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序章




  序章



 相州高座郡深見村は江戸から十余里離れている。一日で江戸の風聞は伝わるが、徒歩で往復はできないといった距離だった。青山へ出る大山道が近道で、東海道に出るには戸塚で三里、藤沢までで四里はあり、年貢などの大きな荷は西へ一里ほど出て相模川の支流に小船を浮かべ本流を平塚まで下った。江戸で商品になる特産物もなく緩やかに発展してきた村だった。


 高尾山の南麓に発した川は東南の方向に進み、武蔵と相模の国を分け、村の北隣の下鶴間村から南流する。ちょうどその辺りで勾配も緩み、うねりながら比較的穏やかな流れとなって進む。と、いっても瀬はまだまだ早く、浅くて舟は通れないがそのまま片瀬川となって江ノ島近くの海に流れ込む。雨が続けば暴れ、一面の土砂を押し流し、よく流域を水没させたが普段は三、四間ばかりの清流だった。

 もともとその川が削ったわずかな崖の下の平地で米を作るしかなく、多くは上の台地を畑にした。その間を挟み道と集落、その裏の林というのが境川流域のどこでも見られる風景だった。


 村には五つの集落(小名)がある。北から関、島津、久保、入村、宮下だ。かなり独立していて部落はいくつかの氏族で構成される。三、四の先祖がいてその子孫が住みつき分家することによって広がっているのだ。それを文字通り地分け、地類という。共通の講や檀那寺を持つことが多い。それよりも地分け「つきあい」は婚礼葬式の相互扶助によく表れている。婚姻関係のつきあいは二、三代でなくなってしまうが、地分けは永代続くと考えられていて、軽重はあるとしても地類は大きな家族のような共同性をもつものと意識されている。


 また村には十三姓といわれる苗字を持った最初の開拓者がいたという。確かに公称はしないが、農民の大部分は苗字を持っていた。禁止される前から持っていたからだ。古い系譜は残されなかった。墓石や、戒名などが残されるようになったのは、徳川の施政からだった。安定した村の生活が始まったともいえる。寺請け制が始まることによって死亡年や俗名、享年まで記載された過去帳が残ることになる。だから先祖の初代はどこでもその年代に落着く。それまでの記録がないからだった。

 ただどこかで血脈に繋がるかも知れない供養碑がある、鎌倉時代の終りから室町時代の日付を持って刻まれた板碑だ。在地で土を耕し、事があれば武器を取って戦に駆けつけたのだろう。武士と農民の境はそれほど離れていたわけではなかった。



 かつて大田道灌は瀬谷・深見の山田伊賀守経光討伐に向かったといわれる。

 深見神社に参詣して武運長久を祈願し、島津と関の中間、境川の断崖上に進んだ。ここは四万坂と呼ばれ寂しい天然の要塞だった。隊列で進行できない隘路であり東側の川に面しても、西方の山に面しても絶壁であった。

 そしてここが合戦の場になり山田勢は敗北したと伝わるが、その坂を越えた台地上に十数所帯が深い林を背に里道沿いに並んでいる。

 ひときは広い屋敷が仙吉の家だった。

 仙吉は度々祖父から聞かされたことがあった。自分の生きる理由についてだった。それは彼を落ち着かせたし納得して迷うことがなかった。一言で言えば、家の身上を減らすことなく精を出し、努めて次代に繋げていくということだった。彼の考えの基本はそこにあって、それからすべてが派生していた。彼は勤勉だったし、質素で考え深かった。目先の利に惑わされなかったし道理を大切にしていた。


 彼が幼いとき屋敷に強盗が入った。結果的に家人に傷ついたものはなく、流れ者の押し込みで手際もよかった。ただその恐怖が暴力について考えることを繰り返し彼に押し付けた。考えることによって恐怖を押し止めようとしているようだった。死やけがを恐れたわけではなかったから彼は恐れという感情について考えていたのだった。

 賊は二人で刃物を突きつけ、一人が彼や家人を見張り、父だけを引き立て、金子や衣類を奪うとすばやく屋敷を去った。父は恐怖よりも暴力に屈する憤怒と、それを防げなかった自分に後悔を持ったはずだった。圧倒的な暴力が存在することこそが畏れの始まりだった。暴力を持ってたち現れる者にどう向かったらよいのだろうか。



