳蔵さんは何になりたいので。
そうそう、その話だ。俺は侍になりたいんだよ。まあ冗談だが、百姓の倅だが性に合わない。兄貴もいるし、遊んでばかりでもいけないと、頼んでお屋敷に入れてもらったんだ。
年季が明けたらどうするのかい。
まだ先だし考えてないな、うまい話があるかもしれない。
私には思いもつかないな。実を言うと若いころお屋敷に三年ほど奉公していたのだが、帰る先は決まっていた。それでなければ不安だったな。
不安と言えば不安だが、町では何とか食っていかれるものさ。
そんなものかな。
下働きで十年奉公よりましだろう。
長左衛門を思い起こした。
確かにそうかもしれない。それで弥平は何か言ったかい。
俺と同じさ、家に帰っても仕方ない、と。
兵助は驚いた。
弥平は戻ってくるものだと思っていた。家族のいる村へ。それを望んでいないと言うのだろうか。
そう、言ったのかい。
ひどくがっかりして兵助は言った。
芳蔵は兵助の思惑も意に返さず、剣術の話をしていた。修行して強くなりたいと、子供のように話している。
だいぶ道草を食ったので八つ刻は過ぎている。
えんは本当に弥平が文を読んでいるのを見たのだろうか。芳蔵にからかわれるので、隠していたとしても、一緒住んでいる者に気づかれないでいられるのだろうか。どんな意味が隠されているのか。そもそも弥平を捜すことに意味があるのか。考えがまとまらず、頭がぐるぐる回るようだった。家に帰っても仕方ない、という言葉の衝撃がまだ頭を巡っているのだ。
たいした役には立たなかった。また何かあったら言ってくれ、と別れ際に芳蔵は言った。
助かったよ、と兵助は途方にくれながら答えた。
久松町の辺りで別れた。
屋敷に帰るのだが、柳の根元に腰を下ろして掘割を眺めていた。小船が通っていく。すべてが徒労のような気がしてくる。町の生理が強いてくる漠然さだった。自分のいる場所がないという不安や諦めだった。
たぶん弥平も感じていただろう心細さや無力さが甦ってくる。村からも追い出されたと感じていたのだろうか。弥平は何を望み、何があったのか。
はっきりしているのは、屋敷からも逃げ出したということだ。どこに弥平の居場所があるのだろうか。そこもまた逃げ出す場所なのだろうか。
ふと窓のある部屋に独り座っている弥平が思い浮かんだ。窓は閉められているが外は光る海だとわかる。波の音に鴎の鳴き声だ。海の近くの宿、誰かを待っている。
おえんに話を聞かなくてはならない。
立ち上がって辺りを見回し、足早の人々にまぎれた。
屋敷に戻りそのまま勝手に急いだ。
誰もいないが、台所で音がする。女が二人炊事をしている。声を掛けたがおえんではなかった。
年上の昨日給仕をしていた女にえんの事を尋ねる。
おえんさんはどちらですか。
えんは暇を取りましたが、と落ち着いた声で言った。
前から親御さんの具合が悪いというので。今朝立ちましたよ。
里はどちらですか、兵助も落着いて聞こえるように言った。
船橋と聞きました、と女は静かに言った。
礼を言って兵助は引き上げた。
今から立つには遅すぎるな、と兵助は思った。弥平とえんは一緒にいるような気がした。それの方がまだましだった。
風呂でも入るか、と不意に思った。
服部様の供をして湯屋にはよく行った。もちろん兵助は下足や刀の番をしていたに過ぎない。どんなときでも侍が独りで出かけることはない。小者や中間が付き添った。江戸の銭湯は多くは蒸し風呂だった。最後に浄湯をもらって、さっぱりして帰ってきた。
夕飯を食べ、そのあと酒を少し調達して芳蔵と飲んだ。
芳蔵は喜んでいた。酒量は少ないという。兵助も酒を飲むのは久しぶりだった。前いつ飲んだか忘れていた。
えんは暇をとったみたいだね、何気なく言ってみる。
そうか、女が来ていたので何かあるとは思っていたが、えんが辞めたか。慣れた者がいなくなるな。
芳蔵さんはどこの生まれで。
俺は葛西だ。悪がきだったよ。喧嘩もしたし、博打もやった。面白くないんだな、何だということはないんだけど、気に入らない。それもある時期、何と言うか、飽きた。段々仲間もいなくなったし、最期に成田さんに三、四人で行って、屋敷にきたよ。
