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第二章 兵助



   第二章 兵助

 


 いつものように兵助は目を覚ましたのだろう。目を開けて天井を見上げると、かすかに白んできている。今日は休日だから、まだ皆起き出してこないだろうが、目が覚めてしまったからと起き上がった。

 床が、がさっと鳴ったが、隣で寝ていた「るい」は目を覚まさなかった。添い寝している末の子はまだおむつもとれていない。納戸に自分たち、奥には倅の常助を筆頭に六人の子が寝ていた。忍び足で抜け出て裏から外に出た。物置の向こうが林になっていて、その辺りから小鳥の囀りが聞こえ始めていた。井戸のところで顔を洗い、口を濯いで手ぬぐいで拭いていると、平左衛門が出てきて声をかけた。平左衛門とは年も五つと違わない、長く一緒に働いてきたいた。

 馬屋に行って、くろの様子を見る。覗き込むと武者震いをした。もち直したようで目に精気があって、鼻面を撫でると喜んでいた。飼葉桶の草を混ぜ、あとを平左衛門にまかせて兵助は表へ出た。左手の隣家の境に、この辺りでは稀だが兵助が気に入って槙と山桜を植えていた。あとは運んでもらった大石があるきりで、周りに草花をあつらえているのは、るいの仕業だろう。庭というより作業場なのだ。右手の手前に蔵があって、外便所。そこで用を足す。

 普通農家に門はない。榊の生垣と、入り口の端に欅を植えてあった。これは先代からのものでずいぶん大きくなっていて、もう抱えることはできない。前の道は根道とも里道とも呼ぶが、新田義貞が鎌倉攻めに通っていった鎌倉道の一つだと言われていた。

 角を曲がると川に沿って一面の田地が眺められる。道はかなりの傾斜で坂になっている。点検というほどのこともなく下っていくとそのまま堰の所まで来てしまった。


 陰になっているところに人がいた。近寄っていくと勘助のところの婿だった。おやじが先年亡くなって跡をとっていた。

 様子がおかしい。

 どうした、と尋ねても返事がない。しばらく二人で川の流れをながめていたが埒もないので、戻ろうとすると、いなくなった、と後ろで声がした。

 振り向くと勘助が泣きそうな顔をしている。先の勘助には倅がなく女が三人いた。それで上の娘、「もよ」と結婚して跡をとったのだが、そのもよが昨日戻らなかったというのだ。朝起きたら荷物をまとめて見えなくなっていた。それでも何事もないように一日は過ごしたが、もういけなかった。心当たりはないという。

 話を聞きながら勘助の家に連れて戻り、なかを窺った。心配していたらしく、妹二人が飛び出してきたが、兵助を見て驚いたようで、何か言いかけた口を閉じてしまった。その後母親が出てきて兵助に礼をいった。

 勘助は黙って疲れたように座敷に上がりこんでしまった。


 人が一人いなくなると面倒なことになる。領主に届け出て、村中を総出で三度捜しまわらなければならない。建前はそうだ。それで、上がり框に腰を下ろして、上の妹「なよ」が入れてくれた湯を飲んでいた。母親はしきりに恐縮して途方に暮れているようだった。質問をしてもあいまいなことしか返ってこない。端から普通に見えても、あるいは本人がしっかりしていると思っても、なにげない日常の所作がとれない時があることを兵助は知っていた。そのときは処理してあげることだった。一歩前に進めることが必要だった。気持ちには触らないほうがいい。

 手伝いをよこすから、と言い兵助は立ち上がった。

 ただ確かめなければいけないことがあった。朝の用意をしている、なよを手招きして、外へ出て話した。

 

 姉さんは覚悟して出て行ったのかな、と訊くと、そう思います、意外にさっぱりと答えたので顔を上げそうになった。


 どうしてなのだろう、そのまま続けた。

 なよは少し躊躇した。言ってもいいか間を取った感じだった。なよはもう二十才を少し過ぎているのだろうか、目を見開いて見つめている。器量よしだな、と兵助は思った。

 出て行く準備していたようにみえたましたから、区切るようにゆっくり言った。なぜ出て行こうとしたのか、の問いには答えがなかった。


 すっかり明るくなって腹が減っていた。

 また来るよ、何かあったら知らせてくれ、と告げて道へ出た。

 小さなな家だったけれど、きちんとしていた。勘助の家は八坂社の下にあったから家までそんなに遠くはない。寺を抜ければもう宮下だった。


 待って、と若い女の声がして、小走りに駆け寄ってきた。名前は忘れたが下の娘だった。

 息を整えると、ちよです、と名乗った。紺の長着を腰でたくし上げ襷をしている。さて仕事をするか、という格好だ。活発な子だったのを思い出した。


 困らそうとしているのではありません、と指を弄った。そのあと、少し待ってください、と手をほどいた。


 聞かなかったことにする、三日待とう、と兵助は答えた。

 それを確かめると、ちよはまた駆けて戻っていった。


 兵助が戻って席に着くとみな集まってきて、お勝手は一杯になってしまう。

少し遅い朝飯になってしまった。粟の飯に味噌汁、漬物の食事だが、今朝はお祝いの粟だんごがついた。黙って感謝しながら食べた。


「衣類は帯、襟に至るまで絹は用いず紬・木綿などを着用する。また、常々食物に雑穀を用い、魚、鳥はみだりに食べない。分限に応じない衣食を好む者があれば申し出なくてはいけない。そのままにして後日知れることがあれば、その五人組の不届きになる。贅沢になるようにはしない」


 これが地頭の定め書の一部だった。違反者がいれば、兵助は申し立てる役にある。しかしそれほど多くの村人は裕福ではない、ということの方が問題だった。

 兵助は本家筋の伝太夫の急逝によって百姓代を引き受けたに過ぎなかった。

領主は本所の屋敷にあって用人侍も在村しない。村役人と呼ばれるのは代表の名主、それに集落代表の組頭、監査監督の百姓代が三役になる。

 それより長左衛門のことだ、と兵助は思った。

 長左衛門は奉公に出ていたが病気で沢柳に戻っていた。沢柳の地は綾瀬川の源流に発している。湧き水があってその辺に柳の木が生えていた。その沢と柳で、そうやぎ、と呼ばれるようになったそうだ。流域に田を開き、もともと深見村に属していたがだいぶ前に分村した。ただその名残なのか上下沢柳の境に深見村沢柳がある。新規の開拓で入ったわけではなかった。以前に村から出た数所帯の家があった。


