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刻印の徒  作者: 生クリーム王子
第2章『機神の不在、列強諸国の狂騒曲』

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第23話 共鳴する殺意

エメラルド湾の翡翠色の海面が、不気味なほどに凪いでいた。先刻まで荒れ狂っていたキャビテーションの衝撃波――海水を真空の刃へと変える絶望の術式――が、レインの放った一矢によって打ち消された結果だが、それは真の救済ではなく、嵐の前の静寂に過ぎなかった。

 海面下、深度四百メートル。そこには、太陽の光を完全に拒絶する漆黒の鋼鉄が、巨大な鯨のように潜んでいる。海洋王国アクア・レギウスの誇る絶対旗艦、潜航魔導艦『リヴァイアサン・零式』。その艦橋ブリッジは、青白い計器の光に照らされ、静かな狂気に満ちていた。

「……面白い。実に面白い。私の『振動術式』を、逆位相の干渉で無効化するとはな。記憶を失ったというのは、やはり世界を欺くための高度な情報戦だったか。レイン・バートレット」

 蒼き賢者・ヴォルフガングは、血走った瞳を全天周囲ホログラムに向け、乾いた笑いを漏らした。彼の手元には、湾内の魔力密度と水圧分布をリアルタイムで解析する立体演算図が展開されている。

「だが、一度の成功が永劫の勝利を約束するものではない。流体力学の真髄は、連続性にこそあるのだから。……全艦、第二共鳴形態へ移行せよ。出力の最適化は不要だ。炉心を焼き潰してでも、海そのものを『死の共振体』へと変えろ。目標、断崖上の特異点レイン

 リヴァイアサンの周囲に随伴していた十数隻の小型潜水艦が、一斉に特殊な超音波発信機を展開する。それは単なる魚雷や爆弾ではない。海水の分子運動を特定の周波数で強制同期させ、湾内全体を一つの「巨大な共鳴箱レゾナンス・ボックス」へと変質させる、ヴォルフガング独自の広域殲滅術式『共鳴破砕陣きょうめいはさいじん』の完成形だ。

 断崖の上。

 レインは、膝を突き、自らの右耳を冷たい岩盤に強く当てていた。

 土の粒子が、微かに震えている。それは足音ではない。地下の岩盤を伝わり、深海から押し寄せる「死の旋律」だ。彼の脳内には、かつての記憶の代わりに、その振動が「不気味な赤紫色の波形」として映し出されていた。

「……レイン、何が見えているの? 海が……海の色がおかしいわ。底から何かが、せり上がってきているみたい」

 ルナが震える指で海を差す。先ほどまで静止していた海面が、不自然な幾何学模様を描きながら細かく波打ち始めていた。それは風による自然な現象ではない。海水の底部から、全方位的に突き上げてくる物理的な共振。その震えは、レインたちが立つ断崖さえも、まるで巨大な鐘のように鳴らし始めていた。

「……低周波振動。……一、三、五……奇数倍音の累積るいせきだ。……彼らは海を楽器に変えて、僕たちを『音』で粉砕しようとしている。……逃げても無駄だ、ルナ。……この振動は、岩盤を通じて半径十キロメートル以内のすべての生物の細胞を、内側から共鳴させ、沸騰させ、破裂させる」

 レインの声は、自分でも驚くほど冷徹だった。以前の彼であれば、ここで「損害予想」を即座に計算し、最も効率的な防衛ラインを構築していただろう。だが今の彼が感じているのは、数ではなく「不協和音」への強烈な、生理的な不快感だった。美しい数式を泥で汚されたような、耐え難い感覚。

「……カトリーナ卿。……悪いが、君の持っている『魔導重装甲』の接続プラグを、すべて外してくれ。……僕が今から、君を『巨大な調律器』にする」

「……なっ、これを外せば私の防御力は皆無になります。……ですが、レイン様がそう仰るなら、この命、最初から貴方に預けております!」

 カトリーナは迷うことなく、自らの命を支える重装甲の外部ロックを解除した。蒸気が噴き出し、厚い装甲板が緩む。レインはその隙間に手を差し入れ、装甲板の一つひとつに触れていく。彼の指先からは、言葉や意味を伴わない、純粋な「工学の魔力」が染み込んでいった。

 彼が指を滑らせるたび、重厚な魔導合金の表面には、人間の手業とは思えぬほど緻密な、ナノ単位の「極小の溝」が刻まれていった。それは、特定の周波数を吸収し、増幅し、別の波形へと変換するための「物理的メタマテリアル構造」。

「……ルナ、君の魔法で、僕たちが立っているこの断崖の『硬度』を、一時的に一万倍まで引き上げてくれ。……脆い土のままでは、僕がこれから鳴らす音が、すべて吸収されて消えてしまう。……この岩石を、世界で最も硬い『共鳴板』に変えるんだ」

「一万倍!? ……そんなの、私の全魔力を使い切っても、数秒……いや、三秒が限界よ!」

「三秒でいい。……三秒あれば、僕は世界の音を書き換えられる」

 レインの瞳が、青白い光を帯びて発光する。脳の奥底で、かつての記憶の断片が火花を散らす。

 海からの「死の歌」が、ついに臨界点に達した。海面が数十メートルも盛り上がり、巨大な水の壁が、物理法則をあざ笑うかのように宙を舞い、断崖へと襲いかかる。ヴォルフガングの『共鳴破砕陣』が、ついにその牙を剥いた瞬間だ。

「……調律、最終段階ファイナル・チューニング。……カトリーナ卿、その盾を地面に叩きつけろ! ……ルナ、今だ!」

 カトリーナが絶叫と共に全力で盾を打ち据え、ルナが断崖に全魔力を注ぎ込み、岩盤を「金剛石以上の硬度」へと変えた。その刹那。

 ――キィィィィィィィィィィィンッ!!

 鼓膜を突き破り、魂を削り取るような超高音が、世界を支配した。

 レインが施した装甲板の微細な溝が、海からの共鳴エネルギーを吸い込み、それを超高周波の「カウンター・メロディ」へと変換して解き放ったのだ。

 

 激突し、干渉し合う二つの音。

 空間そのものがきしみ、断崖の先端が分子レベルで激突し、火花を散らす。海水の壁は、レインの放った逆位相の波に触れた瞬間、その「構造」を維持できなくなり、ただの飛沫しぶきとなって崩れ落ちた。

 

「……馬鹿な! ……物理的にあり得ん! ……音響エネルギーを逆利用して、こちらの指向性を完全に中和したというのか!? それも、即興で刻んだ溝だけで!?」

 リヴァイアサン艦内。ヴォルフガングは、モニターが真っ白なノイズで埋め尽くされ、艦体が悲鳴を上げるのを見て絶叫した。

 彼の計算では、この一撃でエメラルド湾は消滅し、帝国西部の防衛拠点は地図から消えるはずだった。

 だが現実に起きたのは、海面下で共鳴を維持していた十数隻の潜水艦たちが、レインが送り返した「正解の音」による過剰共振に耐えきれず、自らの船体構造そのものを粉砕されていく光景だった。

「……不協和音は、消えた。……次は、指揮者の番だ」

 レインは立ち上がり、記憶を失ったはずの手で、空中に複雑な魔法陣を「物理的に」描き始めた。

 それは以前の彼が好んで使った「効率の塊」ではない。

 どこか優美で、流麗な、自然の摂理を取り込んだ新しい工学。失った記憶の空白を、世界の真理が埋めていく。

「……行くよ、二人とも。……海が呼んでいる。……僕たちの、新しい歌を。……そして、僕自身の、本当の名前を」

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