親ごさんは喜んだでしょう。
お縄にかかるんじゃないかと気を病んだだろうから、お袋は安心しただろうな。それはそうと兵さんの話も聞かせてくれよ。
私は村役だよ。若いとき江戸に来たのもお勤めだ。
そうだ。弥平も自分が望めば村に帰ってこられた。もう二年半いたのだから。
兵さんは親父と同じ年代だ。まあ少し下だとしても、こんなふうに親父と話せたら違ったような気がするな。
父と息子は難しいものだよ。私にもよくつかめない。でも親父さんが芳蔵さんのことを心配しているのは確かだよ。
そうかな、と芳蔵は小首をかしげた。
誰にも告げず、えんの里に行ってみる事にしていた。
その前に、報告方々斎藤にえんの事を確かめた。
身元引き受け人とか住所などを教えてもらい、前の晩に握り飯を作ってもらって、朝一番で立った。用事を済ましてその日の内に戻るつもりだった。
康治には言い含めて先に村へ帰らした。
船でとも思ったが、歩いて行くことにした。
朝日に向かって、ほとんど真東に進んでいた。すぐ人家はまばらになった。
午前中に宿場に着いた。だいぶ往来があり、成田詣でで賑わうという。宿も多い。その中の桜やというのがえんの実家だった。武家屋敷で行儀見習をするのが母親の希望だった、と聞いた。坂本家はこの近くにも知行地がある。
帳場に人はいなかった。まあ、この時間に客はこない。声を掛けると、はいと出てきた女がえんだった。三、四人で休んでいたらしく女たちが横から出てきて奥に消えた。えんは始めわからなかったようだが、思い出して驚いた。
弥兵のことで訪ねてきたんだが、と切り出した。
えんは兵助をじっと見ていたが、どうぞこちらへ、と言って自分たちが休んでいた所に案内した。囲炉裏を囲んだ部屋になっていた。
お茶いれますから、と席を勧めた。
遠かったでしょ、と言いながら茶を入れ、どうぞと前に置いた。
兵助が何か言う番だった。
すいません。お邪魔とは思ったのだが確かめたくて。
茶を一口飲んだ。えんは兵助を見つめている。髪を結い上げ朱の簪をしていた。
美濃屋のきよさんをご存知ですか。
すぐに返事はなかった。どちらにしようか考えあぐんでいるようだった。兵助はまた一口茶をすすった。
知っていました。
では、いなくなったことも。
知っています。
弥平はどこにいますか。
わかりません。
事情を話してもらえるかい、と兵助は静かに言った。
えんが嘘をつく気はないことはわかった。ただ事実を打ち明けるかは別問題だった。兵助は続けた。
なぜ弥平に好きな人がいると言ったのかな。
弥平さんは私のことが好きでした。そのことを言いたかったのです。
兵助はよく理解できなかった。秘密めかして人に告げたい、ということなのだろうか。それが喜びであると。
きよとはどんな関係ですか。
きよは幼い頃ここに住んでいました。姉妹のように暮らしていました。従姉妹です。わかりました、全部お話します。少し待ってもらえますか、外に出ましょう、と、えんは出て行った。
兵助も立ち上がって通りに出た。潮の香りがする。
しばらくするとえんが出てきて、二人で浜の方へ歩いていった。
狭い道を降りるとすぐ海が見えた。遠浅の海岸で砂が輝いている。
揚げられた漁船の陰に腰を下ろした。
きよと、よくこうして海を見ていました。きよの母親が再婚して越してからは、しばらく会えませんでした、去年盆の休みに戻った時、再開してお互い江戸に奉公していることを知りました。そのあと江戸に戻って、休みが合えば会って出かけたりしました。番頭の手癖が悪いと噂話で笑ったりしていたのですが、怖い思いをしたという話をしたりして、他のだれに相談することもできず、あの日抱きすくめられそうになって逃げ出してきてしまったのでした。それで屋敷の前をうろうろとしている所を戻ってきた弥平さんに出会ったわけです。事情を聞いて、三人で相談して、きよを弥平さんが家に送り届け、私が暇をとるとき一緒にこちらに帰ろうということになりました。でも出発する時、私が、江戸に戻るのは危険だし大変だから、どこかに隠れていてください、と頼んで見送った切りなのです。
