第3話 帝国騎士学校の門
八年という歳月は、人の姿を変えるには十分な時間だった。
十五歳。ガリア帝国の北東端、バートレット領のひなびた風景は、今や俺の背後にある。
目の前に聳え立つのは、帝国の権威そのものを石に彫り出したかのような白亜の巨塔――ガリア帝国士官学校の校門だった。
「……ついに、ここまで来たな」
隣で呟いたのは、幼馴染のアーサーだ。かつての鼻垂れ小僧は、今やガリア軍の重装歩兵を彷彿とさせる精悍な少年へと成長していた。その腰には、分家から贈られた一振りの長剣が誇らしげに揺れている。
「レイン、顔色が悪いぞ。やっぱり昨日の夜、無茶をしたんじゃないか?」
「……少し、準備に時間がかかっただけだ。問題ない」
俺は眠気を払うように首を振った。
アーサーの言う通りだ。俺はこの一晩、学園に隣接する「円形闘技場」に忍び込み、ある『計算』を完了させていた。魔力量十という俺の脆弱なスペックで、この学園に集う化け物どもと対等以上に渡り合うためには、戦場そのものを「自分の臓腑」に変える必要があったのだ。
「次。受験番号四〇二番、レイン・バートレット」
教官の事務的な声が広場に響く。
俺が歩み出ると、周囲の受験生たちから失笑と、隠そうともしない侮蔑の視線が突き刺さった。
「見ろよ、あれが噂の『十』だ」
「バートレットの名も地に堕ちたものだな。あんな貧相な魔力で、騎士の門を叩こうとは」
彼らが纏うのは、最新の魔導触媒を用いた豪華な装束。対する俺は、父が遺した古い旅装に、使い古した木刀一本。
だが、俺の視界には彼らとは別のものが見えていた。
――記憶残存率:九十九・七パーセント。
脳内のカウンターが微かに揺れる。
消えたのは、前世の「中学校の校歌」の三番の歌詞。そして、昔飼っていたハムスターの名前。
情緒的な繋がりが一つ、また一つと解けていく。だが、その喪失と引き換えに、俺の思考はより冷徹な「演算機」へと研ぎ澄まされていた。
試験会場、円形闘技場。
観客席には、入試の結果を見定めようと、現役の騎士団長や教官たちが並んでいる。
対面に立つのは、黄金の刺繍が施された深紅の外套を翻す少年、ハンス・フォン・ロイター。
ロイター公爵家の三男。魔力量、八百。炎属性の適性は最高ランク。
まさに、この世界の「正解」を体現したような存在だ。
「……汚らわしい」
ハンスは俺を視界に入れることさえ苦痛であるかのように、眉間に深い皺を刻んだ。
「お前のような寄生虫が、我ら高貴なる騎士の苗床に混じるなど、神に対する冒涜だ。一撃だ。一撃で、お前の無価値な人生ごと焼き尽くしてやろう。感謝しろ、塵として消えるのがせめてもの救いだ」
「ロイター卿。……その『一撃』が、もし自分自身を貫くことになったら、どんな顔をされるのか、少し興味があります」
「……死ね。低能が!」
審判の合図と同時に、闘技場内の酸素が急激に消費された。
ハンスの手のひらに収束するのは、中級攻撃魔法――【紅蓮の咆哮】。
爆発的な熱量が圧縮され、目を開けていられないほどの光を放つ。
「焼き切れッ!!」
放たれた巨大な火球が、空気を金切り声のような音で切り裂き、俺の心臓目がけて突進してくる。
物理的な質量さえ持ったかのような炎の暴力。
観客席から悲鳴が上がる。誰もが、俺の無惨な最期を確信した瞬間。
(――起動。遅延発動、識別番号一〇一から五〇〇:『ベクトル偏向』)
俺は一歩も動かず、ただ指先を小さく動かした。
昨晩、闘技場の地面に埋め込んだ数千の【微風】が、一斉に目覚める。
火球が俺の眼前に到達した瞬間、俺の周囲の気圧が急激に低下した。
