第28話 共鳴の果て
黄金の光が収束したとき、中枢演算室『アトラース』に満ちていた、あの不快な重圧は完全に霧散していた。
水槽の中の人工脳は、活動を完全に停止したわけではない。ただ、それまでの一糸乱れぬ強制的な同期から解き放たれ、それぞれが「個」としての微弱な鼓動を刻む、本来の、そして安らかな眠りへと戻っていた。
「……あ、あ……あ……」
プラットフォームの中央で、エレノアは膝をつき、茫然と自分の手を見つめていた。
彼女を支えていた魔導外骨格は、レインが流し込んだ「ノイズ」の負荷に耐えきれず、各部の接合部から黒い煙を上げて沈黙している。彼女を飾っていた白銀のドレスも、その輝きを失い、ただの無機質な布へと成り下がっていた。
「……完璧、だったはずよ。……不確定要素をすべて排除し、最速の演算で、世界を最適解へと導く。……それが、ゼノ先生の望んだ『魔法の物理化』の完成形だったはずなのに……。……どうして、記憶さえ持たない不完全なあなたに……私の数式が否定されなければならないの……?」
エレノアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女自身もまた、その「完璧な管理」のために自らの感情を数式の下に埋め殺してきた、システムの犠牲者の一人だったのだ。
レインは、折れた音叉を捨て、ゆっくりとエレノアの元へと歩み寄った。
彼の右手は、無理な並列演算の負荷によって、爪先から血が滲み、激しく震えている。だが、その足取りは、記憶を失う前よりもずっと確かで、力強かった。
「……エレノア。……工学は、世界を『支配』するための道具じゃない。……不自由な現実を、少しだけ『自由』にするための杖だ。……君が作ったこのシステムは、確かに速かったかもしれない。けれど、そこには『未来』がなかった。……すべてが決まりきった計算通りに進む世界なんて、それは……止まっているのと同じなんだ」
「……止まっている……? 私が、世界を……殺していたというの……?」
「……ああ。……でも、まだ間に合う。……この街の人たちは、今、自分たちの意志で目覚めようとしている。……不器用で、間違いだらけで、計算通りにはいかない……けれど、最高に美しい『不協和音』を奏でながらね」
ネプチューンの街のあちこちから、驚きと困惑の声が上がり始めているのが、レインの「耳」には聞こえていた。
それまではシステムによって思考を最適化されていた市民たちが、突然「自分の意志」を取り戻し、家族の名を呼び、空を見上げ、明日何を食べるかを悩み始めている。
その混乱こそが、レインにとっては、何物にも代えがたい「生命の音楽」に聞こえた。
「……負けたわ。……レイン。……あなたの勝ちよ。……けれど、忘れないで。……『七人の工学賢者』は、私だけじゃない。……私の敗北を知れば、他の五人は、さらに過激な手段であなたを……そしてこの世界を『調律』しようとするでしょう」
エレノアは、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべると、背後に残っていた唯一の無事な脱出カプセルへと体を預けた。
「……これを受け取りなさい。……私の持っていた『銀の鍵』よ。……それがあれば、各地にあるゼノ先生の隠し工房にアクセスできるわ。……記憶を失ったあなたが、これからこの狂った世界でどう戦うのか……地獄の底で見届けさせてもらうわよ。……さよなら、私の……愛おしいバグ(弟)」
カプセルが凄まじい速度で射出され、エレノアはネプチューンの深淵へと消えていった。
後を追おうとしたカトリーナを、レインが手で制した。
「……いいんだ、カトリーナ卿。……彼女との戦いは、ここでは終わらない。……でも、今は、この街を救うことが先決だ」
レインは、ルナに支えられながら、アトラースのコンソールに向かった。
彼は残された最後の魔力を振り絞り、都市ネプチューンの「自律航行モード」を起動させる。
これまでは五万人の脳によって支えられていた都市の浮遊機構を、自然な海流と風力を利用した「パッシブな安定化数式」へと書き換えていく。
「……よし。……これで、この街はもう、誰かの脳を必要としない。……海を彷徨う、自由な浮遊都市として生き残れるはずだ」
作業を終えたレインの体から、ついに力が抜けた。
彼はルナの肩に頭を預け、長い、長い溜息をついた。
「レイン……お疲れ様。……本当に、凄かった。……私、あなたのこと、ちょっとだけ……怖いって思ってたけど。……今のあなたは、世界で一番、優しい『魔導師』よ」
「……魔法使い、じゃない。……僕は……『工学者』だ、ルナ」
レインは、微かに笑って、そのまま深い眠りへと落ちていった。
海洋王国アクア・レギウス編、ここに完結。
しかし、それは世界を舞台にした戦乱の、ほんの序章に過ぎなかった。
レイン・バートレットの手元には、エレノアから託された「銀の鍵」と、再構成された「八・八パーセントの記憶」が残された。