 遊びに出て行きたいのか友治がもぞもぞしている。友治と団治は双子だった。友治の方が一呼吸早い。団治の膝を揺すっている。

 ごちそうさま、と兵助が声をかけると、次つぎと言って、めいめいで膳を片付け始めた。常助のあとはしばらく男が出来なかった。三年おきに女が三人続いた。その娘たちも片付けの手伝いをしている。その後が双子の男子でもう外に出て行ってしまった。兄さんたちに遊んでもらうのだろう。今日は一日休みだ。

 兵助は座りなおして茶をもらった。四、五年前自分用に植えてみた。「よね」がやってきて、「とめ」を股の間において、見てくださいね、と言った。よねは中の妹だが物怖じしない愛嬌のある子だった。

 抱き上げて庭先に出てみた。とめはおとなしい子で、はにかんだように笑う。

 おはようございます、と生け垣の脇から声をかけられた。玄運だった。彼は医者で兵助の屋敷地に家を建てて、病人を診たり、薬を出したりしていたが今は子供に読み書き計算を教える方が主になっている。

 どういうわけでそうなったかも分からないが先々代のときから住み込んでいた。だから玄運はここで生まれている。しばらく遊学もしていたから、なかなか知識もあるらしい。彼が戻ってきたのは病気がちの老いた母がいたからだろう、と兵助は思っていた。

 団子があるからあとで届けさせます、と兵助は一声かけて、家に戻った。


 握り飯を作ってもらって出かけることにした。

 遅くはならないが用心のためだ、と女房のるいに笑って言い家を出た。

 もともと村の台地は稲作に向かない。川が削ったわずかな崖の下の平地で米を作るしかなく、その川もよく溢れた。反対に、上に登ってしまえば水が足りない。もちろん田にはならず、畑にしかならないが旱魃に悩まされた。

 沢柳は、距離にすればそんなでもない。前は畑の周りを切り添うように耕地を広げていったのだが、近頃は開拓が奨励されていて、その林を切ったり、原野を刈ったりして畑をつくりだしていた。

 ただ初期の投資がいる。冥加金を地頭に払わなければならない。その地は処分も自由なので、うまくいけば利益が出る。伝来の地、名田というのは検地で決まった。確定すれば、所有するが処分はできないことになっている。検地は徴税のために行われるのだけれど、村の境界を確定し、地縁や血縁で結ばれた共同体としての村に変わることを意味した。村民は名請け人として村の構成員になったといえる。

 検地帳に記載される耕作地の少ない農民の多くは、かつては有力な農民に隷属した下人や小作人だった。それが公に保障された耕作人になる。その土地に縛られ一生年貢を納めるために農作業に従事するようにみえる。制度が続く限り子孫もそのようであり続けなくてはならない。

 それを決められたものと考えるか、考えないかだが、現実はいつも止まっているわけではない。考えなくてもどこからかやってくる。領主にすれば自分の安泰を大多数の農民からの労働でまかなう、ということになるのだろうが、農民からすれば、選ぶことは出来ないけれど、ある種のお守りではある。何かの役に立つかもしれない。しかしいつもその代償は割には合わなかった。


 街道を越えてしばらく道は平らになっている。右手前はほとんど畑になっていて、あとは原野が続いていた。最近二、三年に一度は年貢の減免願いを出さなくてはならない。去年の虫の害はひどかった。さすがに地頭も認めてくれた。といってそのまま年貢が少なくなるかというと、そうはならない。米の相場が上がっていれば割当て石高に値段を掛けるから多くなってしまうこともある。全国的に不作なら相場は上がる。需要と供給の関係だからだが、そこで得をすることはむすかしい。


 平坦な道も松も終わってしまい、山道のような下り坂に入る。左手は崖で高い樹が茂り右手は赤土の壁になっている。その切通しの途中に喜八の家はあった。

 声を掛けて横手から土間に入った。

 なかはうす暗くてひんやりとしている。そして少し湿った匂いがする。

 もう一度声を出す前に振り返ると、開けられた戸の向こうのあまりの眩しさに目がくらんだ。そのとき若い男が出てきた。立ったまま呆としている。


 村役の兵助だが、喜八さんは在宅かな、と声をかける。

 わざわざお越しいただいて相済みません。手前は長左衛門でございます。今主人はでかけておりますが、と男は腰を落とすと、意外にしっかりとした調子で言った。


 いや、ちょうどよかった、おまえさんに話が聞きたかったのだ、と兵助は続けた。座らせてもらうよ、といって板間に腰掛けた。

 長左衛門は淡々と話す。

 もう少しで十年の年季明けという所で病みましたもので戻ってまいりました

が、すぐに良くなるというわけにはいきません。おかげさまで段々回復しているように思います。


 そうかい、それはよかった。ところで用事というのはおまえさんのことだ、と兵助は一気に言った。

 どうしたらいいのだろうか。


 気が付くと長左衛門は声を立てずに泣いていた。肩を震わせ苦悶の表情を浮かべ、そのまま大仰な身振りで打ち伏せてしまった。

 兵助は待っていた。というより言葉を次げなかった。耳の奥で声にならない嗚咽が続いている。部屋の奥はがらんとして洞窟のような気がした。


 しばらくして、肩に手を置いて兵助は言った。

 おまえさんは自分のことを不甲斐ないと思っているだろうけど、すっかり何もかもが終わってしまったわけではない。まず仕事が出来るだけの健康を回復するかが問題だ。医者は何か言ったのかい。


 長左衛門は起き上がると身住いをただした。

 見苦しいところをお見せして申し訳ありません。当初は咳きもひどく熱っぽくて、朝寝床を離れるのも大儀でした。でも、そのうち治るだろうと無理をしていましたが、よくなるどころか段々ひどくなる一方で、とうとう立ち上がることさえ出来なくなってしまいました。番頭さんが医者を呼んでくださいましたが、手立ても薬代もままならないということで、ゆっくり休むことと滋養に気をつけることを言われて、小康の時に戻りましてからもう一年になります。今は自由に動けますし徐々に体を慣らしていけば、というような気力も出てきました。ただ親が残してくれた田畑といっても、奉公に出ているあいだ母と伯父二人で維持してきたのですけれども、母も伯父も亡くなり、去年もう一人の伯父が亡くなりまして手前一人が残されてしまいました。よく分からなかったのですが、年貢も払えず、田畑を質草にしていたのです。どうしたらいいのかと言われましても何の考えも出てきません。皆様にご迷惑をかけまして本当に申し訳ありません。

