第8話 帝都の宴、あるいは毒薬の軍師
帝都グラナダ。
ガリア帝国の心臓部であり、五大国最大の経済圏を誇るこの都市は、黄金の屋根が連なり、夜になっても魔導灯の光が途絶えることはない「不夜城」である。
だが、その輝かしい街並みの裏側には、数百年の歳月をかけて蓄積された、どろりとした権力の腐臭が漂っていた。
俺――レイン・バートレットは、グレンダル侯爵が用意した黒塗りの馬車に揺られ、その中心部へと向かっていた。
車窓から流れる景色は、かつての佐藤が前世で見た新宿や渋谷の夜景とは決定的に違う。そこにあるのは文明の調和ではなく、弱者から搾り取った富を、一握りの特権階級が誇示するための、歪な虚飾の光だ。
「……ふん。平民上がりの田舎貴族が、随分と神妙な面持ちだな」
馬車の向かい側に座るグレンダル侯爵が、鼻で笑った。
彼はすでに俺を「便利な道具」として所有したつもりでいる。その傲慢さは、彼が纏う高価な香水の匂いよりも鼻についた。
「侯爵。……帝都の光は、少しばかり眩しすぎるようです。私の故郷(バートレット領)の星空の方が、よほど視界がクリアでしたよ」
「ははは! 田舎者の感性だな。だが安心しろ。今夜の晩餐会が終わる頃には、君は星など見上げる必要はなくなる。君自身が、帝国の軍事を変える『魔導の太陽』として祀り上げられるのだからな」
侯爵の言う「晩餐会」とは、皇帝の認可を得る前に、有力貴族たちへ新型兵器――『魔導連発弩』を披露し、既成事実を作るためのデモンストレーションの場だ。
俺という「利権」を誰が握るのか。そのオークションの会場とも言える。
――記憶残存率:九十八・六パーセント。
脳内のカウンターが、チリりと焼けるような感覚を伴って動いた。
消えたのは、前世での「実家の電話番号」。もう二度とかけることのない、意味を失った十数桁の数字。
代わりに俺の脳を満たすのは、帝都の全域を網羅した詳細な地図と、主要な貴族たちの血縁関係、そして彼らの「不祥事」のリストだ。ゼノが「餞別」として渡してくれた帝国の裏帳簿の内容が、OSのシステムファイルのように俺の記憶領域へ書き込まれていく。
(……準備は整った。ここからは、魔法ではなく『情報』による戦争だ)
会場となる侯爵邸の広間には、正視に耐えないほどの華美な衣装を纏った男女が溢れていた。
俺が会場に現れると、波が引くように視線が集まる。
魔力量十。その圧倒的な「弱さ」を、彼らの魔力探査が一瞬で嗅ぎ取ったのだ。
「あれか? ゼノ卿が推しているという、バートレット家の落ちこぼれは」
「貧相な身なりだな。あのようなガキが、騎士を凌駕する兵器を作ったなど、笑い話にもならん」
あちこちで冷笑が漏れる。特に、魔導騎士団を牛耳る武闘派貴族たちは、俺の存在そのものが自分たちの誇りへの侮辱であるかのように、隠そうともしない敵意を向けていた。
その最前列に、一人の男がいた。
ロイター公爵――ハンスの父であり、帝国の武門の頂点に立つ男。
彼は筋骨隆々とした体躯を不気味なほど静かに保ち、俺を射抜くような鋭い眼差しで見つめた。
「グレンダル侯。……茶番はもう良い。そのガキが持っている『おもちゃ』を見せてもらおうか。我がロイター家の騎士一人が、一万の農民に遅れをとることは万に一つもない。それを今、証明させてやる」
公爵の合図で、一人の重装騎士が進み出た。
全身を魔導銀の鎧で包み、何重もの防御魔法を展開している。その魔力量は一千を超えていた。まさに移動する要塞だ。
「……レイン。やれ。君の価値を、この老害どもに叩きつけてやれ」
グレンダル侯爵が冷たく囁いた。
俺は一歩前に出た。手には、昨日までよりもさらに改良を加えた『魔導連発弩・改』。
「……ロイター公爵。その騎士に、今すぐ魔法障壁を最大出力にするよう命じてください。……でないと、彼の命が『一秒』で消えてしまいますから」
会場が凍りついた。
その後、爆発するような嘲笑が巻き起こる。
「一秒だと! 面白い。やれ、ガレン! そのガキの言葉がデタラメであることを、その身で示してやれ!」
重装騎士ガレンが、巨大な盾を構え、全身から青白い魔力の光を放出する。物理的・魔法的攻撃の九割をカットする、帝国最強の防御。
俺は、無機質な瞳で彼を見据えた。
俺の視界には、騎士の魔力の「流れ」が見えていた。ゼノの教えによって開花した、魔力の脆弱な結び目を特定する眼。
(……起動。遅延発動、識別番号一〇〇一から二〇〇〇:『周波数同調』)
俺はレバーを引いた。
放たれた矢は、前回のような音を立てなかった。