流体力学の基礎――流体は圧力の高い方から低い方へ流れる。
直撃するはずだった炎は、見えない壁に弾かれたかのように俺の身体を迂回し、背後の石壁へと激突。凄まじい轟音と共に壁が粉砕される。
「……なっ!? 避けた……だと!?」
驚愕に目を見開くハンス。だが、俺はまだ「指」すら下ろしていない。
「次です。……遅延発動、識別番号五〇一から三〇〇〇:『粉塵攪拌』」
闘技場の砂床から、不自然な黒い煙が立ち昇った。
それはただの砂ではない。俺が自室で密かに調合し、魔法の刻印を施して「極小の粒度」にまで精製した炭素粉末だ。
ハンスの火炎による熱対流が、その粉末を闘劇場全体へと一気に拡散させる。
「どこだ! どこへ消えた、卑怯者め!」
視界を奪われたハンスは、焦燥からさらに出力を上げた炎を四方八方に乱射した。
愚かな。
戦場を支配しているのが自分だと思い込んでいる彼には、この黒い霧が何を意味するのか、理解する術もなかった。
「ハンス様。……前世の知識に、こんな言葉があります。……『現象を制する者が、神すらも屠る』」
「何を、ブツブツと……! 死ねと言っているんだッ!!」
ハンスが最大火力の爆炎を放った、その瞬間。
(――最終工程。……『全刻印解除』)
闘技場という巨大な「閉鎖空間」に充満した粉末。
そこに、ハンス自らが放った火炎が、理想的な引火源として飛び込んだ。
――ドォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!
鼓膜を破壊するほどの爆鳴。
闘技場そのものが内側から膨れ上がるような衝撃波。
粉塵爆発。
魔法の威力を遥かに超えた、純粋な物理現象の暴力が、ハンス・フォン・ロイターを真っ正面から飲み込んだ。
爆煙がゆっくりと晴れていく。
闘技場の中央、煤だらけの地面に這いつくばっているのは、先ほどまで誇り高き騎士の顔をしていた少年だった。その豪華な魔装は無残に引き裂かれ、意識を失ったハンスの指先が、ぴくりと震える。
対して、俺は爆発の「死角」に立ち、煤一つ被ることなくそこにいた。
「……何が、起きた」
観客席の誰かが、震える声で零した。
「魔法じゃない……あんな術式、見たことがない……」
沈黙が支配する闘技場に、乾いた拍手の音が響いた。
「……素晴らしい。実に、反吐が出るほど美しいよ、君」
最上段の影から、一人の男が立ち上がった。
漆黒の礼装。死者のように白い肌。そして、すべてを見透かすような銀色の瞳。
帝国の宮廷魔導師にして、世界最強の六人【六天星】の最年少――怪人ゼノ。
「魔法を単なる『着火剤』として使い、世界の理そのものを凶器に変えた。……レイン・バートレット。君の魂は、この世界には属していないようだね」
ゼノが音もなく俺の目の前に降り立ち、その冷たい指先で俺の顎を持ち上げた。
その瞬間、俺の脳裏に、かつてないほどの激痛が走った。
(……くっ、ああぁっ……!)
――記憶残存率:九十九・五パーセント。
消えた。
前世で、一番好きだった「曲」の旋律。
大切なはずの思い出が、ゼノの不敵な笑みと引き換えに、砂のように崩れ去っていく。
「私のクラスに来なさい。……君が何者で、何を捨ててその知恵を得たのか。私がじっくりと、解剖してあげよう」
それは、救いの手ではなかった。
底知れない奈落へと、俺を誘う悪魔の招待状。
だが、俺はゼノの瞳を見つめ返し、不敵に笑ってみせた。
「……ええ。存分に、見てください」
こうして、軍師レインと怪物ゼノ。
世界の運命を狂わせる「最悪の師弟」の歴史が、ここから動き始めた。