 長左衛門は慌てることもなく落着いた調子で語った。


 証文を見せてもらえるかい、と兵助は受けた。

 何も言わず意を決したように長左衛門は立ち上がり、奥へ行ってごそごそと抽斗を開け閉めして戻ってきた。


 宛名は島津の徳兵衛だった。締めて七両。長左衛門の三、四年の奉公代になるのだろうか。予想より少し多いかもしれない。名主と組頭の連署もあるので書類としては間違いなかった。書入れだった。返済期限は十年。日付は二年前で、年一割五分の利息も高い。

 書入れの場合、土地の所有権は借りたほうに残る。期限までに返せなければ所有権が移ることになる。普通の質地の場合は借りた時点で使用権が移る。そのまま借主(地主)が耕作を続けるのを直小作といい、小作料や年限を決めた小作証文を取り交わすことになる。貸主(金主)が自分で耕作しても別小作に出しても構わない。当然書入れの場合年貢など諸経費は地主に属し、質地の場合は金主の負担になる。


 これで全部だね、と書類を返しながら長左衛門を見る。喋ったせいなのか顔が紅潮している。血の気が出てきた感じだった。

 大丈夫だな。やっていけそうな気がした。


 はい、と答えると長左衛門はしっかりとした様子で奥に消え、すいません、お茶もいれませんで、と言って勝手に立った。


 静かな風が流れていく。外は切り取られた光の洪水だった。竹が斜めに走り、さざめく木の葉が瞬きのようにときおり光った。ゆっくりとした時間に満ちていた。遠い空から音が聞こえてくるようだった。

 子供の兵助は走っていた。

 水たまりが時々鈍く光を反射する。あまり強く駆けたので草鞋が脱げそうになり、こんなに走っているのに、どうして息が切れないのか不思議に思いながらも、足はもつれて転びそうになっていた。


 ありっ、という声と戸口に影が現れるのとが同時だった。

 村役さんじゃありませんか、と言いながら喜八と、次に女房が入ってきた。


 これはすまない。帰りを待ってお邪魔していたよ、と我に返って兵助は言った。

 女房と代わって長左衛門も戻ってきて、兵助も埃を払って上がり込むことになった。

 長左衛門さんに話は聞かせてもらったのだが、実際田畑の様子はどうなんだい、と訊く。


 女房の弟にも助けてもらって去年の収穫はどうやらできた。長左衛門のところは上田が一反、下畑が六反、二石九斗の名請けだが丸々一年棒に振っているからなあ。畑は耕して麦を蒔いておいたよ。うちもそれでもう手一杯だ。その前の年のようでなければ実入りは上がるだろうが借金までは手が回らない。長左衛門も大分よくなったからまた奉公に上がるようだと思っていたところだ、と長左衛門を見る。

 村にいたのじゃ借金は返せない。おまえも嫌になって帰ってきたのじゃあるまい。


 長左衛門は頷いている。

 あとは村役さんにお願いだ。事情を判ってもらわなければならない。おまえからもお頼みしなくては、と長左衛門は頭を下げた。

 お願いします、と二人に言われた。 


 収穫は、年貢と利息分でほとんど消えてしまう。長左衛門が奉公に出なければやっていけないのだ。ただ家族のいない名請け人が奉公に出てしまえば、夫役や村の勤めはできなくなる。実態も書類上もむずかしいことになる。

 兵助にも金があるわけではない。役料は年一両二分だった。田畑を耕してなんとか家族を養えるという程度だった。金があるのだったら借金を返済して長左衛門に村に残って所帯でも持って暮らしてもらいたかった。そのことのほうが良いことに思えたしそう望んだ。だがそうはいかなかった。

 年をとって雇ってもらえなくなったら、また長左衛門は戻ってくるだろう。そのとき借金がなくなっていたなら気が休まるという話だ。どこかで糸がもつれてしまっている。兵助でもあり得ることだった。あらためて自分がぎりぎりのところで生きていることに気づかされて辛くなった。


 何とかいい工夫をしてみるよ、と兵助は答えた。

 その後食事をするというので兵助もお茶をもらって握り飯を食べた。長左衛門の親父と喜八は従兄弟になるらしい。女房は福田の出で、その弟は住み込んでもいいと言っているらしい。


 江戸に連絡をとっておいてくれ。あんまり気に病んではいけないよ、と言い残して喜八の家を出た。笠を忘れていたな、と思って手ぬぐいを頭に巻いた。

 歩き出してからふと、徳兵衛のところに行ってみよう、と兵助は思った。

 気は進まないが今を逃せば億劫になる。街道まで迷っていたが、左に折れた。島津に行く道だった。

 そのまま坂を降りて徳兵衛の屋敷の前に出た。中川という質屋の案内がでていた。

 けっきょく金を貸しで財をなしたということなのだろうか。集まる所には集まってきてしまうのだろう。地頭にも金を貸しているし、だいぶ前になるが地頭への御用金弐十両が村で払えなくて当座立て替えてもらったことがあった。酒の醸造所を作るという噂もあって、よく兵助にはわからない。元手はどこから来たのだろうか。

 とにかくもう長屋門をくぐってきてしまった。

 訪うと若い衆が出てきた。徳兵衛のところに案内してもらう。茶室のような離れ屋だった。畳敷きだったのでそのまま上がるのに気が引ける。こちらは野良着だが徳兵衛は厚手の着物に縞の帯を着けていた。