 その年は、仙吉が名主になった年だが、春から夏になっても霧雨が続き日が照らなかった。七月、大地震があり村では家屋が倒壊し、崖が崩れ、余震が収まらない。幸い仙吉のところは被害は少なかったが、そのあと疫病が流行り母と末の妹があっけなく亡くなり、父は十五年勤めた村役を退き隠居した。

 生きる気力を失ったのかもしれない。仙吉は村役を引き継いだ。

 九月には暴風雨に襲われ田方は殆どやられ、穀物の価格が上がり貧窮していった。このころ本百姓は蓄積があり、二、三年の不作にも耐えられる体力があった。しかし以後、災害は五年続いた。

 仙吉は領主に掛け合い、生活維持の困難な農民に食料購入の代金、六両を拝借した。二十六家族、計九十六人に対する扶助だった。一人あたり銀三匁七分五厘、大麦に換算すると五升二合を手にしたことになる。これで何とか夏の麦の収穫まで食いつなげることになった。

 その前一月、食料不足に悩む小作人二十家に地持ちで質屋の徳兵衛は、大麦一斗ずつを収穫次第の返済を条件に無心をされた。徳兵衛はこれに応じ、粟八升を余分に付けた。これを聞いて何とか俺たちも、と百姓たちが仙吉に頼み込んだわけだった。村の半数が日々の食料に事欠くようになっていた。ただ救いがあるとすれば秋の収穫は全滅であったが、畑の夏作物がまずまず収穫できたことだったろう。

 


 その後何年経っていたのだろうか、仙吉が五十になった正月の二十八日七つ過ぎ、雨は降り続いていた。

 迎いに出た弥助を後にして仙吉は帰路を辿っていた。四万坂まで数丁で、右手は田地、左手は林でちょうど人家が絶えた所だった。

 雨粒が音を立て傘を叩き、辺りを煙らしていた。

 仙吉は急いでいた。

 と言うより心が急いていた。怒りに席を立って出て来たのではないが、それに似た気持ちだった。片がついたはずなのに安堵した気にはならなかった。当然のことをしているのに、非難がましい目で見られる筋合いではないと憤っていた。


 「わああ」

 驚いたような叫び声が聞こえた。


 肩越しに振り返ると弥助が口をあけて走って行った。傘は放られ、あとは声にならない叫びを上げている。その後ろに男がまさに脇差を振りかぶろうとしていた。

 それを避けようと逃げ出しかけた時、仙吉は左のわき腹を刺された。

 振り向くと槍が腰に刺さっていた。それでも闇雲に逃げようとしたが、蓑をつけた男に傘の上から切りつけられた。顔から肩に抜けた刃は翻って腹を裂いた。

 さらに胸を槍で突かれ、堪らず腰をついた。


 「覚悟」

 と、叫んで男は首を刺し、喉を突いた。

 仙吉は果てた。

 ただ、すぐ死んだわけではない。段々失っていく意識の中で、これから死んでいくのだとぼんやり思っていた。



 玄運が呼ばれて駆けつけたとき仙吉は路傍の枯葉の上に横たわっていた。まだ脈は薄くあったが刃物による傷は多く深くて出血がひどく一目で助からないと思われた。気付け薬を含ませ様子を見たが意識は戻らず、止血の布を巻いて戸板で仙吉の家に運ばせた。そのあと内薬湯を呑ませ更に様子を見たが苦しむこともなく亡くなった。家族の悲嘆は激しく、とり付いて泣き伏していた。

 居たたまれなくその場を跡にしたかったが、玄運にはまだ仕事が残っていた。遺体の見分を残して置かねばならなかったのだ。血を拭い衣服を整えさしてから立会人以外の人払いをして始めた。

 致命傷は首周りの突き傷と思われた。一寸一分の傷が二ヵ所深く抉られている。五寸に及ぶ顔の傷を含め切り傷六ヵ所、突き傷十数ヵ所、執拗に刃傷を繰り返している。単なる物取りとは思えず、怨恨による殺傷と推察できた。


 すべてを書き記すと玄運は屋敷をあとにした。

 雨は上がり、とっぷり更けた闇が重く沈んでいた。その中を松明を掲げ走る者や、遠くに多くの灯りがが右往左往し、そちらからは呼び合う声が聞こえていた。めったにない殺害事件に村全体が実際揺れているように玄雲には感じられた。




「村役人と小歩き」を全面改稿して決定版を目指します。

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