第24話 深淵の王座
海面上に立ち昇る、十数本の巨大な水柱。それは自らの共鳴術式に焼き殺された海洋王国の潜水艦たちが放った、最期の断末魔の跡だった。
エメラルド湾を包んでいた「死の共鳴」は止んだ。だが、その爆心地、海流が渦巻く中心地に座す旗艦『リヴァイアサン・零式』は、未だその威容を崩していない。どころか、その船体からは、周囲の海水を蒸発させるほどの凄まじい熱気が立ち昇っていた。
「……面白い。実に見事だ、レイン・バートレット。記憶を失いながらも、君の魂に刻まれた『工学の理』は、私という賢者さえも凌駕するというのか。だが、調律師が指揮者に勝てると思うな!」
ヴォルフガングは、震える手で艦橋のメイン制御レバーを握り締めた。
彼のプライドは、すでに粉々に砕けていた。だが、軍人としての冷酷さと、工学の徒としての狂信が、彼をさらなる地獄へと突き動かす。
「全エネルギーを、主砲『プロメテウス』へ回せ! 安全装置などすべて解除しろ! 炉心が溶ける前に、あの断崖ごと、奴をこの世から蒸発させるのだ!!」
リヴァイアサンの艦首が左右に大きく開き、その奥から眩いばかりの純白の光が漏れ出す。
それは、海水を直接プラズマ化させ、磁場によって超高密度の熱線として射出する、海洋王国最強の魔導破壊兵器。一射ごとに一隻の潜水艦が廃艦になるほどの致命的な負荷がかかるが、その威力は一撃で王都の城壁をも融解させ、その裏にある居住区ごと数万人を焼き払う「神の雷」そのものだった。
断崖の上。
ルナは、膝を突き、激しく喘いでいた。先ほどの超硬化魔法による全魔力消費は、彼女の細い体にはあまりに重すぎる代償だ。彼女の視界は霞み、立っていることさえままならない。
カトリーナも、装甲を自ら外したことで防御能力を完全に失っていた。むき出しの肌に、海水の飛沫が氷のように冷たく当たり、強風にさらされる。
「レイン……逃げて。……お願い。……あの光、さっきの振動とはレベルが違う。……あれは、形のない光じゃない。……純粋な、破壊のエネルギーそのものよ。……工学魔法でどうにかできる範疇を超えているわ……」
レインは、動かなかった。
彼の視界には、主砲に収束していく膨大なエネルギーが、濁った「ドス黒い赤色」のノイズとして映っていた。それは、この世界の調和を根底から乱す、破壊のためだけに生み出された、醜い不協和音の色。
「……あんなにも……汚い数式は、人生で初めて見た気がする。……消さなきゃいけない。……あれは、僕がこの世界に遺してはいけない、最悪のバグだ」
レインが、再び連発弩を構えた。
だが、その矢筒には、もう一本も矢は残っていない。すべてのボルトは、先ほどの調律のために使い果たされていた。
「……矢がないわよ、レイン! どうするつもり!? 素手で、あの熱線を跳ね返すつもりなの!?」
「……矢なら、そこら中にあるじゃないか。……ほら、あそこに。……世界で最も強固な『矢』がね」
レインが指差したのは、リヴァイアサンから放たれようとしている、あの「死の光」そのものだった。
ルナもカトリーナも、彼の言っている意味が理解できなかった。熱線を矢にする? そんなことが可能なのか。物理現象として、エネルギーを実体化させるなどということが。
だが、レインの指先が、空中に見えない幾何学模様を描き、空間そのものを「加工」していく。
「……エネルギー保存の法則。……熱は、運動に。……破壊は、構築に。……ベクトルを反転させるだけで、すべては僕の『材料』に変わる。……ヴォルフガング。君の計算の唯一の誤りは、エネルギーを『放出すれば終わり』だと思っていたことだ」
リヴァイアサンの主砲が放たれた。
世界が白一色に染まる。視界を奪うほどの熱線が、一直線に断崖へと迫る。その温度は摂氏三千度を超え、空気そのものが悲鳴を上げて発火する。
だが、レインは引き金を引かなかった。
彼はただ、弩の銃口を熱線に向けて「全開放」した。
――ズ、ゥ、ンッ!!