 年のころは五十半ばというところだろうか。


 聞きたい事があって来ました、と一呼吸置いた。反応はない。笑っているようなのだが嬉しそうには見えない。血色はよさそうだった。

 村の者にお金を用立てて頂いているようなのですが、田畑が質に入っているのはどのくらいありますか。


 まず、と徳兵衛は口を引き締めた。普通なら答えられないのだが、村役さんが直々見えられたので調べてみましょう、と言って後ろの抽斗から帳面を取り出した。

 深見村で九件です。みな村役の認めはもらっています。利息は、年に一割から二割、状況によって変わります。それが商売ですから


 扶持米を領主から拝領しているのは金子の御用立てと考えていいのですか、と疑問を質した。


 本当はご遠慮したいのですよ、郷士になって苗字帯刀は名誉なことですが、返済の催促がなかなかできなくなる、そのとき初めてにやっと笑った。

 領主の財政はもう破綻していますね。というより、農業を本にした仕組みが時代に合わなくなってきているのです。いくら倹約を勧めても解決できません。隅々まで商品が出回って、それなしでは暮らしがなりたたないのです。だから貨幣を中心にした仕組みになっていきますよ。できるなら貸付も断りたいと思っています。そうなると、地頭はどうすると思いますか。


 地頭の収入は村からの年貢のほかにない。お役について役料を幕府から貰うのが筋なのだがそれもできまい、できたとしても持ち出しの方が多いかもしれない。村人は領主から耕作権を与えられているに過ぎないのだ。


 徳兵衛は自分で答えた。

 領地を担保にはできないでしょう、でも村人に自分の田畑を質に入れても金を用意しろと言い出すかもしれませんよ。一番最初に手をつけるのは御用金でしょう。直接村から理由をつけて徴収する。それも度々はできないとなると、年貢を先取りして、例えば十年分の年貢を担保にして江戸で借り入れする。結局支払えないからつけが村に回ってくる。


 逃げ出せということかい、と兵助は吐き出すように言った。


 走る者が増えるでしょう。あとは訴ということになるが、公儀を当てにはできないでしょう。世の中力次第ですよ。自分の力をつけるしかない。


 勝手ないい分のように聞こえて、兵助は怒りが湧き水のように溢れてきたが、徳兵衛に結実することはなかった。世の中の仕組みの中に取り込まれているのだ。神や仏はどこにいるのだ、と八つ当たりのように考えた。

 もちろん村人が悪いわけではない。自分の家族との平穏な生活を願っているに過ぎない。仕組みを作っているのは為政者だ。その制度の中で村人も安住していたとはいえる。しかしその仕組みは壊れてしまった。


 兵助にできることはなんだろう。


 長左衛門のことですが、江戸に働きに出るといっています。きっと期限までに返せると思います、と付けたした。


 こう言うのはおかしいかも知れないが、私にはどちらでもいいのですよ。それが仕事ですから、というのが徳兵衛の返事だった。


 兵助は黙って辞した。

 もう、あまり会いたくない相手だった。滓のようなものが体に溜まってしまい兵助はひどく疲れていた。足つきも重いが帰りに寺の山門を上がってみた。数えるほどの石段がひどく堪えた。

 息を切って登りきると右手に鐘楼がある。境内はそれほど広くはない。正面の本堂は戸が開け放たれていた。よたよたと近づいて、如来像を拝むと階段に腰掛けてしまった。しばらく辺りを眺めていた。日が傾きかけて長い影を作っている。その中にに小さな石像がある。地蔵菩薩の立像だ。台座の文字は「千日回向仏」と書かれている。兵助の幼時の記憶にある行者に係わっていた。白装束に長い杖を持ち駆けている人だった。いつも道を駆け、田畑を駆け、林に入って行った。そこでも駆けていたのだろう。口を開く事はなく、挨拶することもなかった。

 修行をしている、と母から聞いた。何年も続けていた。仏になろうとしている人だった。兵助はその人を追いかけたことがあったのだろうか。

 遠い記憶のように思い出され情景がある。走っている兵助、ときおり光る水溜り、繰り返されるのに結び目が見つからない、とりとめのない姿。

 開けた前方は川原に草の帯が続き、その先には雑木林がなだらかな起伏をつけながら一面にひろがっていた。鳶が二羽空を舞っている。

 のんびりしたいつもの村の風景だった。



 午過ぎ兵助のところに飛脚がきた。

 名主が不在なので回ってきたようだった。藤沢、清浄光寺長生院とある。

 遊行寺の尼寺のことは聞いたことがある。

 遊行寺は藤沢にある百石取り時宗の朱印寺で、その一角に長生院がある。照姫の建立だという。剃髪して長生比丘尼と号し、そこで没した。本尊は阿弥陀三尊で、本堂になるのは小栗堂だった。小栗判官と照手姫の伝承はいくつもあるらしいがその一つだろう。


 書付にはこうある。


 深見村のもよ、という女が訪ねてきて得度を願い出ている。寺ではよく考え直すように説き聞かせたが、当人は覚悟の上のことであるので是非にと願っている。だから名主と夫勘助に知らせることにした。ただし後でいざこざが起こっても一切受け付けない。


 なんでこんな込み入ったことになるのだろうか。相談する地類はいなかったのか、段々腹が立ってきた。とにかく勘助と一緒に藤沢へ行ってみなくてはならない。

 明日の朝一番に出立すると返事を持たして飛脚を帰した。

 何が問題なのだろう。喧嘩をしたわけでもなし、離縁の話も出ていない。それが突然いなくなって尼寺だ。おかしくはないか。母親は何も分からないが、妹たちは何か感じている。勘助は本当に覚えがないのだろうか。もよというのはどんな女だったか。おとなしそうでいて、きちんとした印象しかない。もちろん葬式の時のものだから仕方ないか、と兵助は納得した。

 るいに訊いてみた。

 口数の多い人ではないけど、行儀はしっかりしている。働き者よ、動作はきびきびしているし。でもどこか明るさがないのね、悩んでいたのかもしれない。

 そこだな、問題は悩みの内容だ。


 女が悩むとしたら暮らしのこと、家のことしかないわ。一番は亭主のことね。別れたいと思うほどのことは生活が成り立たないと感じるからでしょう。


 でも結局うちにも帰れないとしたら、家族の縁を切るか、死んでしまってもいいと感じるくらいに強い思いだ。戻ってくるつもりはないな、と兵助には思えた。その理由も明かされないのだろう。明かしたくないのでこういう手段をとったのだ。

