第32話 翠の賢者
自由落下。
重力が内臓を押し上げ、意識が遠のくほどの加速度が三人を襲う。
ヴィクトルが引き起こした「全域真空化」により、鉄の筏は浮力を完全に喪失し、ただの重い鉄の塊となって地表へと引き寄せられていた。
「……レイン! このままじゃ、あと三十秒で地表に激突して……バラバラになっちゃうわよ!!」
ルナが絶叫する。風の音さえ聞こえない、空気のない世界。
だが、レインの瞳は驚くほど静かだった。彼は落下の風圧でたなびくコートを抑えようともせず、手に持った「銀の鍵」を複雑に操作し続けていた。
「……三十秒もいらない。……五秒あれば、空を書き換えるには十分だ」
レインは、鉄の筏の底部にある「熱核ラムジェット」の逆噴射ノズルを、手近な瓦礫で強引に固定した。
「……ヴィクトルは、空気を消した。……ならば、僕たちは空気を『創り出す』までだ。……ルナ、カトリーナ卿! 僕の両肩に捕まれ! ……今から、この空間のエントロピーを強制反転させる!!」
レインが叫んだ瞬間、筏の周囲に「白い霧」が発生した。
それは、レインが魔力で真空中に残留していた微細な分子を無理やり一箇所に凝縮させ、瞬間的に「高圧空気の塊」へと変質させたものだ。
「……断熱圧縮、開始! ……真空の壁を、逆に『壁』として利用する!!」
ドガァァァァァァン!!
何もなかったはずの空間で、大爆発が起きた。
真空中に生み出された高圧空気が、周囲の「無」を押し返そうとする反作用。
落下していた鉄の筏は、物理法則を無視して真上へと跳ね上がった。
それだけではない。爆発的な加速は、音の壁――マッハ一の領域を瞬時に突き抜けた。
――キィィィィィィィィン!!
衝撃波が円錐状に広がり、空中要塞『アズール・スカイ』の防壁を直撃する。
「……なっ!? 真空中での爆縮移動……!? バカな、そんなエネルギー計算、一瞬で終えられるはずがない!!」
展望デッキでヴィクトルが驚愕に片眼鏡を落とした。
彼の目の前、音速を超えたレインたちの鉄の筏が、要塞の真下から突き上がるように迫っていた。
「……ヴィクトル。君のミスは、空を『平面的』に捉えていたことだ。……空は、三次元の海じゃない。……四次元的な『圧力の歪み』なんだよ」
レインが筏から飛び出した。
彼はルナの魔法で強化された身体能力を使い、要塞の外壁を駆け上がる。
背後ではカトリーナが、重装甲から放たれる熱を推進力に変えて、弾丸のように追従していた。
「……迎え撃て! 『風の牙』を全門展開!! 奴を細切れにして地上へ撒き散らせ!!」
要塞の各所から、目に見えない「圧縮空気の刃」が数千本、レインに向けて射出される。
一発でも掠めれば、鋼鉄さえも紙のように切り裂かれる死の突風。
だが、レインは止まらない。
彼は手に持った銀の鍵を、楽器を奏でるように振るった。
「……流体力学、第零法則。……すべての流れは、低きから高きへ、そして僕の『指揮』へと従う。……カルマン渦、発生!!」
レインが空中に指で円を描くと、迫りくる風の刃たちが、レインの周囲で「渦」を巻き始めた。
刃と刃が互いにぶつかり合い、相殺され、心地よい風の音へと変わっていく。
レインは、その風の渦を足場に、要塞の頂上――ヴィクトルの待つデッキへと着地した。
「……ヴィクトル。……君の空は、窮屈すぎる。……もっと自由に、風を『信じて』あげればよかったのに」
「……黙れ! 記憶喪失の分際で、私に工学を説くな!! ……こうなれば、要塞の浮遊エンジンを暴走させ、周囲百キロメートルを真空の墓場にしてくれる!!」
ヴィクトルが狂気に満ちた顔で、制御コンソールに手を伸ばす。
だが、その手は届かなかった。
レインがすでに、要塞のメイン・ジャイロ(平衡器)に、一本の「細い針」を突き刺していたからだ。
「……ジャイロの回転数、一分間に十二万回転。……それを、十二万一回転に書き換えた。……たった一回転の『誤差』が、君の城の重心を……永遠に失わせる」
ガガガガガガガ……ッ!!
巨大な空中要塞が、不自然に傾き始めた。
精密な計算によって浮遊していた『アズール・スカイ』は、そのたった一回転の「不協和音」に耐えきれず、自らの回転力によって身悶えを始めた。
「……ああ、ああああ! 私の、私の美しい計算が……崩れていく……!!」
ヴィクトルは、傾く床にしがみつきながら絶叫した。
要塞はゆっくりと、だが確実に、雲海の下へと降下を始める。
レインは、ヴィクトルの首元に銀の鍵を突きつけ、静かに告げた。
「……ヴィクトル。……君が僕から奪いたかったのは、数式じゃない。……空を飛ぶときの『恐怖』を、忘れたかっただけなんだろう? ……だからこんな高い場所に、偽物の神殿を作った。……もう、地上へ降りる時間だ」
空中要塞は、大きな音を立てて雲海の下へと沈んでいった。
幸いにも、そこにはサラキアとの戦いで凍りついた広大な砂漠が広がっており、墜落の衝撃は最小限に抑えられた。
地上。
雪が舞う砂漠の真ん中で、レインは砕け散った要塞の残骸を見つめていた。
「……レイン、大丈夫?」
「……ああ。……風の音が、少しだけ優しくなった気がする」
レインは、ヴィクトルの残した「翠の記録」を手に入れた。
そこには、空を征服しようとした男の、孤独な研究の成果が刻まれていた。
――現在の記憶残存率:十五・五パーセント。
レインの脳裏に、一つの巨大な「黒い塔」のイメージが浮かび上がる。
それは、失われた記憶の最奥にある、全工学の終着点。
旅は続く。
次なる舞台は、鉄と蒸気に包まれた、工業都市連邦。
そこには「材料工学」を極めた黒の賢者が、自律人形の軍勢と共に待っている。