かわりに、高周波のうなりが空気を震わせる。
物理の法則:共振。
どれほど強固な装甲であっても、その物質固有の振動数に合わせたエネルギーを与えれば、構造は内側から崩壊する。俺はこの世界の魔法障壁が持つ特定の魔力振動を解析し、矢の先端に刻まれた術式を、その「アンチ周波数」に固定していた。
パリンッ。
まるで、薄いガラスをハンマーで叩いたような音が響いた。
次の瞬間、無敵を誇ったはずの魔導障壁が、霧のように霧散した。
そして矢は、そのまま騎士の鎧の継ぎ目――左胸の、心臓からわずか三センチ外れた部分を、正確に貫通した。
「……あ、あ、あああああッ!?」
騎士ガレンが、信じられないというように胸の矢を見つめ、膝から崩れ落ちた。
会場を支配したのは、先ほどまでの嘲笑とは正反対の、死のような沈黙だった。
「……今、何をした……」
ロイター公爵の声が、怒りよりも先に「恐怖」で震えていた。
「今のは、貫通魔法などではない……。なぜ、ガレンの障壁が消失したのだ!」
「消失させたのではありません。……あなたの騎士が展開していた魔力の波形に、真逆の波形をぶつけて『相殺』しただけです。……現代知識――いえ、私の故郷に伝わる『論理』の前では、魔力量の多寡など、ただのノイズに過ぎません」
俺はゆっくりと、弩を下ろした。
「公爵。……この武器が普及すれば、数年かけて修行したあなたの騎士たちは、数時間の教育を受けた農民に、遠距離から一方的に殺されるようになります。……これが、あなたが直視すべき『未来』です」
グレンダル侯爵が、狂おしげに拍手を送った。
「ははは! 見たか! これがレイン・バートレットだ! 皇帝陛下、ご覧になっておりましたか!」
広間の奥。重厚なカーテンが開き、一人の老人が現れた。
ガリア帝国皇帝、フリードリヒ三世。
帝国を支配する絶対者が、その老いた眼で、俺という異物をじっと見つめていた。
「……レイン・バートレットよ。其方の力、しかと見届けた。……其方は、帝国の盾となるか、それとも帝国を焼く炎となるか」
「……私は、ただの道具です、陛下」
俺は最敬礼をしながら、心中で冷酷に笑った。
「使う者が賢明であれば盾となり、愚かであれば炎となる。……それだけのことです」
――記憶残存率:九十八・四パーセント。
消えたのは、前世での「高校の友人の名前」。
親しかったはずの顔が、霧の向こう側へと消えていく。
だが、俺に痛みはなかった。
皇帝の信頼、侯爵の野心、公爵の恐怖。
それらすべてを「システムのリソース」として掌握した俺にとって、失われた過去など、単なるディスク容量の整理に過ぎなかったからだ。
その夜。晩餐会の喧騒を離れ、俺は邸宅のテラスで冷たい風に吹かれていた。
手に持ったワイングラスには、帝都の虚飾の光が反射している。
「……毒を撒き散らした気分はどうだい? レインくん」
背後にいたのは、ゼノだった。
彼は晩餐会には出席せず、影のように俺の行動を監視していた。
「先生。……これで、帝国の上層部は分裂します。グレンダル侯爵による独占を嫌う他家が、必ず私の『設計図』を盗もうとするでしょう。……そして、兵器の普及と共に、階級社会の基盤が揺らぐ」
「そうだ。……そして君は、その争いの中心で、誰よりも孤独に、誰よりも高く成り上がる。……君が失った記憶の穴を、他人の流す血で埋めていくのは、どんな気分かな?」
ゼノは俺の頬を冷たい手でなぞり、耳元で囁いた。
「……ねえ、レイン。君はまだ覚えているかい? ……ルナという少女が、君に渡そうとしていた『お守り』のことを」
「……お守り?」
俺の思考が、一瞬だけフリーズした。
ルナ。学園に残した、あの銀色の髪の少女。
彼女が、俺が帝都に発つ直前、何かを俺に握らせようとしていたような気がする。
だが、その中身が何だったか、どんな言葉を添えていたのか。
今の俺の「インデックス」には、そのデータが見当たらない。
「……覚えていません。……不必要な情報として、削除されたのでしょう」
「ははは! 傑作だ! 君はついに、自分を愛してくれた者の心さえ、リソースとして使い果たしたんだね!」
ゼノの笑い声が、帝都の夜に響き渡る。
俺はグラスの中の赤い液体を見つめた。
それは、これから俺が帝都で流させるであろう、数万、数十万の人間の血の色に見えた。
九十八・三パーセント。
また一つ、何かが消えた。
消えたのは、前世で「恋」をしていた時の、あの胸を締め付けるような切なさの感覚。
俺は、ただ無言でワインを飲み干した。
心は、どこまでも澄み渡り、そして空っぽだった。