 もよに未来はない。

 煩悩というか、強い罪悪感のようなものが感じられた。


 外へ出ると雨はあがっていた。が、また振り出しそうな重い雲が残っている。風が止まっている。もう少し様子を見る必要があった。手狭なので外に筵を広げて作業がしたかったが、今日は無理かもしれない。

 勘助が急ぎ足でやってきた。

 兵助の姿を認めて笠を取って挨拶をした。座敷にあげたがしばらく黙っていた。明日朝一番で藤沢へ行ってみよう、と茶を勧めると兵助は言った。


 有難うございます。ご迷惑をお掛けしますがお願いします。きのう一日中考えていたのですが、確かに何かふさいでいるようなことがこの一、二ヶ月続いていました。忙しかったこともあり、気にしないではいたのですが、避けているといった感じでした。もちろん夫婦だから気づくといった程度でしたが、それが尼寺なんて、いまでも信じられないのです。


 どうやら現実を認める気になったらしい。

 妹はなにか言っていたかい、と尋ねると、勘助は驚いたように一瞬考えていた。

 知らせが来た時はみなでびっくりしてしまって、どうしようと額を寄せていたのですが、ちよが、このままにしておくわけには行かないのだからすぐにでも藤沢へ行かなくてはと言い出して。そうしたらお袋が、村役さんのところへ相談に行って来いと。


 夫婦になって何年だい。

 四年とちょっとです。最初は親父さんも元気で、取り付きにくい感じの人ですが、心根はやさしくてよくしてもらいました。ただ、もよには厳しくて、今思えば親の心遣いのような気もするのですが、当時は気が引ける思いでした。親父さんが亡くなってからは、柱を無くして、男手が一人ですので頼りにされていたと思います。子ができればよかったのですが、まだ恵まれず、お袋もそのことは時々言います。


 もよを責めてはいけないよ、心に闇があるのだ。納得のいくような話が聞ければいいのだが、そうすれば連れ戻せるかもしれない。


 勘助は帰っていった。

 明日、迎いに来ると言う。藤沢まで四里余、四つ刻までには着くだろう。空は明るくなっている。平左衛門が指図したのか外庭に広がって作業を始めていた。常助も懸命に千刃を使っている。娘たちは一組になって棒打ちを始めていた。 土間の奥ではすえを背負ったるいが味噌室を行ったり来たりしている。かまどには釜がかけられていた。

 裏戸を抜けて堆肥小屋を覗いて見る。

 草を積んでそれに人糞尿をかけて発酵させるのが堆肥だ。平左衛門と市がいた。様子を聞いて段取りの指示を出しておいた。明日は一日いないことも伝えた。ぐるりとあたりを見回す。灰屋と物置、奉公人の小屋、蔵があって薪小屋、敷地の向こうは雑木林になっている。これも少しずつ植え足したものだった。


 友治と団治が帰って来ないので見てきてください、とるいに言われた。暇そうだからという感じだが、悪意があるわけではない。二人の行動はいつも一緒だった。友治が先頭に立って団治がついていく。喧嘩することはなかった。団治は小さい頃高熱が出て、危うそうなことがあった。いろいろ心配したが大事には至らなかった。そのせいなのか分からないが友治に比べると動作が少し遅い。しかし顔も背格好も傍からは区別がつかなかった。


 川原に行ってなければいいのだが、雨が降って流れが速くなっているだろう。境川は普段三間足らずの川だが、増水して暴れる。

 急に不安になって、足が速くなった。

 田んぼに出ていた者に尋ねると見かけていないと言う。

 どこへ行くだろうか、と考えた。

 辺りを見回して坂を戻った。神社の東側に里道から上がる階段があって、その脇に照浄院という分寺があった。先祖が墓守堂として建立したというが今は朽ちて、奥に定使いの熊蔵が住んでいる。


 そこで二人を見つけた。椿の木の根元が盛り上がっているのだが、さらにそこを泥土で塗り、溝をつけて丸い実を転がしていた。小石で障碍を作ったりして、迷路のようになっている。山城を模しているようだ。泥まみれになり、熱中していて近付いても気づかない。

 団治が最初に振り返った。と同時に友治が顔を上げた。団治はいたずらを見つけられたような顔をしていたが、友治は声をあげて寄ってきた。転がしてみろと言う。傾斜を利用して巡りながら最後潜って広げた団の手の中に落ちた。大したものだ。半日の成果だった。


 名残惜しそうな二人の手を引いた。子供たちに足を洗わせ裸にして風呂に放り込んだ。その後自分も入った。

 外の仕事は日没までと決まっているから、いつもは日が暮れるまでには皆家に帰ってくる。埃まみれの体を湯で流して食事になる。よほどのことがなければ兵助から入らねばならない。そうしなければ食事が遅くなる一方だ。一人で一杯になる据え風呂だから、からすの行水だった。でもさっぱりとして清潔な肌着に替えるとほっとする。

 うちにいる女は後になる、そうしなければ一緒に食事ができなかった。稲刈りのような時は飯をかきこんで仕事をする。それ以外のときは村の夜は早い。四つ刻(十時ごろ)に起きている者はいない。

 人の生活にはある種の規律が必要だ。それはどこかで作られねばならなかった。一緒に飯を食うことも、風呂に順番で入ることも、仕事の分担をすることも、生きていくことのけじめのようなものだ。役割を果たすことは機能的でもあり快感を伴うはずだった。

 るいが席について食事は始まる。欠けている者はいない、全員そろって、いただきます、と言った。米の飯を腹いっぱい食べてみたい、と思わなかったといえば嘘になる。いつも思っていたのではないが、そんな時もあった。それが欲なのだろうか。村では米を食べる者はいない。晴れの日は特別だが、米から作る酒も同じだった。地頭がそうしろというからだけではない、それだけの余裕がないからだ。あるいは蓄えということなのかもしれないが、準備しておかなければならない理由がある。それに自分なら半分の米より、稗や麦のめしでも一杯食べた方がいい。

 今晩は赤飯だった。休みだし、明日からまた仕事に精を出してもらわなくてはならない。若い衆が川で魚をとってきたということで騒ぎになっていたらしいが、そのお裾分けももらった。大漁というわけにはいかなかったようだ。

