第20話 神の再起動、あるいは終わりの始まり
帝都グラナダの空を覆った「空間崩壊」の光は、レイン・バートレットという存在の犠牲によって消滅した。
だが、それが平和の訪れを意味するものではなかった。むしろ、一人の「制御者」が消えたことにより、世界という名の巨大な演算機は、主を失って暴走を始めたのである。
――脳内システム、非常時再起動。
――セーフモードからカーネル・モードへ移行。
――全データのバックアップを『脊髄魔導回路』へ退避済み。
レインが王宮の床で深い眠りに落ちていた、その最中。
彼の意識の深淵では、人間としての「記憶」を燃料にして焼き上げられた、全く新しい『演算言語』が産声を上げていた。
それは、もはや前世の知識に頼るものではない。
失われた思い出の「空白」そのものを変数として利用する、禁断の工学術式――『亡霊演算』。
「……う……ぐ……」
半年後。王宮の庭園で、ルナが見守る中で目覚めたレイン。
彼は確かに、かつての「レイン・バートレット」の記憶の多くを失っていた。
ルナとの甘い思い出も、アーサーとの熱い誓いも、今はただの「インデックスが欠損したデータ」に過ぎない。
だが、彼が失ったのは「意味」であって、「機能」ではなかった。
「レイン、どうしたの? 具合が悪いの?」
ルナが心配そうに覗き込む。
その瞬間、レインの視界には、ルナの背後に広がる「世界の綻び」が映り込んでいた。
北の亡命貴族、西の海洋王国、南の神聖教団、そして東の暗黒大陸。
ゼノという一人の狂人が遺した種火は、すでに世界全土へと飛び火し、各国が『工学魔法』の軍事転用を競い合う「大魔導工業時代」が幕を開けていたのだ。
「……ルナ。……僕は、自分が誰なのか、まだ完全には思い出せない」
レインはゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、以前の冷徹な「機械の輝き」ではなく、どこか哀しみを帯びた、だがより深く鋭い「真理の光」が宿っていた。
「でも、分かるんだ。……この世界が今、間違った数式で書き換えられようとしている。……ゼノ先生が遺した『呪い』は、帝都を壊すことじゃなかった。……世界そのものを、僕が作った『工学魔法』という戦場に引きずり出すことだったんだ」
レインの手が、何もない空間に触れる。
すると、虚空から青白いノギスのような光の定規が現れ、空気中の魔力密度を測定し始めた。
記憶を失う前よりも、はるかに素早く。はるかに精密に。
「記憶は消えた。……でも、僕の細胞の一つひとつが、計算の仕方を覚えている。……これは、もう消せない『呪い』なんだよ」
王宮の外では、隣国オルレアン公国が最新鋭の「魔導潜水艦」を進水させたという報せが入り、西の海洋王国は「魔導空母」を建造中だという噂が飛び交っている。
帝国一国の内乱に過ぎなかった火種は、今や「五大陸すべてを巻き込む世界大戦」へと膨れ上がっていた。
「ルナ。僕は、君と一緒にタルトを食べる日々を守りたい。……でも、そのためには、この世界全土に広がった『間違った計算式』を、僕がこの手ですべて解き明かさなきゃいけない」
レインは庭園に置いてあった、壊れかけの魔導連発弩を拾い上げた。
彼が軽く触れただけで、弩の内部構造は再構成され、失われたはずの『プラズマ収束回路』が、以前の数倍の出力で励起し始める。
「……第2部、開始。……目標は、全列強諸国の武装解除、および世界魔導管理条約の締結。……これより、一万キロに及ぶ『工学の行軍』を開始する」
レイン・バートレットは、もはや「帝国の軍師」ではない。
彼は、混沌に向かう世界という数式を、唯一正解へと導くことができる『世界の計算機』へと進化したのだ。
彼の背後で、カトリーナが膝をつき、ルナが覚悟を決めたように彼の隣に立つ。
「ルナ。……君の名前と、君が僕を助けてくれたことだけは、魂が覚えている。……だから、僕が僕でなくなるその日まで、僕の隣で、僕が人間であることを証明し続けてくれ」
「……当たり前でしょ。バカなレイン」
これはまだ「序章」の終わりに過ぎない。
レインたちの前には、まだ見ぬ未知の技術、数百万の魔導兵器、そしてゼノを超える「七人の工学賢者」が待ち受けている。
――記憶残存率:測定不能。
――人格再構成:完了。
少年は、広大な大陸の地図を見据えた。
そこに記された数え切れないほどの戦場を、すべて「計算」で塗りつぶすために。




