第22話 流体魔導の脅威
エメラルド湾は、かつて帝国で最も美しいと言われた貿易拠点であった。
切り立った断崖に囲まれたその入り江は、天然の良港として栄え、翡翠色の海面は常に穏やかで、多くの商船が行き交っていた。だが、今レインたちの目の前に広がっているのは、かつての輝きを失った、絶望的な破壊の跡地である。
「……何という事でしょう。砲声一つ聞こえなかったのに……」
カトリーナが絶句する。
眼下の湾内に停泊していた帝国の護衛艦隊。その最新鋭戦艦三隻が、何の爆発現象も見られないまま、まるで巨大な見えない怪物に喰い千切られたかのように、船底から真っ二つに割れて沈みゆく。
海面には黒い重油が広がり、生存者たちが救助を求めて叫んでいるが、その救助艇さえもが、波打ち際で突然「霧散」するように崩壊していく。
「レイン、早く何とかして! 敵の姿が見えないわ。空にも、海にも……魔力の光さえ見えないのに、どうしてこんなことが起きるのよ!」
ルナが双眼鏡を握りしめ、必死に周囲を索敵するが、彼女の優れた魔力感知能力をもってしても、敵の正体は掴めない。
レインは静かに一歩前へ出た。彼は、断崖の先端で目を閉じ、海から吹き上げる湿った風を、全身の細胞一つひとつで受け止めた。
彼の視界には、海面下に渦巻く、複雑怪奇な魔力の「流れ」が、極彩色の糸となって可視化されていた。それはもはや三次元の視覚ではない。時間軸をも含んだ、多次元の「リズム」の観測である。
「……計算、いや、『調律』開始。……カトリーナ卿、足元の石を一つ拾ってくれ。……できるだけ重く、硬い、玄武岩がいい」
カトリーナから受け取った黒い石を、レインは海に向かって軽く放り投げた。
石が海面に触れた瞬間、パシャリという水音ではなく、ギュィィィィィンという、金属をグラインダーで削るような不快な音が響いた。石は一瞬にして、砂よりも細かい粒子へと粉砕され、霧のように消えた。
「……なるほど。これが『蒼き賢者』の回答か。……流体そのものを『絶対的な切断機』に変質させている」
「レイン、どういうこと? 水が石を砕いたの?」
「……ルナ、物理現象には『キャビテーション』という概念がある。……流体の圧力を魔力で局所的に、かつ爆発的に低下させると、水中に微細な真空の泡が発生する。……その泡が崩壊する瞬間に発生する衝撃波は、数千気圧にも達し、鋼鉄の装甲をも容易に穿つ。……敵は潜航艦から、この湾内の固有振動数に合わせた特殊な魔力波動を送り込み、海そのものを『超音速のジェット噴流』へと変えているんだ」
「海そのものが武器だっていうの!? そんなの、防げるわけないじゃない!」
ルナが絶望的な声を上げる。だが、レインの表情には、焦りも恐怖もなかった。
むしろ、かつての「機械的な効率主義」を超越した、どこか慈しみさえ感じさせる微笑みが浮かんでいた。
「……物理的な壁では、この連鎖反応は防げない。……ならば、海に『新しい楽譜』を書き込むまでだ。……カトリーナ卿、弩を。……それと、君の持つ『剛毅』の波長を、僕の指先にリンクさせてくれ。……今の僕には、君の揺るぎない意志という名の『低音』が必要だ」
レインはカトリーナから受け取った連発弩を、まるで壊れやすい楽器を扱うように、繊細な手つきで調整する。
ネジを緩め、魔石の配列を円環状に組み換え、弦を張り替える。その動作一つひとつが、周囲の空気の波長を変えていく。
「……ルナ。……君の魔法は、まだ『願い』の成分が強すぎる。……それを五秒だけ、純粋な『静寂』のイメージに変換して、この弩の銃口に注いでくれ。……波一つない、鏡のような湖面のイメージだ」
「……分かったわ。……静寂……。争いのない、静かな……眠り……!」
ルナが祈りを捧げ、カトリーナがレインの肩に手を置く。
記憶を失う前には決してできなかった「他人との同期」。三人の意識が一つに繋がった瞬間、レインの放った矢は、青白い光の尾を引きながら海へと吸い込まれていった。
――ドォォォォォン!!
水中で、巨大な水柱が上がった。
だがそれは爆発ではない。乱れきった海の振動を、レインの矢が放った「逆位相」の波動が瞬時に中和し、一帯の海を強制的に「静止」させたのである。
衝撃波を失ったキャビテーションの泡は、行き場を失ったエネルギーとして逆流し、深海に潜んでいた海洋王国の潜水艦を、内側から圧壊させた。
「……命中。……だが、不協和音の源はまだ消えていない」
レインは、水平線の向こう側、漆黒の巨大な影として迫る、海洋王国の旗艦『リヴァイアサン』を凝視した。
「……ヴォルフガング。……君の計算は美しいが、あまりに冷たすぎる。……世界は、君が思うほど単純な数式ではないことを、僕が教えてあげよう。……失われた記憶の代わりに、僕が見つけた『真理』をもって」
記憶を失い、より「本質」に近い力を手に入れたレイン・バートレット。
今、エメラルド湾の血塗られた海面で、激しく幕を開けた。




