第19話 忘却の果て、あるいは神の沈戻
視界のすべてが、透明な青に染まっていく。
帝都グラナダの空を覆い尽くそうとしていた紫色の「空間崩壊」の波。それが、俺の身体から解き放たれた膨大な、そして純粋すぎる魔力の奔流と衝突し、パリンと小気味よい音を立てて砕け散った。
ゼノが遺した呪いの種子は、俺の命を燃料とした『絶対否定』の障壁によって、塵一つ残さず消滅した。
――記憶残存率:三十二・四パーセント。
脳内は、もはや瓦礫の山だった。
消えたのは、「数学の美しさに感動した記憶」。
消えたのは、「この世界を救いたいと願った正義感」。
消えたのは、「工学魔法という知識そのもの」。
俺は、統合演算座から崩れ落ち、冷たい大理石の床に這いつくばった。
指一本動かすための「命令の出し方」すら、今の俺には分からない。
脳という名の演算装置はオーバーヒートを起こし、情報の海で溺れている。
「……あ……、あ…………」
喉から漏れるのは、言葉にならない掠れた音だけだ。
帝都を管理していた『ゼウス』は、主人である俺の崩壊に伴い、その全機能を停止した。
街中の魔導伝導体から光が消え、人々を束縛していた「管理の枷」が外れる。
人々は、突然の自由と、そして突然の混乱に戸惑い、街へと溢れ出した。
王宮の扉が、再び開く。
今度は一人ではない。
生き残ったカトリーナ、そして民衆を率いるルナ。
彼女たちは、王座の前で無様に倒れている、かつての「独裁者」であり「救世主」であった俺を見つめた。
「……レイン様!!」
カトリーナが駆け寄り、俺の体を抱き起こす。
彼女の目には、憎しみではなく、痛ましいものを見るような慈悲が宿っていた。
だが、今の俺には、彼女が誰であるかも分からない。
――記憶残存率:十二・〇パーセント。
消えたのは、「アーサーという親友がいたこと」。
消えたのは、「自分にカトリーナという部下がいたこと」。
俺の意識に残っているのは、ただ一つ。
目の前にいる、蒼い瞳をした少女の「輪郭」だけ。
それが何であるか、名前すらも忘却の彼方へと消え去ろうとしていた。
「レイン、しっかりして! ……見て、街のみんなが助かったよ。あなたが、自分を犠牲にして……私たちを守ってくれたんでしょう?」
ルナの声が、霧の向こう側から聞こえる。
彼女の手が、俺の頬に触れる。
――記憶残存率:五・八パーセント。
ついに、臨界点を越えた。
「レイン・バートレット」という人格を構成していたすべての経験、知識、技術、そして執着。
それらが砂時計から落ちる砂のように、一粒残らず消えていく。
俺は、自分が誰であるかを失った。
自分がなぜ泣いているのかも分からなくなった。
ただ、彼女に触れられたその場所が、どうしようもなく切なく、愛おしいということだけが、魂の最下層に「原初の感情」としてこびり付いていた。
「……き……み…………は…………?」
俺の唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
その言葉を聞いた瞬間、ルナの顔が崩れた。
彼女は俺を強く抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。
「……ルナだよ。……ルナ・アルストロメリア。……あなたの、一番の『ノイズ』だよ」
ルナ。
その響きが、空っぽになった俺の脳内に、唯一の光として灯った。
――記憶残存率:〇・〇一パーセント。
最後の記憶が、消えようとしている。
それは、前世の俺が死ぬ間際、この世界に転生する瞬間に抱いた、ただ一つの願い。
『次は、誰かと……笑い合える人生を』。
「……る……な…………」
俺は、彼女の名前を最後に呼び、深い、深い眠りへと落ちた。
半年後。
帝都グラナダは、かつての美しさを取り戻しつつあった。
管理システムによる強制的な平和ではない。
人々が自らの意思で瓦礫を片付け、自らの意思で語らい、自らの意思で笑う。
そこには、非効率で、騒がしく、けれど温かい「人間」の営みが戻っていた。
王宮の庭園、花が咲き乱れる小さな丘の上。
そこには、一人の少年が座っていた。
彼は、かつて帝国の軍師として、そして冷徹な独裁者として恐れられた面影を、どこにも持っていなかった。
ただ、穏やかな、少し頼りない顔立ちをした、十四歳ほどの少年。
「……あ、お花。……きれいだね」
彼は、ひらひらと舞い落ちる花びらを追って、無邪気に笑う。
かつての膨大な知識も、神のごとき演算能力も、すべては失われた。
今の彼には、簡単な足し算と、自分の名前、そして「花を美しいと思う心」しかない。
「レイン。おやつの時間だよ。今日は……あなたが大好きな、イチゴのタルトを作ってきたの」
丘の下から、エプロンをつけた少女が声をかける。
少年は、ぱっと顔を輝かせた。
「ルナ! ……タルト、大好き! ……早く食べよう!」
彼は駆け出し、少女の元へと飛び込んでいく。
かつてのように「ノイズ」を嫌う軍師は、もうどこにもいない。
彼は今、世界で最も騒がしく、最も予測不可能な「情緒」という海の中で、幸せそうに泳いでいた。




