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刻印の徒  作者: 生クリーム王子
第2章『機神の不在、列強諸国の狂騒曲』

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第25話 水上の楼閣

エメラルド湾の惨劇から三日。帝国の西端に位置するその海域には、今や一隻の軍艦の姿もなかった。海洋王国の誇る『リヴァイアサン・零式』の消失は、瞬く間に列強諸国を震撼させ、その背後に「死んだはずの、あるいは無力化したはずの軍師」が関わっているという噂が、暗い波紋のように広がっていた。

 レイン、ルナ、カトリーナの三人は、自律型蒸気装甲車『アーク・ワン』を放棄し、中立国の商船を装った小型の魔導潜水艇で、海洋王国の王都ネプチューンへと向かっていた。

「……信じられない。あんな怪物を倒しておきながら、あなたはもう、次の数式を解くことしか考えていないのね」

 潜水艇の狭い船室内。ルナは、右腕に包帯を巻いたまま、机に向かって複雑な図面を引き続けるレインを呆れたように見つめていた。レインの右手には、あの「真空の弾丸」を放った際の凄まじい反動による火傷が残っていたが、本人は痛みすら忘れたかのようにペンを走らせている。

「……ルナ。エメラルド湾でヴォルフガングが使った術式は、未完成だった。彼は流体そのものを振動させたが、そのエネルギーの『逃げ場』を設計していなかった。……それが、僕の脳裏にこびりついて離れないんだ。あの不協和音の源流が、このネプチューンのどこかにある……そんな気がしてならない」

 レインが描いているのは、海洋王国の王都ネプチューンの構造図だ。ネプチューンは、巨大な浮遊石ふゆうせきを基盤とした六角形の人工島が連なる、世界最大級の水上都市。だが、レインの目には、それが単なる都市には見えていなかった。

「……これは、都市じゃない。……巨大な『増幅器』だ」

「増幅器……? 街全体が、魔法の道具だって言うの?」

 カトリーナが身を乗り出す。彼女は帝国軍人として、ネプチューンの堅牢な防壁については知っていたが、工学的な視点で語られるのは初めてだった。

「……ああ。浮遊石の配置、水路の角度、そして絶えず街を循環する海水の流量……すべてが特定の周波数を生み出すように精密に計算されている。……海洋王国は、国民の生活そのものを利用して、巨大な魔力溜まりを形成しているんだ。……そしてその頂点には、ヴォルフガングさえも凌駕する『真の指揮者』がいる」

 潜水艇の窓の外に、光り輝くネプチューンの全容が見えてきた。

 海面に浮かぶ巨大なハニカム構造の島々。中心部には高さ五百メートルを超える「水神のアクア・タワー」がそびえ立ち、周囲の海水を重力制御で吸い上げては、美しい滝として街に還元している。一見すると、魔法と工学が調和した理想郷。だが、レインには聞こえていた。その煌びやかな街の底から響く、絶え間ない「悲鳴」のような超低周波が。

「……潜入を開始する。……カトリーナ卿、君の持つ『隠蔽膜ステルス・マント』の分子配列を少しいじらせてもらった。……ネプチューンのセンサーは、魔力の『量』ではなく『波形』を検知する。……今のこのマントは、周囲の波の音と完全に同期している。……誰にも気づかれずに、街の心臓部へ辿り着く」

 三人は、夜のとばりに紛れ、ネプチューンの最下層――巨大な浮遊石の「裏側」にある整備用ドックへと音もなく降り立った。

 そこは、上層の華やかさとは対照的な、錆びた鋼鉄と油の臭いが漂う迷宮。無数のパイプが血管のように張り巡らされ、そこを流れる海水の振動が、レインの神経を逆なでする。

「……っ。……また、だ」

 レインが突然、こめかみを押さえてよろめいた。

 脳裏に、断片的なイメージがはしる。

 白い壁、整然と並ぶ演算機、そして、今よりもずっと幼い自分に、一人の男が語りかける声。

『いいかい、レイン。工学は、世界を美しくするためにある。だが、美しすぎる数式は、時に人を狂わせる。……調和ハーモニー停滞スタグネーションは紙一重なんだ』

「……今の声は……誰だ……?」

「レイン? どうしたの、顔色が真っ青よ!」

 ルナが駆け寄るが、レインはそれを手で制した。

「……大丈夫だ。……ただ、この街の『音』が、僕の記憶のどこかと、深く共鳴している。……この先だ。……このパイプラインの先、中枢演算室『アトラース』に、僕の記憶の断片と、この世界の歪みが眠っている」

 三人は、迷宮のような地下通路を、レインの直感だけを頼りに突き進んでいく。

 行く手を阻む自動防衛ドローン。だがレインは、それらに触れることすらしない。

 

「……ターゲット、識別コード『0x4421』。……通信プロトコルに、逆位相のノイズを混入。……そのまま、自律回路を休眠状態スリープへ」

 レインが指を鳴らすだけで、数機ものドローンが、まるで電源を切られた人形のように力なく崩れ落ちる。

 記憶を失ったことで、レインの指先から放たれる魔力は、より純粋な「命令コマンド」へと変質していた。物理法則を直接書き換えるのではなく、物理法則を「説得」して、自ら形を変えさせるような、神業的な干渉。

「……見えてきた。……あそこが、心臓部だ」

 巨大な防爆扉の向こう側。

 そこには、ネプチューンという都市を支える、想像を絶する工学の闇が広がっていた。

 

 水槽の中に浮かぶ、無数の「人工的な脳」。

 それらが電極で繋がれ、一つの巨大なネットワークを形成している。

 海洋王国の繁栄を支える「全自動演算」の正体は、数千人もの魔導師たちの脳を演算資源リソースとして利用する、禁忌のシステムだった。

「……なんてこと。……これが、あの美しい街の正体なの……?」

 ルナが激しい嫌悪感に顔を歪める。

 カトリーナも剣を抜き、怒りに震えた。

「……工学の徒として、これは許されるべきではありません。レイン様、今すぐこの忌々しい装置を……!」

「……待て。……誰か、いる」

 演算室の中央。

 人工脳の森の中に、一人の女性が立っていた。

 白銀のドレスを纏い、瞳には感情の欠片も見られない、美しくも無機質な少女。

 

「……ようこそ、迷える子羊。……そして、おかえりなさい。……私の、懐かしい『プロトタイプ』」

 少女の言葉に、レインの脳内で、閉ざされていた最後の扉がきしんだ。

 七人の工学賢者が一人、銀の賢者・エレノア。

 彼女こそが、レインがかつて「姉」と呼び、共に「魔法の物理化」を研究した、最大の宿敵であった。

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