第26話 銀の賢者
中枢演算室『アトラース』を満たしているのは、数千もの人工脳が発する、かすかなバイオ・ノイズと、冷却用の海水が循環する重苦しい水音だけだった。
中央のプラットフォームに立つ銀の賢者、エレノア。彼女の纏う白銀のドレスは、周囲の魔力密度に反応して、オーロラのような不気味な輝きを放っている。
「……姉、だと……?」
レインは、激しい頭痛に耐えながら、少女の言葉を反芻した。
記憶の断片が、濁流のように脳内を駆け巡る。
幼い頃、共に数式を競い合い、魔法の真理を追い求めた日々。
だが、その記憶の隅にある「エレノア」という存在は、今の目の前の少女とは、決定的に何かが違っていた。
「……そうよ、レイン。私たちは同じ『揺り籠』から生まれた。……この世界の不完全な理を正すために、ゼノ先生によって作られた、双子の演算機。……けれど、あなたは『心』という名のバグを捨てきれず、不完全な人間としての道を選んだ」
エレノアが優雅に手を掲げると、周囲の水槽から無数の触手のようなケーブルが伸び、彼女の背後に巨大な「蜘蛛」のような魔導外骨格を形成していく。
「……見て、レイン。私が完成させたこの『ネプチューン・システム』を。……ここでは、誰一人として迷うことはない。数千の脳が、瞬時に最適解を導き出し、国民の幸福を計算し続ける。……これは、あなたが夢見ていた『完璧な世界』そのものでしょう?」
「……違う。……こんなものは、調和じゃない。……ただの、強制的な同調だ」
レインは、自分の指先が微かに震えているのに気づいた。
それは恐怖ではない。このシステムが奏でる、吐き気を催すほどに「完璧すぎる旋律」への拒絶反応。
一切の誤差を許さず、すべての変数を管理下に置こうとする、死よりも静かな絶望。
「……カトリーナ卿、ルナ。……下がっていてくれ。……ここから先は、僕たちの……工学の、内側の戦いだ」
「でもレイン、あなたはまだ記憶も体調も……!」
ルナの制止を振り切り、レインは一歩、また一歩とエレノアへ近づく。
彼の手には、いつの間にか一本の「金属の棒」が握られていた。それは潜入の途中で拾った、ただのスクラップの支柱。
だが、レインが触れるだけで、その錆びた棒は、超振動する「音叉」へと変貌を遂げていた。
「……面白いわね、レイン。記憶を失ってなお、その『調律』の技術だけは冴え渡っている。……けれど、私には通用しない。……なぜなら、私はあなたの『次の数式』を知っているから」
エレノアが指を弾くと、背後の外骨格から、超高密度の「水銀」の雨が放たれた。
ただの水銀ではない。一粒一粒が、エレノアの意識とリンクした極小の魔導ドローン。
それらは空中で複雑な軌道を描き、レインの回避先を完璧に予測し、逃げ場を塞いでいく。
「……熱力学、第二法則。……エントロピーの増大は、避けられない。……君のシステムは、完璧を維持するために、膨大な『排熱』を無視している」
レインは、迫りくる水銀の雨を、右手の音叉で「撫でる」ように弾いた。
カチ、カチ、カチ……という微かな接触音。
それだけで、絶対的な殺意を伴っていた水銀の粒が、レインの周囲で急激に「凍結」し、地面へと落下していく。
「……!? 水銀を凍らせた……!? 常温で、一瞬のうちに熱を奪ったというの!?」
「……奪ったんじゃない。……位置エネルギーに変換しただけだ」
レインの足元の床が、一瞬にして爆発的な力で跳ね上がった。
彼はその衝撃を利用して、重力を無視したような加速でエレノアの懐へと飛び込む。
「……計算済みよ。……物理的な接触は、私の『鏡像バリア』で反射される!」
エレノアの周囲に展開された、銀色の皮膜。
あらゆる衝撃、あらゆる魔力を、そのままのベクトルで相手に送り返す絶対防御。
だが、レインは音叉を突き立てる直前で、自らの魔力の波長を「ゼロ」にした。
「……!? 消えた……? 魔力反応が……!?」
「……反射は、対象が存在して初めて成立する。……無は、返せない」
音叉が、銀の皮膜を「すり抜ける」ように通過し、エレノアの胸元にあるメインプロセッサへと迫る。
――ガギィィィィィィィンッ!!
激しい金属音が演算室に響き渡った。
だが、音叉はエレノアに届く直前、見えない「手」によって受け止められていた。
それは、エレノア自身の力ではない。
演算室を支える数千の人工脳が、一斉に発した強力な「思念障壁」だった。
「……ふふ。……忘れたの、レイン? この街すべてが、私の身体なのよ。……あなたが私を倒そうとすれば、この街の数万人の『演算資源』が、盾となって立ちはだかる。……私を殺すことは、ネプチューンという都市を殺すこと。……あなたに、それができるかしら?」
エレノアの瞳に、初めて歪んだ悦びが宿る。
レインは、音叉を握り締めたまま、深淵のような絶望に立たされた。
数万人の命を救うために、目の前の宿敵を逃がすのか。
あるいは、世界を正すために、数万人の命を犠牲にするのか。
「……これが、君の言う『完璧な数式』か。……最低だな、エレノア」
レインの脳裏で、何かが「カチリ」と音を立てて繋がった。
失われた記憶の、最奥部。
自分がかつて、なぜ「工学魔法」を創り出したのか。
それは、誰かを支配するためでも、誰かを犠牲にするためでもなかった。
ただ、隣で笑うルナのような、非力な存在が、理不尽な運命に抗える「道具」を与えるためだった。
「……エレノア。……君の数式には、致命的なエラーがある。……『愛』という変数を、君は計算に入れていない」
「……愛? 笑わせないで。そんな不確かな、数値化できない概念に、何の意味があるというの?」
「……意味なら、今から僕が作る。……五万の脳を、同時に救い、かつ君のシステムを解体する。……不可能を可能にするのが、僕の……『工学』だ」
レインは、折れた音叉を高く掲げた。
彼の背後で、ルナとカトリーナが、迷うことなく魔力を捧げる。




