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刻印の徒  作者: 生クリーム王子
第1章『忘却のゆりかご、軍師の産声』

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第4話 淘汰の教室

白亜の校門をくぐり、晴れて帝国士官学校の生徒となったその夜。俺は祝杯を挙げる間もなく、底知れぬ深淵へと引きずり込まれていた。

 

 学園の時計塔、その最下層にある、地図に載らない地下演習場。

 そこは、カビと鉄錆、そして古びた血の匂いが混ざり合った、生理的な嫌悪感を呼び起こす場所だった。天井からは冷たい水滴が滴り、松明の火が不規則に揺れ、壁に映る影を怪物のように歪ませている。

「……おはよう、レインくん。昨日の合格祝い、楽しめたかな?」

 暗闇の中から、ゼノの声が響いた。

 俺は自分の肩を抱き、肺が焼け付くような冷気に耐えていた。転送門をくぐらされた直後、平衡感覚が断絶し、気づけばこの地下迷宮にいたのだ。

「ゼノ先生。……これが、あなたの言う『個人講義』ですか?」

「講義? いや、これは『選別』だよ」

 ゼノは暗闇の中から音もなく現れた。その手には、まるで果物でも剥くかのような気軽さで、一振りの真剣が握られている。

「君の魔力量十という数字は、この世界の生物としては『欠陥品』だ。欠陥品が生き残るためには、人としての情を捨てるか、あるいは世界の理を書き換えるしかない。君にはそのどちらができるかな?」

 ゼノが指を鳴らすと、迷宮の奥から「ギチギチ」という、硬い殻が擦れ合うような音が響いてきた。

「今日の講義はシンプルだ。明日の朝までに、ここを抜けて地上に戻っておいで。……ああ、言い忘れていたけれど、ここには私の『失敗作』たちが放し飼いになっている。彼らは空腹でね。君の薄い魔力でも、骨の髄までしゃぶるには十分だろう」

 ゼノの姿が霧のように消える。直後、闇の中から三メートルを超える巨躯を持つ、多脚の魔獣――『殻蜘蛛シェル・スパイダー』が、鎌のような脚を鳴らして姿を現した。

(来る……!)

 魔獣が、石畳を削るような速度で突進してくる。

 俺の魔力では、通常の方法で攻撃魔法を放ってもその強固な外殻に傷一つつけられない。まともにぶつかれば、一瞬で肉塊に変えられる。

 だが、俺の手には一振りの短剣と、数種類の香料がある。昨晩、ゼノから「予習用」として渡された、不快な匂いのする瓶だ。

(……誘引剤だ。この魔獣の、好物の匂い。……ゼノ、あんたは最初から俺を『餌』にするつもりだったんだな)

 俺は迷宮の角まで走り、背中を壁に預けた。

 魔獣が、血走った八つの眼を光らせて跳躍する。

 俺はその瞬間、前もって壁の隙間に仕掛けておいた【遅延発動】を解放した。

「起動。……術式:局部減圧エア・ボイド

 発動したのは、殺傷力皆無の「微風」。

 だが、その微風は、現代物理学における「流体素子」の原理を応用し、特定の狭い空間の空気を一気に吸い出すように設計されていた。

 魔獣の跳躍の軌道上で、急激な「気圧の差」が生じる。

 物理の法則。急激な減圧は、生物の平衡感覚を司る器官を狂わせ、薄い組織を破裂させる。

 魔獣は空中で体勢を崩し、その巨体を壁の「鋭い突起」へと自ら叩きつけた。

「ギ、ギャアアア……ッ!」

 狂乱する魔獣。俺はその隙を見逃さず、短剣を魔獣の関節の隙間――唯一外殻が薄い、呼吸を司る気門へと突き立てた。

 ぬるりとした、不快な熱を持つ液体が俺の手を汚す。

 生きているものが、目の前で物言わぬ塊に変わっていく感触。

 前世の「佐藤」という男の倫理観が、脳の内で警鐘を鳴らす。「人を殺すな」「命を慈しめ」。そんな、平和な世界で培われた道徳が、今の俺の生存を妨げようとする。

(黙れ。……今の俺には、そんな贅沢な感情を維持するリソースはないんだ)

 俺は、痙攣する魔獣の死体から短剣を引き抜いた。

 その光景を、俺は「計算結果」として、無機質な瞳で眺めていた。

(……一匹目。次だ)