 行灯の油も限りがある、節約しなくてはならない。村では自給自足だから作物が採れている限り金はいらない。ある意味米が貨幣だった。それが戦乱を終えた徳川幕府の体制だった。村を閉じ込め自給自足を求め、民から武器をとりあげ、侍による絶対支配をする。階層を固定化し従属の関係をつくる。内部では恩と奉公の主従関係を基盤にして、民には儒学的な徳目をすりこみ服従を求める。

 だから昔は無理してでも水田をつくった。米一石が金一両と固定していたから米一升での物々交換にも感覚的な尺度があった。いまでも例えば稗は米の三倍になるし、春麦や小豆は五割増、と換算されている。

 それが自発的な商品によって崩されていった。米が一商品となって相場で動くことによって、村が都会の一部分に組み込まれてしまう。最初の蓄積は金銀を絹に変える上層から、それから庶民の消費に、先はどこかで権力の争いになり、それがまた民を疲弊させるだろう。どちらに転んでも安穏としているわけにはいかない。


 人はいつも競争する。競うことで続くものもあり、一人前の基準もできる。農作業がそれを強いているのかもしれない。重労働への見返りであり、自己評価の重石になる。半人前で終われないのは向上の源だし、半端な人間では生きていく意味を見出せない。人は自負を持って生きている。

 常助は一人前になるところだった。見ていることが兵助の勤めのように感じていた。それは兵助が早く父を亡くしたことと関連するのだろうか、よく分からない。常助の年のころ兵助は本所の坂本屋敷にいた。それは特別なことでなく、賦役の一種と考えられる。有体に言えば村から召使いを地頭屋敷に出さなければならなかった。出さなければ罰金であって、二両を越える金額を村から上納することになる。といって中間として雇われれば給金をもらうことになるが、堅苦しく行儀作法にうるさい武家屋敷に奉公したいという若者はいず、先代の玄運の勧めもあって兵助が行くことになった。

 そういえば、左平太もそんな経緯で地頭屋敷に勤めたはずだった。殺された仙吉とはその頃からの知り合いであるはずだった。



  友治を見るとからかいたくなる。

 はしっこい、と村で言うが目が落着くことがない。聡いということもあるが俊敏の意だろう。よくも悪くも使う。邪気がないのでいたずらをしても怒りにくい。

 同じ親からいろんな子供が生まれる。兵助は自分が一人っ子なので、大勢で楽しいが、父親の役目ができるのか自信がない。その点るいは兄弟姉妹が多くて自然にふるまえる。顔が曇ることのない明るい女だった。


 眺めてみて、平左衛門をのぞけば常助をいれて六人が同年配だったことに改めて気付いた。娘たちが大きくなって勝手の仕事を手伝えるので女たちは農作業専門になった。みつの方が気を利かして動くが、まつは一つのことを熱心にやる方だった。男はいちが一人前だ。年も一番上だった。綾瀬の潰れ百姓の倅だが、まじめだから自分でやっていけるに違いない。よしはまだ半人前だったが力が強い。問題はやすだ。五平のところの者だが仕事の手を抜く。熱心にやればもっとできると思うがよしと競っていた。

 働き手は昔のような譜代ではなく年季奉公だった。みつは一年の奉公だ。田植や稲刈の季節だけの奉公もある。一人前とは例えば一反の田植を一日でやることだ。だから早くやって上がってしまう者もいる。

 家や田畑がなくなれば奉公人か小作人になることになる。若ければ逆の出世もあり得た。


 繁忙期は総出で畑仕事をした。草むしりをし、小麦を刈った。子供たちも手伝った。農業は種に土地と道具、労働に天の恵みがあれば結実する。それを食べ、子を育て暮らしていくのが人の生活だった。田に水を引くために共同で作業をする。堰を作るために村民が協力する。毎年の作業だった。

 労働は敬虔な祈りに似ている。恵みは感謝と畏れにある。荒ぶる神への願いと払いに表れる。稲荷や庚申の講をつくり、日待ちをする。火災除けに秋葉講をしたて、代表が守りの札を貰ってくる。祟りや憑き物を畏れ奉じる。人知の及ばぬことには素直に頭を垂れ、祈りそして感謝する。


 とめは上機嫌で動き回っていた。もちろんまだ立てないが、あちこち伺いを立てて泳いでいる。首もしっかりとしてきた。兵助に抱き上げられても反り返っていやいやをする。しばらく放っておくことにした。


 娘たちの話はつきない。


 男の人は心のきれいな素直な女を好むものよ、となほが言う。

 もう二、三年もすれば嫁の話がくるだろう。

 その人に染まって生きるのが幸せなことなの。

 二人の妹はよく分からない顔つきだった。


 でも楽しくないのは嫌だ、かほが口を開いた。

 だって楽しいことばかりではないでしょ、我慢もしなくては。わがままは嫌われるわ。

 

 確かにそうだが。

 そのまま受け入れてくれる人がいい、とよねが言う。

 お姫様のつもりなの、と反撃される。

 よく分からないけど、と言ったのはかほだった。嫌がることを押し付けるのはいけないことよ。

 一呼吸置いてなほが言う。

 なにかあったの。


 乱暴されている子を見たの、と言ったのはよねだった。


 先にかほが見つけ、よねが騒いだので逃げたという。

 怯えてかほは動けなかったらしい。

 やられていた子が誰にも言うな、と言って去った、と。

 誰とは言わないが見知っている者に違いない。


 怖かったのね。大丈夫だからゆっくり寝なさい、とるいが慰めて引き取らした。

 悪さする子がいるのですね、とるいが言う。

 気の優しい女で本当に心配そうに言う。一度もそんなことに遭ったことも見たこともなかったように。でもそんなことはない、昇華してしまっているのだ。

 子供は子供だ。残酷だがそんなひどいことはできない。それに残念だが心の傷は自分で治していくしかない。

 可哀そう、とるいは呟く。

 確かにそうだが何ができるのだろうか。叱りつけてもその場限りだ、見張っているわけにはいかない。大人の社会の縮図にすぎないのだ。


 かほにも見せたくなかったわ。できるなら辛いことには目を瞑っていたいの。

 三つの猿だね。

 自分の世界で安らかにしていたいの。邪魔をされるのはいや


 これ以上何を言うべきなのだろう。

 それこそ言わざる、だ。しかし見ないわけにも、聞かないわけにもいかない。それに自分に言うことにも。


 このまま時が止まってしまったらどうかな。

 それもいいけど、子供たちの将来も見たい気がする、とるいは言う。


 常助は若い衆の所へ行ってしまっていた。友治と団治はもう夢の中だろう。


 母は父が死んだとき実家へ戻れたかもしれないが、祖父が許さなかった。兵助が幼かったので頼んだかもしれない。兄が亡くなったとき兄嫁を弟に嫁がせる風習は残っていた。しかし兄弟はいなかった。嫁に行った姉とまだの妹がいた。祖父はその妹に婿を取らせ、跡を譲って分家隠居した。母とその子を連れてだった。何らかの責任を祖父は取ったのだろう。

