第31話 成層圏の静寂
砂漠の熱砂が、足元で凍りついたガラスの破片となって砕け散ったとき、レインの視線はすでに天を仰いでいた。
視線の先、高度一万メートル。そこには、太陽の光を浴びて白銀に輝く、巨大な「雲の城」が滞空している。北方飛空帝国の中枢にして、世界最強の航空拠点――空中要塞『アズール・スカイ』。
「……あんな高いところ、どうやって行くのよ。いくらレインでも、空を飛ぶ数式なんて、まだ思い出してないんでしょう?」
ルナが首を痛めるほど上を向き、絶望的な溜息をつく。彼女の魔法『慈しみ』は、植物や大地の恵みを糧とする。空気が希薄で、生命の気配すら途絶えた成層圏は、彼女にとっても死地に等しい。
「……飛ぶための数式は、もう僕の脳の中にはない。……けれど、世界には『持ち上げる力(揚力)』が満ちている。……ルナ、カトリーナ卿。……僕たちが空へ昇るための『翼』は、すでに手に入れているんだ」
レインが指差したのは、先ほど崩壊した『ヘリオス・ピラー』の残骸から回収した、巨大な断熱セラミックの破片と、サラキアの塔を支えていた重力制御石だった。
「……ベルヌーイの定理を、魔導的に強制拡張する。……カトリーナ卿、君の魔導重装甲の排熱ダクトを、このセラミック板に直結してくれ。……熱は、膨張を生み、膨張は、圧力の差を生む」
レインは砂漠に散らばる残骸を、魔法で強引に繋ぎ合わせ始めた。
それはかつての彼が設計した流麗な飛空艇とは程遠い、歪で、無骨な、剥き出しの「工学の塊」。だが、そこには計算され尽くした空気の流れを支配する溝が刻まれている。
「……急造の『熱核ラムジェット推進機』だ。……ルナ、君は機体周囲に『空気の壁』を維持してくれ。……気圧の急変から、僕たちの内臓を守るために」
「む、無理よ! あんな高さまでなんて……!」
「……信じてくれ。……君の魔法は、守るためにあるんだろう? ……僕が導く気流に乗れば、君の魔力消費は最小限で済む」
三人がその「鉄の筏」に飛び乗った瞬間、レインが起爆術式を発動させた。
ドォォォォォン!!
砂漠の砂を何百メートルも巻き上げ、鉄の筏は垂直に空へと突き刺さった。
重力という名の鎖を力技で引き千切り、三人は一瞬にして雲を突き抜ける。
視界が開け、眼下には丸みを帯びた地平線が広がり、頭上には宇宙の深淵を予感させる黒ずんだ青が広がっていた。
「……っ、息が……!」
カトリーナが苦悶の声を上げるが、即座にレインが彼女の喉元に手を当て、肺の中の気圧を魔導的に固定する。
「……慣れるまで動かないでくれ。……ここは、人間が立ち入っていい場所じゃない。……だが、だからこそ『翠の賢者』はここに城を築いた。……誰にも邪魔されず、世界を俯瞰し、風の刃で地上を間引くために」
前方に、巨大な影が現れた。
空中要塞『アズール・スカイ』。
それは、数千枚の「回転する刃」によって浮力を得ている、鋼鉄のクラゲのような怪物だった。その表面からは、絶えず高圧の空気弾が射出され、近づくすべての飛鳥を粉砕している。
「……ターゲット確認。……翠の賢者ヴィクトル。……航空力学の天才であり、かつて僕に『音速を超えるための数式』を乞うた男だ」
アズール・スカイの展望デッキに、一人の男が立っていた。
グリーンの軍服を完璧に着こなし、片眼鏡を光らせる優雅な青年。
「……おや。……サラキアの熱光線を潜り抜け、ゴミの山に乗ってここまで昇ってくるとは。……相変わらず、君の作るものは美しさに欠けるね、レイン・バートレット」
ヴィクトルの声が、真空に近い希薄な空気を伝わり、レインの脳内に直接響く。
「……ヴィクトル。……美しさで空は飛べない。……空を飛ぶのは、いつだって『不条理なまでの暴力(推力)』だ。……君のその優雅な城も、僕がこのまま……地面へ叩き落としてあげるよ」
「……ははは! 面白い! 記憶を失って、少しは野蛮になったかな? ……いいだろう、成層圏の王者が誰であるか、その身に刻んであげよう。……全軍、迎撃。……『真空の断頭台』、発動せよ!!」
空中要塞の周囲の空気が、一瞬にして消失した。
レインたちの乗る筏を、巨大な「負の圧力」が襲う。
揚力を失い、鉄の筏が真っ逆さまに自由落下を始めた。
高度一万メートルからの墜落。
死の加速度の中で、レインは瞳を閉じ、逆巻く風の「声」を聴き始めた。