お互い一緒になると言い交わしたのだね。
こちらへ戻ってきたら、とえんは顔を上げ頷いた。
苦労するのは、知っています。大変なのもわかります。落着いたら祝言をしようと約束しました
弥平はなんと。
何でもすると言ってくれました。折りをみておっかさんに打ち明けます。
波打ち際で子供たちが遊んでいた。その向こうに光を浴びて海が広がっている。空と溶け合った一面の海だった。今日、明日にも弥平はやってくる、と兵助は確信した。
村役は形を作る者だ。自分の内が混沌としていても、人を避難させる役だった。安全な道を確保しなければならない。弥平を待つ、と兵助は決めた。
日が暮れる前から人の往来が激しくなった。
兵助は二階の大部屋から通りを眺めていた。目を引くのは巡礼姿の一団だった。大声で話しているのがここまで聞こえてくる。あとは年を取った夫婦者、行商風の男、三、四人連れの若者、流れ者もいる。
どこの宿場ででも見かける光景と言えるのだろうか。
弥平さんが来ていますと、えんが知らせてくれたのは、風呂から上がり、日も暮れかけたときだった。弥平の顔をしかと覚えているわけではなかった。混雑し始めて、小走りで仲居が動いている。下に降りて囲炉裏のある部屋に入った。
若者がきちんと座っていた。
弥平です、と名乗った。
兵助は難しい顔をしていたかもしれない、しかし本当は安堵していた。少なくとも弥平が見つかったのだ。確信しているのと実際姿を見るのとでは違う。えんもそう感じていただろう。
覚えているかもしれないが、村役の兵助だ。お前さんを捜していた。
ご迷惑をおかけしました、無骨ではあるが篤実そうに見えた。
思い切ったことをしたね、いきさつを教えてくれ。
正直にお話して、許しを得ようと思ってはいました。ただ自信がなくて、反対されると考えました。このまま駆け落ちか、それとも心中かと思い詰めてもいました。村の親を思うと不孝さ加減に泣きたくもなりました。えんの里帰りも決まって、約束もしましたが、そんな時おきよが飛び出てきたのです。三人で話しているうち、どうしてもえんと一緒に暮らしていきたい、と思いました。それでその夜、待たしていたおきよと江戸川を越えました。おきよを実家に届けると、その足で船橋に出て、ここを確認してから付近の宿にいました。昨日は行き違いだったらしく、えんに会えませんでした。
調子が平坦で訥々話す。
今日、おえんと話している村役さんを見かけました。覚悟はできています。
お前の気持ちはわかった。だが世の中は形をつけなくてはならない。まず明日一緒に屋敷に戻る、出頭する。
何か言いそうになったので付け加えた。
話はついている。お前はお役御免だ。その前にえんの両親におれが話をする。今日は宿に戻れ。その話がついて形が決まったら、えんと一緒に一度村に来る。おまえの親には話しておく。それでいいな。
お任せします、と言って弥平は帰っていった。
宿の夜は忙しい。一段落したのを見てえんに親を紹介してもらった。親父は寝たきりで言葉も不自由だという。母親は宿の女将でそれ以外には見えないふうだった。
兵助は事情を説明して、弥平の人柄にもふれて婿に迎えてくれといった。えんは一人娘だった。
仕事振りを見てみましょう、と女将は答えた。
お役中に出奔するのは不届き千万、依ってお役御免、当屋敷に立ち入ることならず。
斎藤の宣告だった。弥平は村役になれない、望みもしないだろうが。
そのあと西東に別れて二人は本所をあとにした。
一刻も早く家に帰りたかった。
歩き詰めだが疲れは感じなかった。一気に歩き通した。さすが境川を渡るとほっとした。相模国に入ったわけだ。
月はなく提灯の光だけが揺れている。坂を上がると家の灯も所々見える。
──あと少しだ。
足を激しく動かしているときは何も考えなかった。頭は空っぽで、着いたときの気持ちだけを頼りにしていた。今すこし歩が緩んだ。こういう時が危ないのだろう。
魔が差す。化かされる。
──いけない、いけない、
と思って先を急いだ。
るいは起きていた。灯りもついていて針仕事をしていた。
一日中歩いたので、さすが汗ばみ残り湯を浴びた。
雑炊を貰い、安心してすぐ眠った。