 暮らしは変わらなかった、兵助にはっきりした記憶はないが、あい変わらず大家族だった。母は頼りに思ったはずだ。働いてさえいれば親子生きていける。この年になれば痛いほどに分かることに当時は気づかないことも多くある。


 娘たちは引き上げていた。

 るいはとめの世話をしている。静かな子だった。最初の子のせいだろうが、常助はよく夜泣きをした。癇の強いのはなほだった。段々育てるのに楽になる。親の方が成長するのだろうか。るいは子を人に任せなかった。それが一番の仕事だと確信していた。そのくせ手が放れれば構わなかった。そこが子の多い家ところと少ない家で育った違いだと兵助は思っていた。


 明日出かけるのことを思い出し、準備をたのんで先に寝た。ただ、ぐっすりとは眠れなかった。夜中に目を覚ましてしまい、真っ暗な天井を眺めた。勘助も眠れないだろう、息を潜めているような気がする。眠る時いつも余計な想像をしないようにしていた。像として浮かんでくるのは仕方ないとして、そこから先は考えないようにしていた。眠りつくには目をつぶり、目の裏で土を耕している自分を見ているといい。体が動き、鍬が土を掘る、手が動き……

      


 るいに起こされた。なにか夢を見ていたのだが、目が覚めたときには忘れてしまっていた。最初、寝過ごしたかと思ったのだ。まだ暗かったから助かった。沼に沈んでいるような、曖昧さが付きまとっている。頭の靄が晴れないが、覚悟して跳ね上がり、顔を洗った。

 用意はできていた。旅支度をして雑炊をかき込んだ。そのとき勘助がやって来て、そのまま出かけた。

 外はひんやりとして雨は落ちていない。まだぼんやりとして、瀬谷の森だけが白んでいる。一気に坂を上がり滝山道に出て歩を緩めた。勘助は一歩下がってついてくる。

 藤沢まで休まずいこう、と声をかけた。

 はい、と返事をしたきり黙っている。兵助はなにか喋りたかったが、止めて先を急ぐことにした。確かに遊山に行くわけではない。

 空は刻々明るくなっていった。桜株を過ぎる頃には前が見えるようになってきていた。平坦で真っ直ぐな一本道だが、林が切れれば畑であって人家もなく心細いかぎりだった。

 下和田に入る頃にはすっかり夜が明けた。それまで半刻口を開かなかったし、足早で歩いてきたから塚のところで足を止めた。


 ここまでくれば大丈夫だろう。悪い噂を聞いたので心配していたんだ、と兵助は言う。

 どんな噂ですか、息をついて勘助は言った。

 中原道との辻でたむろして、後をつけて襲う追いはぎが出るという。だから里の道とも考えたが道が悪いし、時間もかかる。まあ朝なのでそれもあるまいが。


 会釈をしていく人も現れ、二人はゆっくり歩き出した。

 少しは眠れたのかい、と声をかけてみる。ひどい顔をしていた。勘助はまだ若いし細面の、普段ならそれこそ、いなせに見えないことはない。


 うとうととはしたのですが、もよの姿が浮かんできては、どうしているのか、なにがあったのだろうかと考え出すと眠れなくなって。


 会って話をしてみれば意外と誤解がとけないとも限らない、急ごうか。


 日は出ないが一面薄い雲が明るくなって天を覆っていた。


    


 藤沢、緩やかな石段の前にいる。太い石柱には時宗総本山清浄光寺とある。

両脇は桜が並び、重そうに枝が広がっている。四十八段のいろは坂と呼ばれる石段の先、狭くなった右手には形のよい一本の松が捩れ、正面は広大な本堂でしっとりとした落ち着きが感じられた。境内は広く明るかった。


 時宗は、一遍上人を開祖とする。遊行と称して以後の上人も寺に常住しないで巡り歩くことが布教であり、修行であった。それが世を捨てた者のあるべき姿だ、と考えられていた。

 上人は十人ほどの僧尼たちを従え、賦算といって「南無阿弥陀仏」と書いた紙片を手ずから配り、十念を唱え踊り念仏を行なった。その一行には太鼓や鉦叩きをはじめ世話をするものたちや罪を犯し逃げ出したものも加わっていた。

 念仏を唱和すると、鉦叩きは首から下げた鉦を撞木で打ち鳴らし盛り上げたり、人集めのために歴代の遊行上人の霊験譚などを物語った。小栗判官の話もそれを核にして、漂泊する人々や放浪する芸能者に語り継がれるようになったものだろう。


 本堂の右下手には敵味方供養塔があった。六尺ほどの板碑で表面は赤黒く、大きく南無阿弥陀仏と刻まれその下に細かく文字が記されている。鎌倉公方、足利持氏と上杉禅秀が争った応永二十三年の乱の際、遊行十五代尊恵上人が僧達とともに敵味方の区別なく戦傷者を収容治療し、最期の十念称名を授け死者を弔った、とある。


 そこをさらに奥へ進み、来訪を告げると若い僧に裏の小屋に案内され、そこに待つように言われた。なかには簾が下りて四半分空いている。

 しばらくすると奥の戸から人が入って来て、正面で向かい合うかたちになった。聖と俗を分けているようだ。顔ははっきり見えない。

 長生院の尼僧であると告げた。

 事務的な調子で質される。名前の確認、もよのご法度破りの有無、来訪の意味。

 兵助が代弁した。

 申しあげます。出奔の理由が告げられておらず、当人も思い当たるところがございません。ですので説明がなければ納得できません。不憫であると思し召して直接お話をさせていただきたいと存じます。そうして頂けるなら手続きをして、そのまま引き上げるつもりです。