衝撃波が断崖を削り、ルナたちが恐怖に目を閉じた、その時。
信じがたいことが起きた。
迫りくるはずの破壊の熱線が、レインの持つ小さな弩の銃口に、まるで吸い込まれるように収束していく。
「……!? 飲み込んだ……!? あの膨大なプラズマを、あの小さな、木と鉄の塊が!? そんなはずはない、魔導容量が違いすぎるわ!」
カトリーナの叫び。その通りだ。本来、あのエネルギーを収めるには、巨大な魔石タンクが数千個、あるいは帝都の全電力を賄うほどのバッテリーが必要だ。
だが、レインの弩の内部では、吸い込まれた熱線が「熱」として貯蔵されるのではなく、空間の位相をずらすことで「位置エネルギー」へと再定義されていた。
「……溜めすぎた。……少し、重いな。……世界が、軋んでいる」
レインの右腕の血管が、魔導過負荷によって、不気味な青紫色に浮き上がる。指先から血が滲み、白いコートが激しくたなびく。
彼は苦痛に顔を歪めることなく、弩を静かに海へと向け、深淵の底へと視線を落とした。
「……『虚無への還付』。……お返しするよ、ヴォルフガング。……君が望んだ、あの汚い光の、これが『正しい答え』だ」
レインが引き金を引いた瞬間、放たれたのは「光」ではなかった。
それは、空間そのものが円筒状に削り取られたような、絶対的な無を伴う「真空の弾丸」。
熱エネルギーをすべて「斥力」に変換し、一点に収束させた、工学の極致にして禁忌の術式。
――……。
音が、消えた。
真空弾がリヴァイアサンの艦橋に直撃した瞬間、爆発さえ起きなかった。ただ、巨大な鋼鉄の船体が、目に見えない巨大な手で握り潰されたかのように、内側へと一瞬でひしゃげた。
数万トンの質量が、ピンポン玉ほどのサイズにまで圧縮され、その直後に訪れた二次的な爆縮が、海面を巨大なクレーターのように抉り取った。
「……あり、え……。……これが、真の……魔法……工学……。……我らが求めていたのは……この絶望だったのか……」
ヴォルフガングは、自らの身体が原子レベルで分解され、深淵の闇へと吸い込まれていく感覚の中で、ようやく理解した。
自分たちが追いかけていたのは、レインという天才が残した「過去の遺物」に過ぎなかった。
記憶を失ったレイン・バートレットは、すでに数式の外側――世界の「意志」そのものを直接演算する、神の領域へとその足を一歩踏み出していたのだ。
リヴァイアサン・零式が、静かに、だが確実に、海中の塵へと還っていく。
海洋王国の誇る無敵艦隊は、一人の少年の「調律」によって、文字通り歴史から抹消された。
「……終わった……の?」
ルナが恐る恐る目を開ける。
そこには、かつての冷徹な軍師の面影はなく、ただ、少し疲れたような顔で、赤く焼けた自分の右手を見つめる少年がいた。
「……不協和音が消えて、ようやく……潮騒が聞こえるようになった。……ルナ、カトリーナ卿。……少し、眠ってもいいかな。……今の僕の脳には、この海が奏でる情報の多さは、少し……広すぎるみたいだ」
レインは、二人の腕の中に吸い込まれるように倒れ込んだ。
エメラルド湾の戦いは、こうして幕を閉じた。
だが、これはまだ海洋王国の、いや、五大列強の全力を相手にした戦いの序曲に過ぎない。
ヴォルフガングの敗北は、すぐさま他の「賢者」たちの元へと知らされるだろう。そして世界は、記憶を失いながらも「再起動」したレインを、再び排除すべき異分子として、あるいは手に入れるべき至宝として、その魔手を伸ばし始める。
――レイン・バートレット。
彼は、かつての知識を失った。
だが、世界はその代わりに、彼に「真理を聴く耳」を与えた。