 迷宮を彷徨うこと、数時間。

 出口への近道と思われる通路で、俺は一つの「人影」を見つけた。

 それは、自分と同じようにゼノに連れてこられたはずの、別の受験生だった。昨日、俺を「農民のガキ」と笑っていた、ハンスの取り巻きの少年だ。

 だが、その少年はもう動かなかった。

 下半身を魔獣に食い荒らされ、内臓が地面にぶちまけられている。壁には、彼が最期に放ったであろう魔法の跡が、虚しく焦げ付いていた。

「……あ」

 俺の足が止まる。

 これが、この世界の現実。

 昨日まで隣で笑い、罵り、生きていた人間が、今日はただの肉塊として、暗闇の中で冷えていく。

 佐藤としての俺が、激しい吐き気を催す。膝が震え、その場に蹲りそうになった。

「悲しいかい、レインくん?」

 暗闇から、ゼノの声がした。

「……いや。……ただ、無駄だと思っただけです」

 俺は、震える声を押し殺して答えた。

「この少年の魔力量なら、正しく運用すれば、この程度の魔獣相手に生き残れたはずだ。彼は、自分の資産(魔力)の使い方を間違えた。……だから、死んだ」

「ははは! 素晴らしい。君は本物だね、レインくん」

 ゼノは闇の中から現れ、死体など存在しないかのように、俺の肩を叩いた。

「君は今、死を『感情』ではなく『損失』として計算した。……君の脳が、この世界の毒に馴染んできた証拠だ。一般人の脆い心を、軍師としての冷徹な論理が上書きし始めたんだよ。……おめでとう。君は今、本当の意味で『人間』を卒業した」

 ゼノの笑い声が、迷宮に反響する。

 俺は、自分の指先が微かに震えているのを知っていた。だが、それは恐怖ではなく、この異常な状況にさえ「適応」し、最適解を導き出そうとしている自分自身への戦慄だった。

 ――脳の奥で、薄氷が割れるような音がした。

(……消えた?)

 今、何かが零れ落ちた。

 必死に記憶の棚を探る。佐藤としての仕事の知識、物理の公式、それらはまだ、そこにある。

 だが――。

 高校の卒業式の放課後、教室の窓から見えた夕暮れの色が、どうしても思い出せない。

 あの日、誰を想い、どんな未来を夢見ていたか。

 その「情緒」の核心だけが、今、目の前の少年の死顔と引き換えに、永遠に失われた。

 ――記憶残存率:九十九・四パーセント。

 俺は、煤けた壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 九十九・四。まだ大丈夫だ。まだ、俺は「俺」でいられる。

 だが、この数値が下がれば下がるほど、俺はより強力な「軍師」になり、より空虚な「怪物」になっていくのだろう。

 翌朝。

 俺は、返り血を浴びた服のまま、士官学校の中庭へと戻ってきた。

 地下の悪臭が嘘のような、穏やかな朝の光。

「レイン! ……レインなの!?」

 聞き覚えのある、切実な声。

 振り返ると、そこには銀色の髪を乱し、涙目で駆け寄ってくる少女――ルナの姿があった。

 彼女の背後には、金髪を短く刈り込んだアーサーが立っている。

「……生きてたか。一晩中戻らないから、ルナが心配して大変だったんだぞ」

 アーサーはぶっきらぼうに言いながらも、安堵したように俺の肩を掴んだ。

 だが、アーサーの表情が、一瞬で強張った。

「……おい、レイン。何だよ、その目は。……お前、昨日の夜、何をしてきたんだ?」

 アーサーの直感は、野生動物のように鋭かった。

 昨日までの俺は、どこか頼りなげな「一般人の少年」の目をしていた。

 だが、今の俺の瞳には、感情の機微を排除した、冷徹な「観測者」の光が宿っている。

「……悪い。少し、疲れているだけだ。……おはよう、ルナ。心配かけてごめん」

 俺は、自分でも驚くほど不自然に口角を上げた。

 その笑顔の裏で、脳内のカウンターが、ほんの僅かに、だが確実に動く。

 ルナが俺を抱きしめる温もり。

 アーサーの不器用な友情。

 それらを、いつか「ただの物理的な熱」や「効率的な変数」として切り捨てる日が来るのを予感しながら、俺は、ただ静かに微笑み続けた。

 軍師レインの、本当の誕生。

 それは、彼が「人間」であることを辞めるための、最初の階段だった。

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