 最低の線で、これだけは譲れなかった。会えなければここに来た意味がない。もよは黙って家を出たわけだから説明はしたくない。そうすればこの尼僧に説得してもらうしか方法はないはずだ。多くを望んでは失敗する。


 しばらく待つように、と静かに言って静かに去っていった。

 二人で顔を見合わせた。

 兵助はこれでよかったか確認しようとしたし、勘助はどうでしょうかと言うような顔つきだった。兵助が先に言った。

 よかったかな。

 有難うございます。もよは来るでしょうか。

 待つしかないな、と言って改めて部屋を眺めた。小屋は二間になっていて真中で仕切られている。戸が左右に寄せられて中を簾が下がっていた。上は欄間になっている。板敷きで左の方が明り取りになっている。右側は板壁で、上のほうだけ格子になって少し空いていた。


 どのくらい経ったのだろう、やったことはないが座禅を組んでいるようなものだろうか、なにも考えなかった。目を瞑ってなにも思わなかった。

 奥の戸が開く音がした。

 静かに前に二人座った。

 尼僧が念を押す。

 騒ぎ立てることのないように。声を荒らげる事があれば、すぐ連れ出します。では、おもよ。


 村役様にはご迷惑をおかけしました。このようにあい成りまして本当に申し訳ありません。勘助さんには言葉もありません。許してください。

 と、もよは泣き崩れた。


 もよ、と勘助は呼びかける。

 お前のことはとうに許しているよ、責めもしない。出家したいならそれも仕方ないだろう。自分に悪い所があったのだろう、と思うしかない。ただどこが悪かったのかぐらい教えてくれてもいいだろう。


 もよは起き直っている。


 いつも優しくはできなかった。お前がふさいでいても放って置いたこともあった。でも、この五年仲良くやってきただろう。急にこうなって、どうしたらいいのか。


 ごめんなさい、あなたが悪いのではない、私のわがままなの。


 戻ってきてはくれないのだね。

 家族を捨てるのだね、と更に勘助は言いつのった。


 これではいけない、何か言わなくてはと兵助は思う。


 もよさん、勘助と心中を考えなかったかい。


 空に石を投げたつもりだった。が、かすらなかった、ようだ。


 勘助が驚いてこちらを向いた。


 しばらく沈黙があった。


 お引き取りください、と尼僧が言った。


 二人は爪印を押し幾ばくかの金を置いて引き上げた。


 これで終わりなのだろうか、と兵助が自問したとき、これで終わりですか、と勘助が呟いた。


 もよは消えてしまった。帰らなくてはならない。


 八つ刻を越えただろうか、日暮れまでには村につく。気は急くが遊行寺の門前で休んで団子を食った。茶をもらうと一心地ついた。

 心中というのは何のことですか、と勘助が訊いた。

 勘助は握り飯を食べ終わっていた。


 あてずっぽう、手がなかったから。もよは頑固だね。

 あのように人を受け付けないことはなかったのです。母にも妹にも優しかった。

 こたえたのではないかな、家族を捨てるのかと言われた時には。実際その通りなのだが、と兵助は言う。

 もよはわがままではなかった、唯一このことだけです、と勘助は切りをつけるように言った。


 もよはきれいさっぱり捨て去ってしまった。世捨て人、それが望みなのだと理解するしかない。

 一息ついたせいか、元気が出てきた。さあ、戻ろう、と勘助を励ました。


 もよを支えているものは何だろう。

 人の営みのなかに悪の芽がある。それに気づいて芽を摘もうとする人は、もよのように自ら否定する人だ。できることといえば見守って全てが悪にならないように、気をつけていることだ。

 我々ができることと言えば、悪と折り合うことだ。完全な善は人に属さない、仏の領域だ。それは理想であり、浄土は死のなかにある。死んだ人を仏と言う。生きたまま仏になることを悟りというのだろうか。

 劣っているという意識は自分を貶め閉ざしてしまう。罪の意識に似ているかもしれない。その意識はまず親によって刷り込まれる。子が萎縮する構図だ。

反対に自己増殖する傲慢さがある。尊大さは劣等感の裏返しなのだ。

 それが制度によって固定化される。出自への欲求はそこに由来するのだろう。根拠のない優越感。どちらも無知と葛藤が自分を見誤らせる。


 もよが抱えていた不安もそこにあった。漠然とした将来への不安といっていいのだろうか、破滅へ向かって転がり落ちてゆくような不安。もっと現実的な生活への不安なのかもしれない。根拠があるとすれば、存在することによって生じる不安といっていい。生きてあることの不安。反対に、死んでしまえばなくなる不安ともいえる。終りのない裁きが続く。自分で自分を裁く限りのない審判だ。

 離縁状は再婚許可証になる。

 自分のではなく勘助のためにだ。弱さ故の優しさ、これはまた一つの復讐でもある。たぶん自分自身に対しての。

 やりきれない哀しさだ。



 次の日も晴れ、明日まで雨が落ちなければ作業が楽になる。

 一日の農作業。考えなくても体が動く。

 その次の日はなんとかもった。午後から雲行きが怪しくなり夜に入って降りだした。そのまま雨は降り続いた。

 喜八と長左衛門が訪ねてきたのは、雨になった二日目だった。座敷に上がって先日の礼を言った。

 兵助は、あまり役に立たなかったが、と言って質屋のことを説明した。要するに、書入れなのですぐに権利を取られることはない。しかし金利が払えなければ名義が代わる事になる。質屋にとって金利も小作料も同じなのでどちらでもいいらしい。


 もう無くなったものと考えればいいのですね。働いて買い戻す道があるのだと、そう長左衛門は言った。月が変わったら前の所に戻ります。番頭さんも快く応じてくれました。

 それは良かった。元気に働いておくれ。喜八さんに後は任していくがいい。


 できるだけの事はすると言いました。こっちは小作のつもりでやればいい。あとは収穫次第だ。有難うございました。今後ともよろしくお願いします、と喜八は言って二人は帰っていった。


 雨が降ったせいなのだろう、勘助も先日の礼だといってやってきた。

 少し生気が戻っている。

 だいぶ落着いて、残った四人で力を合わしていこうと話し合いました、と報告した。

 さっきも言ったなと思いながら兵助は、それは良かった、と繰り返した。




 

 

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